後編 どんな夫婦もかつては他人だった
結論から言うと、ビルティオーゼは見目麗しい妙齢の女性に成長していた。全体的に細いのに出るところは出た体、まん丸だった顔つきはシュッと引き締まり非常に整い、長い水色の髪がさらさらと零れ落ちた。
かつて天使と例えられたその容姿は一夜にして女神と例えられる程に成長していた。
「やはりイルブムの花の効果は抜群だな。一夜にして体を成長させてしまうとは」
今は成長とともにとんでもない長さに伸びた髪の毛を侍女に切ってもらっていた。鏡に映る自分を見るたびに知らない人が映ったのかと思うほどに急成長を遂げていた。
「君の場合は抑えていたものが一気に放出されたのだろう、成長期を過ぎていたためもはや見た目は変わらないかもと懸念していたがこれは僥倖だ」
何となくだが体の調子も良くなった気がする。持て余していた魔力は体に収まり、もはや魔力暴走を心配する必要はなくなった。
「イルブムの花の種子も幾つか取ってきてよかった、これを栽培し魔力障害との関係について研究しよう」
「…………あの」
ビルティオーゼは鏡の端に映るヴィカーレに目をやった。彼は腕を組み得意げそうに笑っている、まるでいつも通りだが明らかにいつもとは違った。
「どうしてそんなに離れているのですか?」
「……適切な距離感だ」
ヴィカーレはビルティオーゼの広い部屋の角の角に佇んでいた。なんなら元々は部屋から出てドアの前からガンとして動こうとしなかったのを無理やり引き入れたのだ。その表情からは明らかに動揺の色が見てとれる、いつも決して弱味を見せようとしない彼が今はとんでもなく困惑している。そしてその原因が自分にあることはさすがにビルティオーゼも理解していた。
すると侍女に「お嬢様、終わりましたよ」と声をかけられた。鏡には、膝くらいまであった水色の髪が腰程度にまで切り揃えられている姿が映っていて、我ながらとても似合っていた。
「切り終わったか?なら朝食にしよう。君は大事をとって自室で食べなさい、私は一人で……」
見計らったように部屋を出ていこうとするヴィカーレの前にスッと歩み出てその進路を塞ぐ。急に近くなった距離にヴィカーレは後退ったがその分以上にビルティオーゼは距離を詰めた。
「……ヴィカーレ様…私怖いです。急にこんなに大きくなっちゃって、だから一人にしないでください……」
口元に手を当てて潤んだ瞳で上目遣いをしてそう言えばヴィカーレは「クッ……」と唸り声をあげ顔を背けた。しかし視線はビルティオーゼから離れられないでいてまるで囚われたように彼女の金色の瞳を見ていた。
「……分かった、分かったから。私もここで食べよう、君はここで待っていなさい」
速く逃れたいと言わんばかりにヴィカーレは了承し侍女に朝食を持ってくるように指示を出した。
その様子と反応を見てビルティオーゼが内心ヨシ!とガッツポーズをしていたことは急成長した婚約者を前に慌てふためくヴィカーレには気づかれなかった。
◆◆◆
朝食の最中もわざとらしくならない程度に彼に近づいた。体が急に大きくなりスプーンを持つのが難しいから食べさせてくれと訴えればヴィカーレは顔を背けつつもあ~んと食べさせてくれた。
午前中に行った研究室での検査でも脈を測るため首筋に触れられた時ちょっと声を出してみた。どうやら声帯も変わっていたらしく思ったよりも色っぽい声になってしまったが、ビクッとしたヴィカーレの耳が赤くなっていたので良しとする。
あれから大体数週間、彼は事あるごとにビルティオーゼから離れたがったがそれを許すビルティオーゼではない。普段のキレ者なヴィカーレなら難なく逃げられたかもしれないが今の成長したビルティオーゼを前にしたヴィカーレでは歯が立たなかった。何かあればくっついてその瞳をじっと見つめれば彼はヘビに睨まれたカエルのように動けなくなる、どんな敵を前にして怯むことのなかった彼がたった一人のか弱い女性を前にしただけでタジタジになりどんな要望でも呑んでしまうようになる。
