12.春休みに入りました
春休みに入りました。
おじいさんと男の子は、今日は郊外の森に来ていました。
この森は、いくつかの丘にまたがっている広い森で、
たくさんの竹が、まっすぐ空高く立派に生い茂っていました。
ここはお城の跡地なのだそうです。
けさ、絵描き用の道具を持ってふたりで森の中を歩いていたとき、
おじいさんが、そう教えてくれました。
男の子は、
でも、お城の跡地と言われてもいまいちピンと来ませんでした。
いくら歩いても、
森の中の景色は、数え切れないほど立ち並ぶ竹たちの、細くまっすぐな幹と、
その足元の、
枯れ落ちた竹の葉が厚く降り積もっている、あちこちがデコボコした斜面ばかりでした。
お城の壁とか、塀とか、石垣とか、
そういったものは、まったく見かけませんでした。
今は、男の子は、
森の、ちょっと開けていて小さな草原になっている場所で、
おじいさんと一緒に絵を描いていますが、
ここにも、お城があったと感じさせるものは何ひとつありませんでした。
代わりに、草原の中央辺りに、
かなり年老いていそうな梅の木が3本生えていて、
男の子は、その梅の木を描いてました。
「坊や、
もうすぐ11時半だし、今日はそろそろ終わりにしようや」
おじいさんの声が聞こえました。
男の子は、
画用紙の中の梅の木に細筆で色をちょんちょんと付けてから、「はーい」と返事をし、
そのまま絵をじぃっと見たあと、
横を向き、持っていたパレットを草原の上に置いて、
すぐに逆へ向き直し、
広めの口の、コーヒーのボトル缶に細筆の先を差し入れます。
中に入ってる水で細筆を軽く洗うと、そこから抜いて、
地面に並べてある他の筆のところに置いて、
それから、
ボトル缶のキャップを固く締めました。
次いで、
首にかけていた画板のヒモを外した男の子は、
その画板を両手で持って、
なるべく傾けないよう注意しながら、パレットの横の場所にそうっと置いて、
それから、すっくと立ち上がりました。
自分の絵を見下ろしながら、
両肩を後ろへ引いて胸を反らせたり、腰を左右へ軽く捻ったり、
そうやって、体の節々を気持ち良く伸ばしていると、
隣に、グレーの作業着姿のおじいさんが立ちました。
「ナッツ、食べるか?」
顔をそちらへ向けると、
おじいさんの手が、男の子の胸の前へと差し出されました。
ナッツが何種類か詰まった小袋がひとつ乗っています。
男の子は、
「あ。
・・・はい、ありがとうございます」と言いながら、その小袋に手を伸ばし、
受け取りました。
左右の指先で摘まんで持ってから、
力を少しずつ少しずつ入れていき、慎重に袋を破っていきます。
その後、
中のナッツを全て自分の手の上へ出して、カラになった袋をズボンのポケットに押し込んで、
そうして自分の絵を見ながら、
大きめのナッツをひとつ摘まんで、口の中へ放り込みました。
ポリポリと音をさせて食べていると、隣のおじいさんが言いました。
「いい色だな」
「いい色・・・って、どれのこと?」
男の子が聞き返すと、
おじいさんは、
絵の梅の木の、枝先の部分を指差して答えました。
「ほら、そこの葉っぱの色。
芽吹いたばかりの若々しさと力強さが、見てるだけで伝わってくる」
男の子はホッとして言いました。
「ホントの色は、もう少し暗い色なんだけどね、
でも、こっちの色の方がいいかなぁ・・・って思ってこうしたの」
「こっちの色の方がいいかなぁ・・・って思ったのは、どうして?」
「えとね、1枚だけホントの色で塗ってみたんだけどね、」
そう言った男の子は、
しゃがんで、絵の梅を指して言葉を続けました。
「ここ。ここなんだけど、
そうすると、枝や周りにたくさん付いてる萎んだ花とあんまり見分けが付かなかったからね、
それで、
ちょっと違う色だと思ったんだけど、この色にしてみた」
おじいさんは、
