前編 どんな美女もかつては少女だった
「そろそろ観念してください、ヴィカーレ様」
ヴィカーレ・レシヨンセルは困惑していた。
目の前で自身に迫り逃げ場を塞ぐように後ろの壁にその白い手を置いた女性――ビルティオーゼ・レインバッハに恐らく人生で経験したことの無いほど強い混沌とした気持ちを抱いていた。
彼女の艷やかな水色の髪を一房手に取りクルクルと弄ぶ。それは彼にとっていつもと同じ行動をして平常心を保とうとする一種の鎮静行為であったが、彼の予想に反して漂ってきたのは清涼感のある石鹸の匂いではなく甘く脳が痺れるような女性の香りであった。
これはまずいと思い、その水色の髪を手放して彼女の頭を撫でる行為にシフトチェンジする。
ビルティオーゼは一貫性を持たない彼の手に不思議そうな顔をしながらも嬉しそうに頬を緩めた。しかしすぐにハッとして誤魔化せれませんよとでも言いたげに長い睫毛に縁取られた金色の瞳をキリッとさせてヴィカーレに向けた。
その月のような瞳も水色の髪もヴィカーレのよく見知った物のようでしかし全く違う。餅のように丸かった顔はスッキリとしていて、元々可愛らしくはあった顔立ちは妙齢の女性らしく変貌していた。
彼の腰程度までしかなかった身長は水と栄養を与えられた花のようにグンと伸びて彼の首くらいまで迫ってきていて、意識したこともない胸元は強く勾配を描き豊満な果実を実らせ、腰にはゆるやかなくびれがついていた。
どれもこれ彼女が成熟した女性であると主張する物ばかりだった。頭の中に刷り込まれた彼女の像と今目の前にいる彼女の姿との違いで熱が出そうになる。いや、本当は今の成長した彼女を見た時から恐らく自分は熱に侵されているのだ。
そこまで面倒なら手放してしまえばいいじゃないかと言われるかもしれない。彼女を遠ざけてしまえば彼の平穏で理性的な生活は戻って来る。もう深夜に目が覚めたと言って散歩に付き合わされることもないし、高価な薬を使い体調を整えてやることもなくなる。分かっている、絶対にそちらの方が楽だ。分かっているのだそんなこと。――――それができないから困っているのだ。
ヴィカーレははぁ…と色んな物が混じったため息を吐いた。そして遠い空を見上げ在りし日の情景を思い出した。
◆◆◆
ビルティオーゼ・レインバッハは下位貴族の子供であった。天使のような可愛らしい顔立ちに下位貴族ではあり得ないほど大きな魔力を持って生まれた彼女はちょっとした注目の的であった。
彼女は家族から愛されて育った。必要とあらば自分の子供すら駒とするはずの貴族家ではあり得ないほど深い愛情に包まれて彼女は育った。受けた愛情の分だけ彼女も家族を愛し、ある意味普通の貴族とはかなり感覚のズレた子供であった。
それは貴族としては欠点とも言えるかもしれないが、彼女はそんなことにも気づかずにスクスクと成長した。
彼女にとっては繭玉に包まれているかのように幸せな日々だっただろう。しかしそんな生活も長くは続かない、彼女が八歳の夜に彼女の家族は敵対する貴族から夕食に毒を盛られ暗殺された。
唯一助かったのは当時風邪を引いて夕食を欠席していたビルティオーゼだけだった。
そんな彼女に悲しむ暇を与えないかのごとく運命は次々に試練を寄越してきた。
本来ならば貴族とは魔力が全ての世界である。魔力がある者が遇され魔力がない者は役立たずとして殺されることも少なくない。
しかし僻み妬みはあるもので、下位貴族であるにも関わらず圧倒的な魔力量を誇るビルティオーゼを周囲は黙って遇することはなかった。
レインバッハ家を継いだ彼女の伯父もその一人だった。幼いながらに自分よりも魔力の大きいビルティオーゼを伯父はすぐさま金払いのいい醜悪な貴族に売り払おうとした。子供の魔力の多さは母親の魔力量に相当する、だから売られた先で彼女を待つのはただひたすらに子を成すための恥辱と陵辱の行為であることは間違いなかった。
家族という繭玉から解き放たれた彼女は自分自身を守る者はもういないと本能的に悟りすぐにその知性を開花させた。しかし八歳の子供にできることと言えば周囲に助けを求めるくらいであった。そんな頼みの綱である周りの大人たちも敵だらけで奮闘むなしく彼女は心の中でブタ伯爵と呼ぶ自分よりも何回りも年上の貴族に売られそうになった時だった。
