とある映画鑑賞のひと時 後編
当時、女性は男性と付き合い、気持ちが前向きになり、自然と笑うことも増えていったが、ふとしたときに気持ちが落ち込み、その対処として選んでいた方法がリストカットと呼ばれるモノだった。
彼と出会う前、自分ではどうしようもなくなり、痛みで現実を認識するために行っていた事。
それを、男性が居ない時に行い、その後バレてしまった。
バレた当初は「あーあ」と。女性は思った。
折角、自分が付き合いたいと思える人と出会ったのに。
これで終わってしまったと。
付き合っている人間がこんな事していると知れば、嫌だよね、気持ち悪いよね、別れたいと思うに決まっている。
事実、リストカットがバレて別れた過去がある。
別れなかった事もあるが、それは相手が女性の体目当てで、飽きれば捨てられてしまった。
目の前の男性に限って、性欲だけで付き合っていると思っていなかった。
だから、この男性ともこれで終りだとそう思っていたのだが。
「――とりあえず、少し話そうか」
女性の手首を、悲しそうに見つめながらも男性は女性に向かって言って近寄り、腰を下ろす。
「まずは、話をする前に聞きたいだけど、それ病院に行かなくても大丈夫?」
「……うん、今回が始めてってわけでもないし、治療も済ませているから、後は何回か包帯を変えれば、大丈夫」
「そっか……できれば、病院に行って欲しいけど、嫌だろ?」
「……うん」
「だったら、包帯替える時、俺も隣にいて、酷くなるようだったらって、事にするとして、だ」
納得していないが、それだと話しが進まないと、とりあえず保留という形で男性はケガの件について話しを終わらせようとしているようだったが。
女性はそれを聞いて疑問に思った。
「ねぇ……」
「うん?」
「……別れないの?」
「はっ?」
「あんたの話を聞いているとさ、これからも一緒にいるのが前提になっているみたいだけど、私リスカしてたんだよ?」
「だから、今それについて話をしようとして……」
「別れるでしょう普通」
男性の言葉を遮り、もう一度女性は同じ言葉を口にした。
決して、別れたいわけではない。
けれど、別れたいと思われても仕方ない。
そう思っての言葉だった。
「ただでさえ、私これまで大勢の男と関係持ってたし、それだけでも付き合うから側したら、いい気はしないのはわかってる、それに加えてさあんたと付き合ってもこんな事してたら、もう別れたいって言われて当然……」
言葉を重ねる内、自然と涙が零れて、声が出なくなる。
別れたくない、その思いが胸をしめつけて、どうしようもなくなった。
男性がこれから言う言葉がどんなものか、怖くて俯いてしまう。
「……」
男性が息を呑むのが、耳に入り、びくんと体を震わせる。
「あーと、えと、うん」
男性も動揺しているようで、何度も声をだして、何か言おうとしているのがわかる。
「とりあえず、さ。顔上げてくれないか」
そういって、男性は女性の頭に手をあてて、優しくさする。
その仕草にほんの少しだけ、余裕が生まれてゆっくりと顔を上げる女性。
すると、男性が浮かべていたのは、侮蔑や嫌悪の表情ではなく。
困ったと言わんばかりの男性の顔だった。
「あの、何故か別れることが当たり前になっている空気だから言っておくけど、俺別れる気ないぞ?」
女性の頭を撫でながらも、そんな事を言う男性に。
「嘘……」
「この場で、嘘をいうような空気じゃないって事は、恋愛経験がない俺でもわかる。だから、嘘なんて言わない。俺はお前と別れる気はこれっぽっちもない」