「ヴィカーレ様!」
「……なんだ」
廊下の真ん中で警戒心を多分に含んだ視線がビルティオーゼに刺さる。しかしその視線にもまったく強さはなく反らしたいのに反らせない様子だった。
「天気もいいですし一緒に庭園を散策しませんか?」
こてんと首を傾げて甘えたように見上げればヴィカーレは「……分かった」と頷きビルティオーゼに庭園まで連れていかれた。
「きれいですね!」
色とりどりの花畑の間を通り抜けていく。振り返ればヴィカーレが深緑の瞳を細めて「ああ…きれいだ……」と口から零れ落ちるように呟いた。
ビルティオーゼはピンク色のガーベラを手折り、ヴィカーレの金色の髪の近くに持っていった。
「ふふ…ヴィカーレ様、全然似合いませんね」
ヴィカーレの彫刻のような美しさに可愛らしいピンク色のガーベラは面白い程似合わない。ビルティオーゼがクスクス笑っていると惚けたようなヴィカーレがビルティオーゼの手から花を奪い取りその水色の髪に挿した。
「君はとても似合っているな、まるで花の精のようだ」
「……!」
花びらが風に舞いたゆたう景色の中ヴィカーレが小さく穏やかに笑った。出会った時から変わらないどこか張り詰めたような雰囲気が今だけは溶解しとても愛しいものを見つめるように、ビルティオーゼだけをその深緑の瞳に映していた。
花を挿した彼の手がスルリと落ちて彼女の頬を撫でる。絹のようにきめ細かい肌に彼を見上げる潤んだ金色の瞳、ぷるんとした瑞々しい唇がいやにヴィカーレの視界に入ってくる。
彼女のことを見るたびに以前と違うのだとヴィカーレは実感した。成長した肢体にもはや数週間前の面影を見出すことはできない。唯一重なるのは顔立ちだがそれも幻想を吹き飛ばすような勢いで今の息を呑むほどの美貌に目が独占される。当然だ、天使じゃ女神に勝てるわけがない。そもそも天使が女神になったのだ、今のヴィカーレに味方なんていない。人々を救済すると謳われる天使は今やヴィカーレを狂わす存在となった。
「ヴィカーレ様…?」
不安げにヴィカーレを見上げながらビルティオーゼはそっとその大きな手に己のそれを重ねた。その小さな手から流れ込んでくる温度にヴィカーレの心は歓喜に震えた。それでも満たされない、むしろ満たされるたびにもっともっとと欲張りになるのだ。彼女が成長する前まではただ共にいるだけで満ち足りた。でも今は違う、この心を暴いてほしい、その笑顔を自分だけのものにしたい、どこにもいかないでほしい、ずっとこの屋敷で自分だけを頼ってほしい。そんなおくびにも出せないような感情が彼女を見るたびに、彼女に触れるたびどうしようもなく増していくのだ。
「――君が好きだ」
ヴィカーレの言葉にビルティオーゼはハッと息を呑んだ。月のような瞳を丸くして震える唇を抑えるようにヴィカーレを見つめた。
「……そう言ったら、君はどうする?」
ヴィカーレが茶化したように言うと、ビルティオーゼは一瞬呆気に取られたように目を見開いたがすぐに獲物を逃さない捕食者のような目でヴィカーレを見つめて答えた。
「……私もです、とそう答えます。そして抱き着いてキスをして十六歳になったら結婚します」
頬を赤らめながらヴィカーレを真剣に見つめそう告白する様子はとても目に毒だった。いじらしく愛らしい、可愛くて、美しくて、脳にグラッときてしまう。その金色の瞳に映る自分自身すらもとても尊いもののように見えた。
「そうか……ならば私は一生その言葉を言わない」
「…………え?」
緊張した面持ちでヴィカーレの言葉を待っていたビルティオーゼは彼の返答を聞くと可哀想なほど愕然とした面持ちのまま固まった。