そんな時に彼に出会った。
伯父や伯母やその子供たちに鞭でビシバシと打たれそれでも涙を我慢していたのに、亡くなった家族の事を罵倒され彼女はその有り余る魔力を暴走させた。
もちろんそんなことをすれば自分もただでは済まない。体は空気の入れすぎた風船のようにパンッと弾け飛び死んでしまうだろう。でもそんなことどうでもよかった、ブタ伯爵に売られて飼い殺される日々が続くのなら死んだ方がマシだ。せめてこの人たちを道連れにしてやろうと思ってビルティオーゼは体の内から湧き上がる怒りと悔しさと家族への想いを全てをねじ伏せる力に変えようとしていた。
でもその時冷たくて大きな手のひらが彼女の目を覆い隠し、もはや自分でもどうすることもできない程暴走した魔力を収めてしまった。
真っ暗な視界の中混乱する彼女に「眠りなさい」という低くて冷たいのにどこか安心する声が聞こえて魔力が暴走して疲れていた彼女は死んだように眠りについた。
そして彼女は鼻につく嫌な薬の匂いで目が覚めた。そこはまだ両親が健在だった時も味わったことがない程ふかふかのベッドの上であまりの心地よさに二度寝しようとした彼女に冷たい氷嚢が押し付けられて彼女はハッと飛び起きた。
彼女は自分に氷嚢を押し付ける人物を見た。そこには金色の長い髪を三つ編みにし、翡翠のような深緑の目をした大人の男の人が眉間にしわを寄せて難しそうな顔でビルティオーゼの事を見下ろしていた。
「あなたは誰ですか?どうして私は生きているのですか?あの人たちはどうなったのですか?」
その問いに彼はこう答えた。
「私はヴィカーレ・レシヨンセル。君が生きているのは私が助けたからだ、君の伯父やその親族は不正が発覚し投獄された」
簡潔に率直に全てを失い人生のどん底にいる幼い幼女に取り繕うこともせずにヴィカーレは答えた。質問は終わりだと言わんばかりに彼はビルティオーゼの口元に注ぎ口のあるグラスを押し付けてその中にある妙な色の液体を流し込んできた。
それはとても苦くて、これはなんだ?と飲むのを嫌がる彼女に彼は、魔力暴走を起こした君を救うための薬であり飲まなかった死ぬと伝えると彼女はヴィカーレからグラスを奪い取りゴクゴクと飲み干した。
それから彼女は色んなことを聞いた。ヴィカーレ曰く、彼女の生家であるレインバッハ家は伯父たちの不正が発覚されたため取り潰されたらしい。そしてレインバッハ家に連なる者であるビルティオーゼも連座処分を免れないだろうと。
「いやです!どうして私があの人たちの巻き添えを食らわなければならないのですか!」
ならばなぜ助けたのか、連座処分で死ぬくらいなら一矢報いて意味のある死の方がマシだ。そう主張しまた魔力を膨れ上がらせる彼女にヴィカーレは「落ち着きなさい」と諌めその小さな手を取った。
「全く……どうやら君は魔力を暴走させやすいらしい、早急に魔力の制御方法を学ぶべきだ」
繋がれた手から柔らかくて冷たい魔力が流れてきた。どうやら暴走した魔力を収めてくれたのは本当らしく体の中で渦巻く魔力が冷や水をかけられたように落ちっていった。そして彼はビルティオーゼに幾つかの選択肢を示した。
「一つ、先程言ったように連座処分を受けて一生檻の中で魔力を搾り取られるか。二つ、君を引き取りたいという中位貴族がいる、その者に嫁ぎ一生飼い殺されるか。三つ、私の元で暮らすかだ」
ヴィカーレの言う中位貴族とはなんとあのブタ伯爵であるらしい。一つ目は論外だし二つ目も絶対に嫌だ、となるとビルティオーゼに残された選択肢は最後のものしかない訳だが……。
「簡単だ、君には私の婚約者となってもらう。私は一応領主一族に連なる者だ、私の婚約者ならば瑕疵のない君を連座にすることはできない」
ビルティオーゼは月のような瞳をまん丸にさせてヴィカーレを見た。彼からはビルティオーゼを下衆な目で見てくる者特有の視線は全く感じない。自分の婚約者が決まるかもしれない場面でも飄々とした雰囲気を壊さず新しい薬を調合していた。
「私が君の後見人になろう。君を養育し必要な教育も施す。君が成人するまでつまり十六歳になるまで私が君の面倒を見る、その後は好きにするがいい。君の生家を復興させるのも良いし、どこかの貴族の息子に嫁ぐのも良い。とにかくそれまでは私の婚約者でいてもらう」