「だって、私、リスカ……」
「だから、うん。そこは放置していい話しじゃないから、しっかりと話し合いをするとしてさ、今は何か俺から別れるなんて話をする、しないの話しで落ち込んでいるように見えるから、そこははっきり言っといた方がいいのなって思って」
じゃないと、話が進まないと指で頬をかく。
「だから別れない。話したいのは「今後どういった対策をしていくか」って話し」
「対策?」
「そう、リスカをやめてくれ。その一言ですむなら簡単に終わるけど、そういう類の話しじゃないだろ」
別れない、そう言われて少しだけ心が軽くなり、男性の声に耳を傾ける。
「だから、リスカをやめる方法を考えていかなきゃ……ネットで検索してみたり、医者に掛かってみたり、色々やってかないと」
「医者は……」
「いやだ、って言うんだろう? 無理してまで行けって話しじゃないけどさ、でも選択肢の一つにはいれとかないと。俺やお前が二人で色々試しても駄目だった時に「どうにもできない」ってなったら本末転倒だし。……とりあえず、ネットで調べてみるか」
何て調べたらいいのか、そんな事に頭を悩ませながら携帯を取り出す男性。
そんな男性に、何て声をかけたらいいのか女性はわからなかった。
だって、リスカをしたら、気持ち悪がられるか。見ないふりをするか。
今まではそれしかなかったし。それが全てだと思っていたのだ。
なのに、何故彼は。
気持ち悪いものを見るように自分を見る事もなければ、何もなかったように振舞うのでもなく。
真正面から私を見て、心配そぶりをみせるのか?
別れたくない、という恐怖よりも、そんな疑問が大きくなって。
「あのさ、私のこれ、どう思う?」
気付けば、そんな事を口にしていた。
「これって、リスカ?」
「うん」
「どう、って言われても「やめてくれ」って思ってるけど」
男性の言葉に横を振る。
それは、女性もわかってる。
男性は止める方法を一生懸命に考えてくれるから。
女性が聞きたいのは、そういった類ではなく。
「私のこれを見て、気持ち悪いとか、面倒くさいとか、そういった……なんだろう? 気持ちというか、感想というか……なんて言ったらいいのかわからないけど、とにかく私はあんたの気持ちが知りたい」
上手く言えない。普段触れない話題であり、聞いてまわるものでもない。
けれど、今男性がこの傷を知ってどう思っているのか、それが知りたくなった。
そんな女性に対し男性は、迷うことなく告げる。
「痛い」
「えっ?」
「だから見てると痛い。痛いから止めて欲しい」
先ほどまでの態度とは打って変わって断言するような男性の言葉。
その言葉に、女性は混乱する。
言っている意味がわからなかったから。
「ごめん、私あんたが何を言っているのかわからない」
「んー、変な事を言っているつもりはないけど、言葉が足りなかったかな? えと、だからそんな風に自分を傷つけている姿を見ているのは、俺も痛い。俺が直接ケガを負っているわけじゃないけど、でも誰かがそんな風になっていれば、やっぱり見ていて痛いよ。そして止めて欲しいと思う」
男性は女性に伝えるために言葉を足して自分の気持ちを伝えるが、それでも言っている意味はわからなかった。
「痛い? 自分が傷ついているわけでもないのに?」
自分が傷つけば痛いのは当然だ。
けど、誰かが傷ついても、痛そうだなと思うぐらいで実際に痛いとは思わない。
なのに、何故男性はそんな事をいうのだろうか?