その表情を見るだけで胸に耐え難い痛みを感じた。その痛みは幼い頃、戸籍上の母に毒を盛られた時の痛みよりもずっと酷かった。
「どう…して…ヴィカーレ様……私は、あなたのことを……」
彼女の頬に置いた手をそこに重ねられた彼女の手ごとそっと離す。その手を彼女は縋るようにギュッと弱々しい力で握りしめ、歪めてもなお愛らしい顔でヴィカーレを見つめた。
「……君に領主の息子から縁談の申し込みが来ている」
「領主の息子、ですか?」
ヴィカーレはこくんと頷き涙で赤くなった彼女の目元をその袖で拭く。ビルティオーゼは一瞬とても恨めしそうにヴィカーレを睨んだが「それで?」と怒気の孕んだ声で続きを促した。
「君は彼と縁付いたほうがいい、私と結婚するよりもよほどいい未来が待っている」
「いやです、勝手に私の幸せを決めないでください。そもそも私はヴィカーレ様と婚約しているのですよ?それを横から縁談を申し込むなどと礼儀知らずにも限度があります」
先程の失恋で悲痛にまみれた顔から臨戦態勢のように血の気の多い雰囲気に変わる。領主一族に、そしてそんな無礼者たちの要求を呑んでしまうヴィカーレに対する怒りでいっぱいになる。
「そういうことを、私にはしてもいいと平気で思っている連中なのだ。しかし君の価値には気づいている、そして領主の息子は君にぞっこんらしい。彼と結婚しても悪いようにはされないだろう」
成長したビルティオーゼを見て態度を変えたのは何もヴィカーレだけじゃない。ビルティオーゼは数週間前に無理やり呼び出されたお茶会を思い出す。
どうやらあのビルティオーゼが美しく成長したという噂を聞きつけた領主の息子に、暇つぶしとして複数人の美女とともに彼の茶会に招き入れられたのだが、美しく成長したビルティオーゼを見た途端彼は真っ赤になりどこかへ逃げていったのだ。アホらしくなってすぐ帰ったがまさか惚れられていたとは。
「それがなんです、あなたをそんな風に扱う人たちと家族になるなんて絶対にむりです。私はあなたが好きです。魔力暴走から救い、生きていくための教養を教え、病弱な体を労りついには治してしまった。あなたが私に全てを与えたのです、今更ほっぽりだすような真似はやめてください」
ビルティオーゼの剣幕にヴィカーレは「違う……」と呟き、繋がれた彼女の手をギュッと握った。
「全てを与えられたのは私の方だ。君が家族を知らなかった私に家族を与えた、愛を知らなかった私に愛を教えた、そして孤独を知らなかった私にそれが孤独だと教えた。知らなければ済んだものを君のせいで私は自分が孤独であると気付いたのだ。今更放り出すなだと?それはこちらのセリフだ、一度でも光を知ってしまえばもう元の暗闇には戻れない!」
感情を乱し声を荒げさせるヴィカーレにビルティオーゼは一瞬怯みつつも「ならなぜ!」と前のめりにヴィカーレを見据えた。
「君は自分の価値に一度気付いた方がいい。君は今や領地で領主と並んで発言力がある存在だ。領地で最も財力を持ち王族とも縁深い、君の一言で物の価値が決まり君の機嫌一つで次期領主が決まるほどに。少し前までなら君の外見は幼く子も望めないようだから、そこまでの影響力はなく縁付きたいという貴族もいなかっただろう。しかし今は違う、そんな君が一応にも領主一族の私と結婚でもすれば私は次期領主筆頭だ。そんな私や君をあの身勝手な一族が簡単に見逃すと思うか?どれだけこちらにその気はないと言っても絶対に殺そうとするだろう」
ビルティオーゼは啞然とした気持ちで彼の話を聞いていた。しかしただの妄想と断ずるには彼はあまりにも実害を受けすぎている、実際彼は前領主時代に何度も殺されかけている。彼が生き延びたのはひとえに能力の高さ故だ常人ならひとたまりもなく死んでいただろう。