「……どうしてそこまでしてくれるんですか?」
言い方は冷たいがどこまでもビルティオーゼを慮ってくれている気がする。でも見ず知らずのビルティオーゼをどうしてそこまでして助けてくれるのか分からなかった。
「……元々、君の噂は有名だった。下位貴族ではあり得ないほどの膨大な魔力、可憐な顔立ち、愛嬌の良さ、しかしそれだけなら私は眼中にも留めなかった」
ヴィカーレは調合の手は止めずに話し出した。どうやらビルティオーゼが伯父の魔の手から逃れようと孤軍奮闘していた時にその様子を人伝に聞いたらしい。
「子供が大人に逆らうなどそうできることではない。なかなか見どころのある子供だと思ったのだ、魔力もとても大きいようだしここで潰すのは惜しい。ならば私が後見人となり領地に役立つ人間に育てようと思ったのだ」
そしてヴィカーレはレインバッハ家に伯父の不正の証拠を握りしめビルティオーゼを引き取りにやってきた。配偶者のいない彼には養子を取ることもできないため不正の証拠を盾にビルティオーゼを奪い取ろうとした算段だったらしい。
「しかしあの家に着いた時、君は魔力を暴走させていた。私の魔力を流して収まったのはいいがあのままでは君は伯父家族を殺しかけた罪で処刑されていただろう、そのため仕方なく私はレインバッハ家の不正を白日の元に晒した。君の罪を殺人罪から連座にすり替えるために」
殺人罪ならどうしようもないが連座ならば逃げ道はある。先程言ったようにヴィカーレの婚約者になったり、どこかの貴族に嫁げばいい。その上でヴィカーレは聞いてきた。
「君の生家を取り潰した男と一時でも婚約者となり生き残るか、ブタのように醜い者に嫁ぎ生き残るか、はたまた連座処分を受けるか……君が選べ」
まだ八歳の家族を失ったばかりの子供には実に酷な質問だ。それでもここで選べないようならこの先もきっと生き残れないだろうと言われているようで一瞬の逡巡の後ビルティオーゼはその大きな手を取った。
「あなたの元へ参ります、どうかよろしくお願いします」
◆◆◆
ヴィカーレとの生活は決して悪いものではなかった。領主一族に連なる者というだけあって生活の質が高く、非常に不便は少なかった。
強いて言うならその教育方針だ。ヴィカーレはとても優秀であるらしくビルティオーゼに求める教育水準も高かった。魔法の制御方法から国の歴史までありとあらゆる事を学ばされた。山積みになった課題を死ぬ気で解いて彼の期待以上の結果を叩き出さなければいけない。サボることは許されずもっといけるだろうとチキンレースのように課題が増えていく。正直まだ幼い幼女であったビルティオーゼにはつらいものがあったが、家族を失った悲しさを忙しさで忘れられるように必死にヴィカーレに食らいついていった。
それでも偶に思い出してしまうのだ。自分の手の届かない所で死んでいく家族を、彼らが彼女の名前を呼ぶ時の優しい声を。
「……また眠れないのか」
そういう夜はヴィカーレがそばにいてくれた。魔道具で小さく照らされる彼が眉間にしわを寄せて涙を零すビルティオーゼを見下ろしていた。
「ヴィカーレ様……だって思い出してしまうのです。家族の声や笑顔や温もりを。こういう寒い夜は特にとても恋しくなってしまいます」
ヴィカーレは零れ落ちる涙を拭った。不器用で慣れない手つきだったが、その温もりで余計に涙が溢れてきた。
「何故悪化するのだ、どうすれば泣き止むのか教えなさい」
おおよそ泣いている子供にかける言葉ではないが、珍しいその慌てようにビルティオーゼは小さくフッと笑った。
「なら少しの間だけでいいので抱きしめてくれませんか?きっと落ち着くと思うのです」
ビルティオーゼがそう言うとヴィカーレは眉間のしわを深くした。ビルティオーゼにとってはただのスキンシップでもヴィカーレにとってはとても破廉恥な行いに見えてしまうらしい。
「ああーこのままじゃ涙が止まらないなぁー魔力が暴走しちゃうかもなぁー」
ビルティオーゼが両腕を伸ばしながらわざとらしくそう言うと、ヴィカーレは悩んだ末にビルティオーゼを持ち上げて膝にストンと置くと向き合う形で抱きしめた。
その腕はどのくらいの強さで抱きしめればいいか迷っているようでおずおずと壊れ物に触れるかのようにその小さな背中に回される。