目尻にシワを寄せ、微笑みを浮かべて、
「そうかそうか」と頷きました。
そして、
「絵を描いてるオレの姿もすごくハンサムに描けてるし、
ありがとよ」と続けました。
おじいさんの姿は、梅の木の向こうに描いてありました。
赤いニット帽をかぶっていて、
いつもの箱型のイスに、背筋をピンと伸ばして座っていて、
イーゼルに乗せたキャンバスに向かって筆を動かしている・・・そんな絵でした。
絵の中のおじいさんはこちらに背中を向けていて、顔が見えないので、
どうしてこれがハンサムなんだろう・・・と、男の子は少し不思議に思いました。
でも、褒めてくれているのは分かったので、
聞き返さずに、「うん」と頷きました。
おじいさんが、少ししてから言いました。
「・・・あと30分もあれば完成しそうだな」
男の子は、立ち上がって言いました。
「うん、多分それくらいで出来ると思う。
おじいちゃんの方は、あとどれくらいかかりそう?」
おじいさんは答えました。
「オレの方は・・・、
そうだなぁ、スムーズに行けばあと1時間くらいかなぁ。
・・・坊や、
オレの絵、ちょっと見てみるか?」
「うん、見てみる」
「そうか。
じゃあ、おいで」
そう言ったおじいさんは横を向き、両手を上着のポケットに入れて、
草原の上を、サクサクと歩き出しました。
男の子は、手の上のナッツをひとつ摘まんで口の中に放り込むと、
すぐにおじいさんのあとを追いかけていきました。
おじいさんの絵は、
足元の草原と、その向こうで茂る竹林を描いたものでした。
よく見ると、
草原の中に、点々と小さな白い花が描かれています。
男の子は、キャンバスのその部分を指差して聞きました。
「ねぇ、
この白いお花、何て名前?」
おじいさんは答えました。
「ハコベラじゃないかなぁ、多分だけど・・・」
「ハコベラって、春の七草の?」
「そうそう。
坊や、よく知ってるな」
「うん。
学校で歌った歌の中で、
確か、ハコベラって名前の草が出てきたような気がしたから」
「あぁ、七草の歌か」
「うん」
おじいさんは、
「そうかそうか」と頷いて、七草の歌を口ずさみました。
「セリナズナ、ゴギョウハコベラホトケノザ・・・懐かしいなぁ」
男の子は、
持っていたナッツをひとつ摘まんで、口の中に放り込みました。
ボリボリと食べながら絵を見ていると、おじいさんが尋ねました。
「ところで坊や、
この絵を見て、何か感じないか?」
「え? 何か?」
「そう。
何でもいいからさ、ちょっと言ってみ」
男の子は、モグモグするのをやめ、
キャンバスの絵全体を、顔を動かしながらじっくりと見ていきます。
あちこちが何となく茶色っぽいような、黄色っぽいような気がしました。
でも、きっとそれは、
そういう色使いの絵にしたかったからそうしたのだ・・・と思いました。
じゃあ、何だろう・・・と思いました。
少しすると、おじいさんの声が聞こえてきました。
「オレは、この場所に来てな、
まず最初に、みずみずしくて暖かな土臭さ・・・ってのを感じたんだ。
あぁ、春の匂いだなぁ・・・って思って、
で、それを絵で表現したくてさ、
自分なりにちょっと頑張ってみたんだけど、やっぱりダメだったかな・・・」
あ・・・って、男の子は思いました。
「もしかして、」と口にしてからキャンバスの絵を指差して、
「こことか、こことかが茶色っぽくなってるのって土の匂いだったの?」と聞いて、
隣にいるおじいさんを見上げました。
おじいさんは頷きました。
「そうそう。やっぱりダメだったかな?」
男の子は、首を横に振りました。
そして、
ふたたび絵を見て、
「ううん、
そんなことないと思うよ、多分だけど・・・」と言いました。
おじいさんは、目尻にシワを寄せて微笑みました。
「そうか、なら良かった。
・・・じゃ、そろそろ帰る支度を始めようか」
「はーい」