見えない壁の向こうへ
夜。
美沙は、いつものように食器を片付けていた。
夫の食器、子どもの食器、自分の食器。
どれも同じ皿なのに、まるで重さが違うように感じる。
「ありがとう」のひと言を期待することは、もうやめた。
何度求めても、返ってくるのは「悪気のない無関心」ばかりだった。
悠介は今日も、スマホを見ながら「風呂まだ?」とだけ言う。
その声を聞いた瞬間、美沙の胸の奥で、何かが“カチリ”と音を立てた。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、「あぁ、もうこれ以上は期待しない」と、静かに線を引いた音だった。
子どもが寝静まったあと、ソファに座って天井を見上げる。
そこには、何もない。
けれど、その“何もなさ”が、少しだけ美しく思えた。
「ここから先は、私が決める」
心の奥で、そんな言葉が浮かぶ。
かつて、美沙は“家族”という形にすがっていた。
その形を守るために、自分を犠牲にしてきた。
でも、形ばかり守っても、中身が壊れていくのなら――
それはもう、愛ではないのかもしれない。
「おやすみ」とだけ言い、寝室へ向かう。
悠介は背を向けたまま返事をしない。
その沈黙が、かえって答えのように思えた。
布団に横たわり、天井を見つめる。
もう涙は出ない。
疲れ果てて、泣く気力さえなくなっている。
けれど、その静けさの中に、奇妙な“安堵”があった。
「私はもう、嘘をつかない」
そう小さく心の中でつぶやく。
それは、誰にも聞こえない声。
けれど、美沙にとっては“最初の一歩”だった。
見えない壁の向こうに、まだ何があるのかはわからない。
けれど、そこへ向かう覚悟だけは、確かに生まれていた。
彼女は、明日も同じ朝を迎えるだろう。
同じ家事、同じ言葉、同じ沈黙。
でも、その中で美沙の心はもう、昨日のままではいられない。
静かな夜。
見えない壁の向こうに、確かに“自分”がいる気がして、
美沙はゆっくりと目を閉じた。