その様子が普段の飄々とした姿とは似ても似つかずビルティオーゼはバレないように笑ってヴィカーレの大きな背中にその小さな両腕を回した。
彼の温もりがまるで魔力が流れ込んできた時のように温かくて優しくてとても安心してしまう。ゆったりとした心音が一定のリズムで刻まれ自身の乱れた鼓動も同調したように収まっていく。顔が埋められた胸元からインクとビルティオーゼのために作ってくれる薬の匂いがした。
「……君は貴族らしくない。こんな事をする貴族は君くらいだ、抱きしめたところで何が変わる?これなら睡眠薬を飲ませた方がマシかもしれん」
「ふふ…なるべく薬に頼らないようにしろと言ったのはヴィカーレ様ではありませんか。それに変わりますよ、こうしているとすごく落ち着くんです」
恨み言のように言ったヴィカーレをビルティオーゼは胸元から顔を上げて笑う。ヴィカーレは「やはり淑女教育も必要だな」とフンとそっぽを向いてしまったがその腕は決して離れなかった。
「ヴィカーレ様に家族っているんですか?」
ビルティオーゼの何気ない質問にヴィカーレの心音は動揺したように大きく鳴った。
「……何故そのようなことを聞く?」
「なんとなくです」
本当は、たとえ貴族とは言っても随分触れ合いに慣れてないなとか色々思った末での質問だったが、そんなことを言えば離れてしまいそうなのでビルティオーゼは言わなかった。
「……私に家族はいない。私は現領主の異母弟だ、本当の母親が誰かも分からないし、領主一族にはよそ者の血として随分嫌われている。だから私に君の想像するような家族などいない」
動揺を隠すように努めて話しているがその心音でバレバレである。ビルティオーゼは背中に回した腕をギュッとより強く回して顔を上げるとヴィカーレの翡翠のような深緑の瞳と目が合った。
「なら、私と家族になりませんか?」
ビルティオーゼの自然と出た言葉にヴィカーレはその切れ長の目を丸くして「は?」と呟いた。
「何を言っている。私と君は今は婚約者という立場だがいずれ解消するのだぞ?本当に結婚するわけじゃない、だから私と君では家族にはなれないのだ」
馬鹿な教え子を諭すようにヴィカーレは真面目くさった口調で説いた。しかしそんなことビルティオーゼも分かっている、彼女が言いたいのはそんなことではない。
「そうじゃなくて。戸籍とか血の繋がりとかよりももっと深い絆の形もあると思うんです。現に私は血の繋がった伯父やその子供たちよりもヴィカーレ様の方が大切です」
「……ありえない、貴族は血の繋がりや縁故を何よりも大事にするのだ。私は君の教師になることはできても家族にはなれない、私たちの間にあった婚約はいずれ必ずなくなるのだから」
彼にとってはそれが当たり前であるらしく、ビルティオーゼを否定する。何だか面倒くさくなり「じゃあ……」とビルティオーゼは口を開いた。
「婚約が解消されるまでは私の家族でいてください。いずれなくなるものでも今は確かにあるのだから、それくらいはいいでしょう?」
ビルティオーゼの言葉にヴィカーレは戸惑いながらも「……分かった」と頷いた。
「こんなことを話していないで早く寝なさい。君はただでさえ体調を崩しやすいのだから」
ビルティオーゼは不満げに「はーい」と言い月のような瞳を閉ざした。
あの日、ビルティオーゼが伯父家族に対して魔力暴走を起こしてから彼女の体は弱くなった。ヴィカーレによると魔力暴走の後遺症らしく体力が減り体の成長も著しく遅くなるらしい。今はヴィカーレの処方した薬を飲んで何とかなっているがあまりいい状況ではないようで、こうして眠れない夜に彼が一緒にいてくれるのも少し前に寝不足でビルティオーゼがぶっ倒れたからである。そう言う意味では嬉しいが体が弱いとなかなか不便である。ヴィカーレが何とかしようとしてくれているがかなり苦戦しているみたいでビルティオーゼにはただ規則正しく過ごす以外にできる事はなかった。
◆◆◆
それから長い月日が過ぎた。幼かったビルティオーゼも十五歳にまで成長し翌年には成人となる運びであった。
彼女はヴィカーレの理想通り、いやそれ以上に素晴らしい傑物に成長した。膨大な魔力を筆頭に全ての学問で優秀な成績を収めあらゆる賞を総なめにし新たな事業を展開した。意外にも人と話すのが得意だったようで多方面に関係を伸ばし方々の有力貴族との縁を得た。