「そんなに可笑しな事かな……-あー、うん。よしっ。タバコ一本貰ってもいい?」
「あんた、吸わないじゃなかったっけ?」
「基本吸わない、けど吸った事がないわけじゃないよ。っと言っても吸うためにくれって言っているわけじゃないけど」
男性の言葉を理解できないまま、女性は言われた通りに手渡す。
男性は慣れた手つきというわけではないが、タバコを口にくわえ火をつけ、一息軽くを吸い込んだ。苦いと軽く顰めはしたものの、ムセルことはなかったので「本当に吸った事あるんだ」とおぼろげに思っていると。
男性は何の躊躇もなく、右手の指で挟んでいたタバコを、自分の左腕に押し付けた。
「ちょっ!? あんた何をやってっ――」
慌てて止めようとするも。
「もうちょっと、まって」
顔を顰めながらも、男性は女性に近づかないように止めた。
指に力をこめ、タバコが押しつぶされて形が変形し、室内に嫌な匂いが立ち込める。
その姿と匂いで体が震えて、息を吐き出すかのように無意味声が漏れた。
止めなければ、という思いはあるのに、体が動かない。
「……ふぅ」
時間にして数秒、男性は腕からタバコを離して息を吐く。
そこで女性は男性の左腕に小さな痕を目にして、近寄った。
「うーん……もう一回やるか」
その間に、一回では納得できなかったのか、男性がもう一度タバコを押し付けようとしたところで。
「馬鹿!」
女性は男性からタバコを奪い取り、身近にあった灰皿でタバコをもみ消すと男性の左腕をとって、まじまじとタバコが押し付けられた痕を見る。
それは、小さな火傷ではあったが、皮膚がなくなり真っ赤に染まっていた。
「何で、何でこんなことしてんのよ!」
「何で、今止めようとしているの?」
女性が叫ぶのとは裏腹に、男性はそう言ってじっと女性を見る。
「何で、ってそりゃあ――」
「別に俺がケガしただけで、そっちは何の問題もないんじゃないの?」
男性に言葉に、思わず唇を噛み締める。
痛いから止めて欲しいという男性の言葉に、自分は言った。
自分が傷ついているわけでもないのに? と。
本当にそう思ったから言ったのだ。
けれど男性の腕に残る火傷。
それを見ていると、痛かった。
自分の大切な人が、ケガをしているのが嫌になった。
「……めん」
「んっ?」
「ごめん、なさい」
そして気付けば謝罪の言葉を口にしていた。
視界が滲んで、涙が溢れていく。
「私が間違っていたから、だから、もう、やめて」
「おいおいおいおいおい、違う違う違うっ、別に俺は謝って欲しいとか、泣かせたかったわけじゃ
なくて、俺の言いたかった事を理解してほしくて――それに俺はお前が間違っていた、なんていう気はないぞっ」
先ほどとは表情を一変させておろおろする男性に、それでも泣き止まない女性。
少しの間、会話は止まり男性は女性を宥め続けた。
「……落ち着いたか?」
「うん」
「まずは謝る。ごめん、何の説明もせずに変な事して」
「……私が言えたことじゃないのはわかってるけど、でもあんな事はもうしないで欲しい」
「わかってるよ、俺は別に自分を傷つけたいって思ってるわけじゃないし、ましてや泣かせたいわけでもないからな、だから二度としないって約束する」
ただ、と少しを間を空けてから。
「知って欲しかったんだよ。大切な人間が苦しんだり、傷ついたりするのって、見ているこっちも痛いし、苦しいって事をさ」
苦笑しながら。
「言うのは簡単だ。でもそれをさ、きちんと理解してもらおうと思ったら、言うだけじゃ足りないんじゃないかって思って」
だから、良い事を思いついた、と思って実行したけど、それで泣かせたら駄目だよな。そう言葉を締めくくった。
「十分わかったわ」
こくこくと、かみ締めるように唇を引き結び、何度も縦に振る。
大げさな反応に、一瞬呆気にとられるものの「そっか」と満足げに笑う男性。
この時、先ほどまでの重い空気は消え、いつもの居心地の良い場所に戻った。
その事に「本当に、私は、目の前の人が好きなんだなぁ」と女性は思う。
当たり前のように、自分に向かって笑ってくれる。