「……でもだからって私に望まない結婚をしろと言うのですか!自分の幸せを投げてでも私の幸せを願っていると言うのなら全然っ私のためになっていませんよ!」
だが彼は根本的に勘違いをしている。彼はビルティオーゼがどれだけ彼を想っているか分かってない。最初は望まない結婚でも時間とともに彼のことは忘れてビルティオーゼが幸せになれると勘違いしている。
「ヴィカーレ様、私を慈愛溢れる天使が女神だとは思わないでください。私は別に誰でも愛せるような人間じゃないです、あなたはもしかしたら領主の息子とも七年以上共に過ごせば好きになると思っているのかもしれませんがそれは無理ですよ。私はあなただから好きになったんですよ!あなたじゃなかったら好きになんてなりませんでした!」
ヴィカーレは動揺したように深緑の瞳を揺らした。彼はこんなにも愛に飢えているのに自分が愛されるという想像ができてなさすぎる。彼の養育環境を考えると宜なるかなとも思うがこれはビルティオーゼの伝える愛が足りなかったということでもあるだろう。
「好きです、愛しています。賢いところも、強いところも、私にだけ優しいところも、全て好きです。あのように小さな体の時では絶対に叶わぬ想いだと分かっていましたが今は違います。あなたが私を見るたびに動揺して耳を赤らめた時の私の喜びが分かりますか?やっと手に入るかもしれないのにここでみすみす諦めるなんて真似は絶対にしませんよ」
ヴィカーレの大きな手を自身の胸元の上に持っていく。ビクッと手を引こうとした彼を決して逃さぬようにない力を振り絞ってこの張り裂けんばかりの高鳴る鼓動を聞かせる。
「あの日のように私を助けてください。私を望まない結婚から連れ出してください、私はあなたになら喜んで攫われます。あなたのいるところが私の家です。覚悟を見せてください、ヴィカーレ様」
「君は……」
ヴィカーレは彫刻のような顔を歪めると、大きなため息をつきフラフラとしゃがみ込んでしまった。作法に厳しい彼にはとても珍しい行為で、顔を覆った手から覗く深緑の瞳が恨めしそうにビルティオーゼを見た。
「……自分がどれほど難題なことを言っているのか分かっているのか?」
彼の視線に合わせてビルティオーゼもスカートの中身が見えないようにしゃがみ込み女神のような笑みを浮かべた。
「はい、そして私の好きな人はとても優秀なことも」
ビルティオーゼの誘惑めいた言葉にヴィカーレは手で覆われた顔の隙間からとても凶悪な笑みを浮かべるとスクっと立ち上がった。
「いいだろう、あの愚か者たちに裁きの鉄槌を下す。私を手伝えビルティオーゼ」
差し伸ばされた大きな手にビルティオーゼは大輪の花をも霞ませるほどの満面の笑みで己の細く白い手を重ねた。
「もちろんですヴィカーレ様!」
◇◇◇
それから大体一年後。ビルティオーゼは十六歳になった。そして今は生まれ育った領地ではなく第一王子が管理する王族の直轄地にて午後のティータイムを楽しんでいた。
「まさかここまで速く終わるとは思っていませんでした」
色とりどりの花が咲き乱れる庭園の東屋にビルティオーゼの吐息が落ちる。感心したような声にヴィカーレは紅茶を啜り一息つくと答えた。
「あの者たちの罪業が思ったよりも深かっただけだ。そしてそれを隠し通すだけの能力もなかったのだ」
穏やかに流れる風が彼の金糸の髪をサラリと通り抜ける。その表情は相変わらず仏頂面だけどとても雰囲気は柔らかかった。
あれからヴィカーレはビルティオーゼを救うために働いた。いろいろ罠を張ったり潜入したりすると彼らの過去の罪ややらかしがでるわでるわで逆に罠なのではと疑ったりもした。
そして彼らの派閥ばかりが幅を利かせ、他の派閥や彼らに家族を殺された貴族も多く、焚き付けると一瞬で燃え上がってくれた。