もはや領地に彼女の存在は不可欠になった。彼女は身を持って自身の価値を証明したのだ、今更七年前の連座がどうこうと言ってくる人はいないだろう。
しかし一つだけ困ったことがあった。それは彼女の見目である。いや決して醜悪なわけではない、むしろ天使のように可愛らしい。さらさらとした水色の髪に月のような金色の瞳、肌は絹のようにきめ細かく愛らしい顔立ちは花が咲いたようと例えられる程だった。
問題はそれら全てが十五歳の妙齢の女性にはとても見えなかったことだ。可愛らしい顔つきではあるがまだ子供っぽく身長は未だ十歳くらいの少女にしか見えない。
それもこれも全て魔力暴走のせいだ。一度死にかけたのだから、何かしらの後遺症が残っても不思議ではない。彼女の場合基礎体力が落ちて体の成長が著しく遅くなってしまったらしく、この七年で彼女の外見は八歳の幼女から十歳の少女に成長しただけだった。
これはさすがに由々しき事態だ。いくら能力が高くとも出産を見込めない貴族女性の行き着く先は悲惨な結末だ。今はまだヴィカーレが保護しているからいいがずっとこのままというわけにはいかない。彼女は来年には彼の手元から飛び立ってしまうのだから。
ビルティオーゼは国の国境で祈るようにヴィカーレを待っていた。彼はここ一年国から遠く離れた大地に遠征軍として派遣されていた。ビルティオーゼを引き取ってからは特に領地を離れようとしなかった彼が突然名乗りを挙げたのだ。彼は優秀な学者であると同時に勇猛な騎士でもあったらしく彼の功績は遠い地であっても国中に轟くところとなった。
それでも本当に彼が無事かは分からない。最後の戦いはとても悲惨だったらしく遠征軍もこれ以上は無理だと引き返してきたらしい。信じていないわけではないがもし彼に何かあったらと思うと胸が張り裂けそうだった。
溢れ出そうな魔力をグッと収める。この七年でビルティオーゼの心は随分と成長したが体が小さいままだと制御が難しいようで年々増えていく魔力を実を言うと持て余していた。周りの人たちは素晴らしいと持て囃すがビルティオーゼとして個包装にして配って渡したいレベルで邪魔だった。
すると突然、周囲の同じく遠征軍を待つご婦人方がにわかに騒ぎ出した。彼女たちが指さす方向を見れば空の彼方に米粒ほどの小さな点が幾つもこちらに向かって飛んで来ていた。あれは貴族の騎士のみが持つ空飛ぶ竜の魔物である。つまりヴィカーレが帰ってきたのだ。
ご婦人方がワーキャー騒ぐ中ビルティオーゼは魔力を目に集中させて視力を極限まで高めた。どれもこれも全てヴィカーレが教えてくれたことである。彼の姿を探してビルティオーゼは目を凝らし必死に米粒の群衆から自分の家族を探した。
「……!」
そこによく知った金色の髪が映る。長かった三つ編みはバッサリと切られ整えられた短髪に変わっていたが見間違えるはずがない。この七年ずっと共に過ごしてきた仏頂面が涼し気な顔をして黒色の竜に跨っていた。
ビルティオーゼはドッと膝から崩れ落ちた。胸には合わさった両手が震えるほど強く握りしめられ、月を思い起こさせる金色の瞳からは大粒の涙が零れ落ちていた。
長旅を終えた騎士たちが竜から降りて各々の歓迎を受ける。ヴィカーレは黒色の竜から飛び降りるとすぐさま水色の髪の少女を探した。
「ヴィカーレ様!」
耳触りのよい高い声に若干湿っぽさを感じ、ヴィカーレはやれやれと声のした方向を振り向き自分の胸に飛び込んできた少女を受け止めた。
「ヴィカーレ様……ご無事でなによりです!」
ヴィカーレが硬い鎧に身を包んでいることも忘れてビルティオーゼはグリグリと胸に額を擦り付ける。
「ああ、今帰った」
久しぶりに聞く少女の声にヴィカーレは心の奥底から込み上げる何かをグッと我慢した。そして腰の小さなカバンから何やら花のような物を取り出すと彼女の前に差し出した。
「遥か彼方の西の大地に咲くといわれるかイルブムの花だ。万病、特に魔力障害に効くと言われている、これを使えば君の魔力暴走の後遺症もきれいさっぱりなくなるだろう」
きっと泣いて喜ぶに違いない。あれほど早く大きくなりたいと言っていたのだ、ビルティオーゼはヴィカーレに感謝してまた強く抱きついてくるだろう。そう予想したヴィカーレは目の前で不穏に揺れ動く彼女の魔力にん?と首を傾げた。
