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見えない家事、見えない私  作者: 櫻木サヱ
いつもの朝が重い

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5/29

おかえりの温度

玄関のドアが開き、閉まる音がリビングに響く。

「おかえり」

思わず出た声は、あまりにも自然で、でも空虚だった。

返ってきたのは、短く「ただいま」だけ。

その間に漂う沈黙が、まるで凍った廊下のように胸を締めつける。


悠介はコートを脱ぎながら、軽く笑う。

「今日も寒かったな。暖房、つけてないの?」

その声には微かな気遣いが含まれているのだろうけれど、私には届かない。

“優しさ”じゃなく、“温度”がほしかった。

言葉ではなく、行動で感じられるものが欲しかった。


思わず口をついて出た。

「違う!あなたが言ったの!」

節約のために暖房を我慢しようと言ったこと、夕飯の片付けを「あとでやる」と流されたこと。

小さな約束のひとつひとつが、今日も私の中で積もっていた。

怒りと寂しさが、一気にあふれた瞬間だった。


悠介は一瞬目を丸くして、手を止める。

「そんなに怒るなよ。俺だって疲れてる」

その言葉に、私の胸がぎゅっと縮まる。

疲れているのは私も同じだ。

でも私の疲れは、誰にも見えない。

“疲れている”というだけで、自分の都合を通す免罪符になる人がいるのを、今日も思い知らされた。


リビングのテーブルに手を置き、食器を片付けながら、目の前の現実を確認する。

子どもは寝室で眠り、安心した寝息を立てている。

その小さな命の温もりだけが、私をこの空間に縛り止める唯一のものだった。

悠介は背後でスマホをいじる音だけで存在を示し、何も言わない。

隣にいるのに、心の距離は遠く、冷たいまま。


ふと、窓の外を見た。夜の風が街灯の光を揺らす。

その冷たい光が、部屋の中の温度よりもずっと鮮明に感じられる。

この家の中の温度も、私たち夫婦の距離も、少しずつ凍っていく気がした。

手を伸ばせば届くはずの夫に、どうしても触れられないような気がする。


胸の奥で、小さな声が繰り返す。

――この家で、私の声は届いているのだろうか。

毎日、同じ光景の中で、同じ沈黙の食卓の向こうで、私だけが叫びを押し込めている。

その声は、夫に届くのだろうか。

それとも、今日もまた、ただ流れていくだけなのだろうか。


私は深く息をつき、食器を洗い、テーブルを拭く。

夕飯の湯気が、少しだけ部屋を温めるけれど、私の胸の奥の冷たさを溶かすには届かない。

悠介は横でテレビの音に集中し、子どもは寝息を立てる。

二人の世界の中で、私だけが別の温度で生きている。


夜が更けていく。

家族と同じ家にいながら、私は孤独を抱えている。

“おかえり”の一言の温度が、今日も届かないまま。


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