とは言え全てが上手くいった訳ではない。予想通りではあったが何度も脅されたし、かつて伯父たちが起こした不正を今更ながら掘り起こされたり、暗殺者を差し向けられたりなど命の危険を感じることが頻繁にあった。
ただしビルティオーゼは領地の中でも恐らく一二を争うレベルで魔力が大きい貴族だ。戦うことはできなくとも魔法によって身を守ることは簡単だった、その間にヴィカーレが敵を一掃し大抵は事なきことを得た。
そして政争が激化する頃、領主の二人目の息子を擁立することになった。なんと領主は父親の浮気の末にできた異母弟であるヴィカーレのことを下賤な血だと散々蔑んできたくせに、己も同じように不貞を働き次男を拵えたらしい。
そしてやはり血は争えないようで彼らは異分子であった次男を嫌い随分不当に扱っていたようだ。全ての元凶である領主にはお咎めなしで、領主本人も血族の蛮行に見ないふりをするところまでよく似ている。
まあ次男は私生児であったとは言えその母親が領主一族と敵対する派閥の貴族であったため祭り上げるのにちょうどいいと選ばれたのだが、ヴィカーレ自身彼に過去の自分を重ねているのかなと少し思った。
そうして約一年の策略と謀略の末に領主一族は今まで馬鹿にしてきた次男によって投獄され領主の座を奪われたのだった。
ちなみにその後、今度は領主となった次男にビルティオーゼとの婚姻をと主派閥になり舞い上がった貴族や、一応ヴィカーレも領主一族であるため投獄すべきだと言う意見が意外と多かったため、こうして今はビルティオーゼが学生時代に縁のあった第一王子の直轄地に住まわせてもらっている。
ヴィカーレが領主一族だったならば領地を出るには領主の許可のいる結婚が必要だったが、もはや彼は領主一族ではなくなった。新領主となった次男には何やら釘を刺していたみたいだしここまで追いかけるくることはないだろう。
あの領地や領主となった次男がどうなるのかは分からない。ヴィカーレは散々引っかき回しただけで後始末は全て次男に押し付けたようだし、次男もまだ十代だ。傀儡となるのかもしくは辣腕を振るうことになるのか、それはこれからの彼自身が決めることだ。それでもきっと敵対することはないだろう。
ともかくそんな激動の一年を乗り越え今ヴィカーレと共にある平穏な日々を手に入れた。一世一代の告白を断られた時はどうなることかと思ったけれど、今が最高に幸せなのだからそんなことはどうでもいいのだ。
ビルティオーゼは紅茶を啜りながらチラリとヴィカーレを見る。相変わらず彫刻のように美しい顔立ちだ、無愛想だし仏頂面だしほとんど表情は動かない。でもビルティオーゼと共にいる時だけ溶解するように和らぐその雰囲気が好きだ。ずっと長かった金髪は遠征を期に短くなってしまったがこれもとても似合っている。深緑の瞳をじぃと見つめればこちらに気付いているだろうにスイッと気まずげに逸らされる弱々しい視線がすごくかわいいと思ってしまう。
「ヴィカーレ様」
「……なんだ」
政敵にはあれだけ強気に交渉し、暗殺者には一歩も引かずにビルティオーゼを守ってくれたのにいざそのビルティオーゼを前にすると彼はこんなにも臆病になる。
「好きです、愛しています、結婚しましょう」
ビルティオーゼの熱烈な告白にヴィカーレは大打撃を受けたかのように「クッ…」と小さく呻いた。耳がほんのりと赤くなり伏せられたまつ毛がプルプルと震えている。どう考えたって脈アリだ。
ビルティオーゼはあれから、どうして彼がこんなにも自分の想いを素直に受け取ってくれないのかと考えた。その結果、自分の伝える愛の量が足りないのだと結論づけた。
政争中はそれどころじゃなかったため特に実行はしなかったが全てが落ち着いた今ビルティオーゼは毎日のようにヴィカーレに自身の想いを伝えていた。あなたはちゃんと愛されているのですよとたくさん伝えたかった。