「……そのためだけに遠征軍に参加したのですか?滅多に領地も出たがらないあなたが、そんなことで命がけの戦争に赴いたと?」
今までになく魔力が暴走しそうになっている彼女にヴィカーレは慌てて自身の魔力を流し込む。何故だ、彼女は喜び自身に泣いて感謝するはずなのに、何故こんなにも怒っているのかヴィカーレには分からなかった。
なかなか収まらない魔力に彼女の心を落ち着かせるため手袋を脱ぎ捨てその水色の頭をそっと撫でた。
「分かった、私が悪かった。だから一度落ち着きなさい、魔力を鎮めるんだできるだろう?」
ヴィカーレの慌てように少しは溜飲を下げたようで魔力が落ち着いてきた。しかし依然として怒っているようで涙で濡れる目尻をヴィカーレは指先で拭った。
「私の病気を治すためにここまでしてくれたことは素直に感謝しています。でもご自身の命をそんなに粗末に扱わないでください、あなたが生きていなければ私が健康になっても何の意味もないのですよ」
貴族らしからぬ家で育った彼女の沸点は未だに理解できない。ヴィカーレにとって貴族とは自分の利または仕える領地の利のみを貪欲に欲しがる人々である、ヴィカーレだって同じだ。ビルティオーゼがこのまま不健康ではヴィカーレ自身も色々困るので遠征に参加してイルブムの花を取ってきただけだ。死ぬつもりなど毛頭なかったし、なんならたった一年で引き返してきたのもヴィカーレが手を回したからだ。完璧な作戦だったのに、何故目の前の少女はこんなにも憤怒に体を震わせているのか分からなかった。
「いったいどれだけ私があなたを心配したと思っているのですか、もうこんなことはしないと誓ってください」
「……心配?私を?」
プクンと頬を膨らませる彼女をヴィカーレは呆然とした気持ちで見ていた。ヴィカーレにそんな感情を向ける人間などいなかった、常によそ者と後ろ指を差され物理的に刺されそうになったことも何度もあった。彼がここまで優秀な騎士にも関わらず今まで戦場に出なかったのも敵に打たれるよりも味方に刺される可能性の方が高かったからだ。彼にとって蔑まれたり敵意を向けられることは慣れっこだ。もはやそれに怒る気も起きないほど当たり前で今更なことなのだ。だから自分を『心配した』と言う目の前の少女を信じられない物を見る目で見てしまった。
「何ですかその不服そうな目は!心配くらいしますよ!あなたは私の家族なんですから!」
「家族……」
プンスカ怒る少女に今のヴィカーレの感情の何分の一が伝わっているだろうか。愛を求めることすら許されなかった彼にとってそれはあまりに重すぎる言葉だった。七年前にも似たような事を言われたがあの時は意味さえ理解してなかった。でも彼女と言葉を交わし触れ合うことで少しずつ、だが確実に固い岩石が侵食され脆くなっていくように彼の心は瓦解していった。
「え!?ヴ、ヴィカーレ様?どうしたのですかそんなお顔をして?やはりどこか怪我をしているのですか?いま治癒魔法を……」
怒った様子から一転、慌てふためきビルティオーゼはその小さな手から魔法による癒しの光を放つ。遠征中に負った怪我はとっくに治っておりどこも痛くはなかったが、体とはまた別のもっと奥深くにある何かにまるでコケて擦りむいた生傷が消毒された時のような痛みが生まれた。それはきっと突然現れたものではなく長い時間をかけて彼に刻まれた傷だった。それをヴィカーレは痛みだと知らなかった。麻痺よりももっと酷い、執着的で不健全な、彼にとっての日常。それを異常と感じることはもはや全身傷だらけの彼にはできないはずだった。
「大丈夫ですか?ちゃんと魔法は効いてますか?」
負ったことすら気づかなかった古傷が痛いのだと、癒してくれと悲痛な叫びを上げる。彼女の魔法の光に含まれる彼を思い遣る気持ちを感じるたびに全身が沁みるように疼きジクジクと赤い血が流れた。
きっと知らない方が良かった。それを知らなければ自身が傷だらけであることもその痛みも分からないままで済んだのだ。彼女との日々が彼に与えてしまった。一度感じてしまえばひとたまりもない、もはや元に戻ることなどできない。ずっと彼はこの痛みを背負って生きていくのだ。
「――全く…君のせいだ……」
