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見えない家事、見えない私  作者: 櫻木サヱ
いつもの朝が重い

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3/28

保育園までの道

 朝、玄関のドアを閉めると、冷たい風が頬をかすめた。

 「ママ、さむいね」

 息子の小さな手を握りながら、美沙は笑った。

 「うん、でもマフラーあるから大丈夫だよ」

 歩道の落ち葉を踏むたび、カサカサと音がする。

 それはまるで、季節の終わりが足元で鳴っているようだった。


 通勤ラッシュの車が並ぶ道の向こう、信号待ちをしているサラリーマンたち。

 みんな急ぎ足で、無言でスマホを見ている。

 その中に、夫の悠介もいるのだろうか――

 そう思いながら、ふとポケットの中のスマホを見る。

 メッセージアプリには、昨夜の「明日も早いから先寝るわ」で止まったままの画面。

 “おはよう”も、“いってらっしゃい”もない朝が、もう日常になっていた。


 「ママ、見て! お花!」

 道端のタンポポを指さして息子が笑う。

 その笑顔に、胸の奥がじんわりと温まる。

 でもその一方で、頭の片隅に浮かぶ。

 ――私は、いつから笑顔を作るのが下手になったんだろう。


 保育園の門が見えてくる。

 息子は嬉しそうに走り出す。

 「ママ、バイバイ!」

 元気な声。小さな背中。

 その姿が園の中に消えていくと、突然、静けさが押し寄せた。

 門の外に立ち尽くす自分だけが、世界から取り残されたみたいだった。


 周りのママたちが笑顔で話している。

 「うちの旦那、昨日ご飯作ってくれてさ~」

 「いいなぁ、うちは相変わらず何もできないよ~」

 笑いながらも、どこか羨望と諦めの混じった声。

 美沙はその輪に入らず、会釈だけして通り過ぎた。

 誰も悪くないのに、誰も本当のことを言わない。

 “つらい”って言うことすら、なんだか負けのような気がして。


 家に帰る途中、信号の前で立ち止まる。

 ガラスに映る自分の姿が目に入る。

 寝ぐせを隠すために結んだ髪、慌ただしく塗ったファンデーション。

 「誰?」

 思わず口から漏れた声に、自分で驚いた。

 そこにいるのは、“お母さん”の顔をした“私”であって、

 本当の“私”ではない気がした。


 ポケットの中のスマホが震える。

 画面を見ると、悠介からのメッセージ。

 《今日、飲み会になった》

 その一文だけ。絵文字も、気遣いの言葉もない。

 小さくため息をつき、スマホを閉じた。

 胸の奥で、何かがすうっと冷えていく。


 家までの帰り道、風が少し強くなった。

 コートのポケットに手を突っ込みながら、美沙は空を見上げた。

 高い空の下で、誰も私のことなんて見ていない。

 だけど、あの小さな手の温もりだけは、まだ指先に残っていた。

 その温もりを確かめるように、そっと拳を握る。


 ――今日も一日、頑張らなきゃ。

 口に出すと、少しだけ涙がこぼれそうになった。

 頑張ることが、いつの間にか自分の“義務”みたいになっている。

 それでも、立ち止まることはできない。

 家に帰れば、洗濯物が待っている。

 沈黙のリビングが、また私を迎えてくれる。


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