しかし当のヴィカーレは耐えられないとでも言うかのようにバッと茶会の席から立ち上がり、断りもなしに東屋から出ていこうとした。
ここで慌ててはいけない、ビルティオーゼも素早く立ち上がり回り込むようにヴィカーレの前に立ち塞がった。
「どこへ行くのですかヴィカーレ様?」
「……執務だ、まだ決裁の仕事が残っている」
「なら私もお手伝いします。二人でやった方が速く終わりますよ」
ビルティオーゼのガンとして動かぬ笑顔にヴィカーレは逃げ出したいのに目が逸らせないようで本当に彫刻のように固まってしまった。
政争が終わりビルティオーゼが愛を囁くようになってからヴィカーレはあからさまに彼女を避けるようになった。
理由は単純で、改めて成長したビルティオーゼを見るとどうしていいか分からなくなるのだ。彼女の肢体を見るたびに、妙齢の女性に変貌した顔を見るたびに、ヴィカーレの中に混沌とした感情が湧き出てくる。
政争中はそれにずっと蓋をしていたためどうにかなったが、こうしてずっと好きだの愛してるだの言われるとまるでグツグツに詰まった何かが蓋を押し退けて出てきてしまいそうになる。
生唾を飲み込んで彼女の横を通り抜けようとする。しかしここ最近逃げられ続けたビルティオーゼは瞬時に彼の腕を掴み全体重をかけて彼を抑え込んだ。それで倒れるほどヴィカーレは軟じゃなかったが結果的に東屋の壁に追い込まれてしまった。
ヴィカーレが戸惑っている間にビルティオーゼは逃げ道を塞ぐように壁に手をついて、イタズラが成功したように笑った。
「捕まえました」
そう。一番の問題は他でもない彼女自身がヴィカーレの混沌とした感情をぶつけてもいいと言っていることだった。彼女に愛の言葉を囁かれるたびに脳にガンと殴られたような衝動が走る。顔も体も香りも声も以前のものとはまるで違う、その違いを意識するだけでおかしくなりそうになる。
ヴィカーレとしては最初から結婚するつもりなどなかった。自身と彼女との間に結ばれた婚約は言わば人命救助であり浮ついた気持ちなど一切なかった。けれど彼女はヴィカーレに家族を教えた。温かくそばにいるだけで癒される、そしてそれを愛と呼ぶのだということも。同時に自身が孤独であったということも。
きっとヴィカーレは普通の男ではない。今だって目の前に迫る大切な女性を前にどうすればいいかまるで分からない。
「ヴィカーレ様、私十六歳になりました。初めて会った時の約束の通りに私はこれから好きに生きます、その手始めにまずはあなたとちゃんと家族になりたいんです」
ビルティオーゼは月のような金色の瞳に真剣な光を宿してヴィカーレを見つめた。そしてまたヴィカーレの胸に混沌とした気持ちが渦巻いた。
「……君と私では随分年齢が離れている。それにどうやら第一王子から妃にと望まれているようじゃないか、新領主となった私の甥からもかなり好かれているしこの土地の貴族たちもそうだ。君を望む者は私以外にも多くいる、わざわざ私のように面倒な男を選ぶ必要はない」
「年の差と言ってもたった十歳じゃないですか、そもそも男性の方が適年期は遅いのですから問題ありませんし外見も髪を切ってから五歳くらい若返ったように見えますよ。王子からの願いは丁重にお断りしましたし、あなたの甥である新領主にはあなた自身が釘をさしたじゃありませんか。あの領地の惨状を見て今更私に手を出そうという貴族はこの国にはいないと思います」
まるで用意してたかのごとき完璧な回答にヴィカーレははぁとため息を吐く。思えば交渉を有利に進めるための会話術も大事な場面では相手の先回りをすることも全てヴィカーレが教えたのだ。まるで過去の自分がビルティオーゼを援護射撃しているようだ。