それが、とても嬉しくて、女性も気づけば笑っていた。
そんなこんなで、空気は戻ったものの、元々の問題「病んだ時にリスカ以外の対処方」は何も解決していない。
そのため、リビングで二人、携帯と睨めっこをしていて。あーでもない、こうでもないと話し合いを繰り広げていた。
そんな時に「痛みが必要なんだったら、別の刺激で代用するのはどうか?」という提案を男性はした。
女性は別の刺激かーと頭を悩ませ、すぐにいい事を思いついたとニヤリを笑い。
「違う刺激、って“これ”?」
「それ」を思わせる手の形を作る。
男性は一瞬わけがわからないと言った顔をした後に、顔を赤らめて全然違いますっ! と声を張り上げて否定した。
「もしかして、もっと“痛み”を含むプレイを想像した? ……ごめん、ちょっと私そっちの趣味は……いや、やってみたいって言うなら挑戦してみてもいいんだけど……優しくしてね?」
「頼むからマジでそっちから離れてくれない!?」
顔を少し俯かせ、上目遣いで男性を見るその仕草。
狙ってやっているのが丸わかりの態度に、少しだけ胸を高鳴らせつつも、ガリガリと頭を書いてそっぽを向きながら
「例えば手首に輪ゴム撒いて、リストカットしたくなったら、その輪ゴムを引っ張る。んでそれを離したら、痛いだろっ?」
ジェスチャーを交えながらの言葉に「あー痛みってそういう意味ね」と頷く。
男性の反応が楽しくて、少しからかってしまったけれど、真面目に考えてくれている
なので、「試しにやってみるか」と思いつつ「他には何かある?」と尋ねる。
「ええと……後は、激辛料理を食う、とか?」
その時男性は自信なさげではあるものの、提案してみた。
「辛さ、かぁ。試したことはないけど、ものは試しと言うし、やってみようかしら?」
「いいんじゃないかな?」
「あっでも、一人でやるのは何だし、あなたも一緒に食べてよ。さすがに痛い類はやれとは言わないけど、激辛料理ならいいでしょ?」
「ん、ああ、いいよ。激辛料理も、最初の輪ゴムも、付き合う」
「ホント?」
「ホントホント」
軽く頷く男性。これが後に自分の首を絞めることになるとは、当時の男性には知る由もなかったが、それはともかく。
女性のリスカをする、という問題。
色々な事を二人で試した。
ゆっくりと、二人で――
映画が終り、「最後はちゃんと逃げ切れる事ができてよかったよかった」という男性に頷きつつ寝る準備をしていく。
食器は数も少ないのでサッと荒い、台所に設置した食器置き場に。出たゴミは、分別しそれぞれのゴミ箱へ。
汚れたテーブルは軽く拭いて綺麗にした。
その行動を特に言葉を交わさず、二人で分担し、数分で終える。
片づけを終えたら、洗面所で並んで歯磨きをして、寝室へ。
二人がすっぽりと納まる大きさのベッドに入り込む。
この時女性は右手首にしていたリストバンドを外した。
そこには、いくつもの切り傷の痕があったが、新たに作られた傷は何もない。
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
布団を被り、男性が反対の方向を向き、女性は後ろから抱き締める形で寝むる体勢をつくる。
いつもだったら眠るまでの少しの間、会話をしたり布団のなかでじゃれついたりする時間があるのだが、今日は眠気が勝っているのか男性は静かだった。
女性も何も言わず、男性の背中に顔を寄せて目を瞑る。
眠りに突く前に。ふとある事が脳裏に浮かんだ。
どこかで聞いた事がある。
恋と愛の違いについて。
恋は欲しがり、愛は与えるもの。
なんとなく、頭の片隅に残っていた言葉。
それを思い浮かべながら、今の自分はどちらなのだろうと思った。
欲しがってばかりなのは変わっていない。
だから“恋”という気持ちが大きいのかも、と思う
でも、それだけじゃない。
彼に貰ったものを、自分も返していきたいと思える自分が確かにいる。
だから。
「――ねえ」
「うん?」
その気持ちを、男性に伝えるために女性は言った。
心から思いをこめて。
あなたを、愛している、と。
ここまで読んで頂き、誠にありがとうございました。