ヴィカーレは眉間に深くシワを刻んでビルティオーゼの癒しの光を帯びる手を取り、止めさせた。
震える声がバレないように、懇願していると勘付かれないように。大丈夫だそういうことは慣れている。一瞬でも弱味を見せたら殺される世界で生きてきた彼にとっては実に簡単なことだった。
「私のせい……なのですか?」
「ああ……全て君のせいだ」
きょとんと小首を傾げる少女にどうしようもない恨めさを感じる。その満月のような大きな瞳に自身の仏頂面が映る。でもこれも今だけだ、その瞳に映るのはすぐにヴィカーレではなくなる。あれだけ苦労して見つけたのにイルブムの花が今はとても疎ましい、あれさえなければビルティオーゼはずっとヴィカーレを必要としてくれたのに。
その小さな背中をそっと抱きしめる。ビルティオーゼは驚いたように金色の瞳を瞬いたがすぐに嬉しそうにヴィカーレの背中に腕を回した。
清涼感のある石鹸の匂いが鼻腔に入ってくる。それはとても心地よい匂いでヴィカーレは一年ぶりに帰ってきたのだと実感した。
「帰ろう屋敷に、私のいない間もちゃんと課題はやっていたのだろうな?」
ヴィカーレはビルティオーゼを地面に降ろすと自宅に向かって歩き出した、ビルティオーゼは慌て後を追いかけ、何やら言い訳がましい事を言いながらも彼の隣に並んだ。
こんな風に近くにいられるのも彼女が十六歳になるまでだ。自分たちはいずれ解消することが決まっているただの婚約者、彼女の未来にヴィカーレはいない。それに対してまた体中の古傷が嫌だと叫び始めるがヴィカーレは全て押し込めて遥か彼方に広がるまるでビルティオーゼの髪の色のような青い空を眺めた。
◆◆◆
「本当にこんな物で私の体が良くなるのですかヴィカーレ様?」
その日の夜、ビルティオーゼは自身の寝室にてヴィカーレから渡された怪し気な液体とにらめっこしていた。
「ああ、理論上は可能だ」
ビルティオーゼが座るベッドの前で後ろに手を組んだヴィカーレは早く飲めと言いたげにビルティオーゼを見下ろしていた。
ヴィカーレが一年かけて手に入れたイルブムの花、彼によるとこの花の成分を使った薬でビルティオーゼの魔力暴走による後遺症は治るらしく早速その日のうちに調合した薬をビルティオーゼに渡してきた。
ビルティオーゼはグラスの中で揺らめく液体を見る。何というか毒々しい色だ、ヴィカーレの作る薬はどれも薬にはあるまじき奇天烈な色をしているがこれはその中でも群を抜いている。虹色の薬液は見る角度を変えると色が変化し目が痛くなりそうになる。今まで処方されてきた薬の中でも明らかに劇薬だ。とは言えヴィカーレが大丈夫と言うなら大丈夫なのだろう、ビルティオーゼは一思いにグビッと七色に輝く薬を飲み干した。
「うっ……何だか夜空を飲み込んだ気分です……」
ヴィカーレの差し出した水を飲んで口の中に残る薬の味を流し込む。ヴィカーレは眉間にしわを寄せてビルティオーゼの首筋に触れた。
「どうだ?何か変わったところはあるか?」
冷たい手からヴィカーレの魔力が流れ込んでくる。それが少しだけくすぐったかったが診察中に動いてはいけないのは子供でも分かることだ。
「いえ、まだよく分からないです……」
ヴィカーレは焦れたようなホッとしたような形容しがたい顔になったがすぐに引き締めてビルティオーゼの首筋から手を離した。
「そうすぐに効能はでないのだろう、未知の薬だし何か異変があったら私を呼びなさい」
ヴィカーレがテキパキとグラスやらなんやらを片付けていると途端に眠気が襲ってきた。
「ふわぁ……ヴィカーレ様…なんだかとても眠たいです……」
「薬の副反応だろう、今日はもう寝たほうがいい」
いつもの薬はここまで眠くならないのに、やはり劇薬のようだ。体からのふわっと力が抜けて倒れ込むようにベッドに横になる。
すると上から優しく布団をかけられた。閉じかけの目をうっすら開いて見ると、そこにはとてもとても寂しそうでまるで一人ぼっちの子供のようなヴィカーレの顔があった。
――どうしてそんな顔をするのですか?私はここにいるのに。
そう出かかった言葉は声にならず深い眠りの中に吸い込まれていった。眠気の最中ヴィカーレの「おやすみビルティオーゼ」という声が聞こえた気がした。
◆◆◆
「ふわぁあ……」