ふと、背後から声が聞こえたような気がして心の中で後ろを振り返った。そこにはかつての自分たちがいて、少年の頃の自分も青年の頃の自分もビルティオーゼと出会った頃の自分も皆一様に消えない傷を負っていた。しかしこれもまた皆一様に救われたような顔もしていた。痛ましい傷を負っていて思い出すだけで古傷が痛むのにそれでも彼らは穏やかに笑っていた。そして今のヴィカーレに向かって『よかったな』と言い残し光となって消えていった。
ヴィカーレは目の前の女性を見た。ああ、もういいのかもしれない。もし彼女に対する感情を抑えなくていいと言うのなら――――愛おしくてたまらない。誰にも渡したくない、ずっと触れていたい、君と家族になりたい、君との子供が欲しい、君の一部になりたい。そんなグツグツと煮えたぎった混沌とした感情が心の底から溢れかえる。
ヴィカーレは目の前で自分を見つめる愛おしい女性の頬を撫でた。この手に彼女の全てが収まりきったらどれだけいいだろうか、いややはりそれではちゃんと触れ合えないから却下だ。それに、逃げないで欲しいとは思いつつも伸び伸びとやりたいことをする彼女を見ているのもヴィカーレはとても好きなのだ。
「――私は結構しつこいぞ」
欲望をチラつかせた声音で脅すように彼女の頬を撫でる。しかしビルティオーゼは空よりも深い笑みをたたえてその手に擦り寄った。
「私はそれ以上に懐が深いので大丈夫です。むしろ私がどこかに行ってしまわないようにちゃんと手を掴んでいてください」
ビルティオーゼはいつぞやの庭園の時と同じように頬を撫でるヴィカーレの手に己のそれを乗っける。あの時のヴィカーレはその手を離そうとした、それが彼女のためだと思ったからだ。自分のように面倒臭い男に捕まるよりも普通に愛してくれる相手の方がいいのではないかと本気で考えていた。それでも彼女は自分を助けてくれと言った。彼女は分かっていたのだろう、ヴィカーレにその願いを断れる訳がないと。まさかあの時の家族を思い出して泣いていた子供がこんな魔性の女に成長するとは、思ってもみなかった。そうしてヴィカーレは今ここまで来てしまったのだ。
「勘念してくださいヴィカーレ様」
ヴィカーレに迫り慕う瞳で見つめる美しい女性を見つめ返す。彼女に愛を教わった、同時に孤独や痛みも教わった。しかしその傷はきっとヴィカーレに気付いてほしかったのだ、そして彼女と共にいることで過去の自分に向き合える余力が生まれた。そこで彼らは皆痛ましい傷を負いながらもとても幸せそうに笑っていたのだ。
永遠に思える傷も彼女と共にいればいつかは消えるのかもしれない、自分が彼女にイルブムの花を贈ったように時間とともに流れていくのだろうか。
それも全て彼女と一生を共にすれば分かるだろう。
ヴィカーレは目を細めて彼女の瑞々しい唇を見つめた、そして親指でスッとその唇を撫でた。
「降参だビルティオーゼ」
ヴィカーレは自然と笑みが溢れた。それはとても幸せそうでビルティオーゼはどういう訳か涙が零れ落ちそうになった。
「……!」
それでも何かを言うことはできなかった。ヴィカーレの指先がビルティオーゼの顎をすくい上げ、まるでその唇に注ぎ込むように「愛してる」と囁き、そしてヴィカーレとビルティオーゼの影は重なり合った。
◇◇◇
かつて愛を知らなかった男はとある女に愛を教わった。そしてかつて愛を失ったその女もその男に愛を与えられた。
彼らは本物の家族となり、その愛は二人三人四人と増えていくことになる。
そしてある日の夜、ベッドで眠る愛しの妻の髪を撫でながらその男は呟いた。
「ありがとうビルティオーゼ、私の家族になってくれて」
その言葉は水色の月の光だけがとても幸せそうな笑みを零して聞いていた。
最後まで読んでくださりありがとうごさいます!