保育園までの道
朝、玄関のドアを閉めると、冷たい風が頬をかすめた。
「ママ、さむいね」
息子の小さな手を握りながら、美沙は笑った。
「うん、でもマフラーあるから大丈夫だよ」
歩道の落ち葉を踏むたび、カサカサと音がする。
それはまるで、季節の終わりが足元で鳴っているようだった。
通勤ラッシュの車が並ぶ道の向こう、信号待ちをしているサラリーマンたち。
みんな急ぎ足で、無言でスマホを見ている。
その中に、夫の悠介もいるのだろうか――
そう思いながら、ふとポケットの中のスマホを見る。
メッセージアプリには、昨夜の「明日も早いから先寝るわ」で止まったままの画面。
“おはよう”も、“いってらっしゃい”もない朝が、もう日常になっていた。
「ママ、見て! お花!」
道端のタンポポを指さして息子が笑う。
その笑顔に、胸の奥がじんわりと温まる。
でもその一方で、頭の片隅に浮かぶ。
――私は、いつから笑顔を作るのが下手になったんだろう。
保育園の門が見えてくる。
息子は嬉しそうに走り出す。
「ママ、バイバイ!」
元気な声。小さな背中。
その姿が園の中に消えていくと、突然、静けさが押し寄せた。
門の外に立ち尽くす自分だけが、世界から取り残されたみたいだった。
周りのママたちが笑顔で話している。
「うちの旦那、昨日ご飯作ってくれてさ~」
「いいなぁ、うちは相変わらず何もできないよ~」
笑いながらも、どこか羨望と諦めの混じった声。
美沙はその輪に入らず、会釈だけして通り過ぎた。
誰も悪くないのに、誰も本当のことを言わない。
“つらい”って言うことすら、なんだか負けのような気がして。
家に帰る途中、信号の前で立ち止まる。
ガラスに映る自分の姿が目に入る。
寝ぐせを隠すために結んだ髪、慌ただしく塗ったファンデーション。
「誰?」
思わず口から漏れた声に、自分で驚いた。
そこにいるのは、“お母さん”の顔をした“私”であって、
本当の“私”ではない気がした。
ポケットの中のスマホが震える。
画面を見ると、悠介からのメッセージ。
《今日、飲み会になった》
その一文だけ。絵文字も、気遣いの言葉もない。
小さくため息をつき、スマホを閉じた。
胸の奥で、何かがすうっと冷えていく。
家までの帰り道、風が少し強くなった。
コートのポケットに手を突っ込みながら、美沙は空を見上げた。
高い空の下で、誰も私のことなんて見ていない。
だけど、あの小さな手の温もりだけは、まだ指先に残っていた。
その温もりを確かめるように、そっと拳を握る。
――今日も一日、頑張らなきゃ。
口に出すと、少しだけ涙がこぼれそうになった。
頑張ることが、いつの間にか自分の“義務”みたいになっている。
それでも、立ち止まることはできない。
家に帰れば、洗濯物が待っている。
沈黙のリビングが、また私を迎えてくれる。