体中に妙なダルさを感じながらビルティオーゼは目が覚めた。起き抜けにグッと背筋を伸ばすと、どこかの骨ボキボキっと小気味よく音をたてた。
ぼやける視界の中ベルを鳴らして人を呼ぶ。カーテンから漏れる朝日の日差しを浴びてベッドに腰掛けてうつらうつらと待っているとキィっとドアが開いてよく見知った金色の髪が見えた。
「起きたかビルティオーゼ、さっそくだが支度を済ませたら研究室まで来い。昨日の薬の効能を確認す…、る…、ぞ……」
ヴィカーレがドアを閉めてこちらを振り向くとまるで化け物でも見たかのように体を硬直させた。
どうしてそんな反応をされるのか分からずビルティオーゼが首を傾げると、ハッと息を呑んだヴィカーレが手で目元を押さえながらクルッと後ろを向いてしまった。
「質問だ。君の名前と年齢、亡くなった家族の死因。そして私の名前と年齢、血縁関係を言え」
ヴィカーレには珍しく焦りを隠せないほど早口に内容の意図を掴めないことを言い並べる。どうしてそんな知ってて当然のことを聞くのか分からなかったがビルティオーゼは素直に答えた。
「えっと…私はビルティオーゼ・レインバッハ、十五歳、家族は毒で殺されました。あなたはヴィカーレ・レシヨンセル様、二十五歳、亡くなった前領主の息子で現領主の異母弟、甥と姪が二人ずついます」
本当は戸籍上ならもっといるが血縁者はこれくらいだ。とは言えあの人たちはもはやヴィカーレの家族とは言えないような連中だ、いてもいなくても変わらないだろう。
「なるほど……どうやら君は本当にビルティオーゼのようだな……」
ヴィカーレはこちらを振り向かず深く考え出してしまった。なんだか置いていかれてる気分だ、ビルティオーゼだけが話についていけてない。
「あの、何なんのですか?急に変な質問をして、そしてどうしてずっと後ろを向いたままなのですか?」
ビルティオーゼとしては大変遺憾である。そもそも彼は昨日帰ってきたばかりなのだ、もっと顔を見たいし話もしたいのにどうしていきなり距離を取るようなことをするのか。ビルティオーゼはぷくっと頬を膨らませ近くにあった布団をギュッと握りしめる。
「……自分の体をよく見てみなさい」
「からだぁ?」
何を寝ぼけたことを、寝起きなのは私ではなくヴィカーレ様では?と思いつつスッと視線を下にずらした。
どうせ、いつも通りの子供体型だ。同年代の女の子たちはドンドン成長して大人になっていくのにビルティオーゼだけずっと少女のままだった。体は成長しなくとも心はちゃんと成熟しているのに誰にも年相応として扱われないのはなかなか苦しいものがあった。
唯一ビルティオーゼを子供扱いしなかったのはヴィカーレだった。まあ彼の場合ビルティオーゼが本当に幼女であった時からこんな感じの扱いだったから気を遣っているとかいう訳ではないのだろうけれど。
そんな事を考えていたが、眼前に広がっていたのは全くもって予想していなかった景色だった。
胸が、ある。真っ平らでもはや荒野だったビルティオーゼの胸元が足元が見えない程の急勾配を描き大きな二つの山を作っていた。
それを期に次々と体中の異変に気がついた。短かった手足はスラリと伸びて大きくなった胸で見えなかったバストはキュッとしたクビレができていた。顔周りも何だかぷにぷにした肉がなくなった気がする。
成長……している。あれほどまでに夢見た成長をしている。鏡がないから全貌は分からないが明らかにもう十歳の少女ではない!
「ヴィカーレ様!私!成長しています!」
あまりにも嬉しくなり立ち上がろうとするとヴィカーレの「馬鹿者!!」という怒声が部屋中に響いた。
「え?どうしてそんなに怒って……」
すると今度は違う異変に気がついた。ベッドの節々にビリビリに破けた服の残骸が散らばっているのだ。その中には恐らく下着だったものまで落ちていてビルティオーゼはもう一度自身の成長した肢体を見た。
さっきは成長したことに気が取られ気が付かなかったが、目に入ったのは絹のように滑らかな肌色だった。ビルティオーゼは一糸纏わぬ姿で呆然と数秒間、自身の裸を眺めるとカァ〜!と熱くなり手元にあった薄く白い布団でバッと全身を隠した。
「いやぁ!見ないでくださいヴィカーレ様!!私裸です!」
部屋中に響く上擦った声でそう叫ぶとヴィカーレは「……………見てない」と随分間を置いてから答えた。
後編へ続きます。