ヒーロー願望
親戚の人達から、おチビちゃんと呼ばれた頃は、テレビの画面のなかの、架空の彼らに憧れていた。
流れてくる歌や、彼らが戦う姿や、変身する場面、格好いい武器に、巨大なロボット、とどめに放つ必殺技の数々は、格好いいの一言が怒涛のように押し寄せてくる。
もちろん、縁日で買ったり、雑誌の付録のお面や玩具を使って、家の中や近所の公園で遊んだ日々は数えきれない。
あんな風に格好いい存在になれる気がして、夢中になっている日々はおわる。
それも、そんな日々は唐突に終わるのだ。
縁日の主役の赤いヒーローのお面や黒いヒーローのお面はすぐになくなるのに、いつまでも残っている色の仮面があると。
ヒーローごっこ遊びをすると、不人気の色や敵はやりたがる子が少ない事に。
周りからおチビではなく名前で呼ばれるようになる頃には、母親は、いつしかヒーロー達のシール入りふりかけよりも、特売のふりかけを買うようになり、玩具よりもノートやドリルを買う頃に、気づくのだ。
僕のヒーローは何処かに行ってしまったのだと。
あぁ、あの格好いいと思った気持ちは、何処にいったのだろうか。
怒涛のように押し寄せていたはずの格好いいという、言葉や、存在はポテトチップスの一かけらほどしかない。
そしてそんな日々は続く。
テレビが称賛する、現実のヒーローはスポーツ選手だったり、人助けをしたり、そういうものだ。
女子の眼中に入るヒーローも、スポーツができたり、イケメンだったり、そういうヒーローが溢れていく。
それはそうかも知れないが、違うんだ。
成れないモノのの僻みかもしれないが、そうじゃないんだ。
警察官でもなく消防士でもなく、ホームランを打とうが、ランキングに乗ろうが、献血にいこうが、車に轢かれそうな子供を助けようが、イケメンだろうが、そういう事じゃないんだ。
巷に溢れるようなヒーローに。
僕でもなれるようなヒーローに。
憧れていたあの格好いい、ヒーローがそんなものであるはずがないんだ。
誰かのヒーローにならなくたったて、なれなくたっていい。
そんなもの誰かが勝手にやってくれるだろう。
怒涛のように格好いいだけが溢れてくるような、ヒーローにもう一度憧れたい。
だけども、そんなヒーローは、色褪せ、消えていくことを僕は知っている。
今さらそんなヒーローが現れることはない事ともしっている。
僕の前にヒーローは、もうあらわれない。
ただ一欠片の格好いいだけが、願望として、今も残したままなのだ。