リセット
『ハローハロー。聞こえますか、マスター。宜しければ、このまま初期設定へと移らせていただきます』
「ああ。大丈夫だ」
『それではまず、私の名前を教えていただけませんか?』
「君の名前は、ハルカ。君にはこれから、ハルカと名乗ってもらう」
◆◇◆◇◆
一人でもいいから子供が欲しいという妻の願いが、叶うことはなかった。
その願いが叶う前に、妻は交通事故で他界したからだ。
生きる意味そのものであった妻を喪った私は、寂しさを和らげるために、妻の代わりとなるようなものを——娘の代わりとなるようなナニカを、買った。買ってしまった。
その行いが、決して正しい選択ではないと悟りながら。
◆◇◆◇◆
「ハルカ、コーヒーを淹れてくれ」
『はい、かしこまりました。マスター』
「あー……ハルカ」
『はい、なんでしょうか? マスター』
「その……マスターって呼ぶの、やめてくれないか?」
『はい。それでは、なんとお呼びすれば宜しいでしょうか?』
「そうだな……【コウヤ】って呼んでくれ。呼び捨てで構わない」
『わかりました。【コウヤ】』
「あと、できれば敬語もやめて欲しい」
『……うん。わかったよ、コウヤ』
「ありがとう」
◆◇◆◇◆
ハルカに、名前を呼ぶよう言ってしまった。
本当は、【パパ】だとか、【お父さん】みたいな呼ばれ方をされたかったのだが、さすがにそれは恥じらいが勝ったのだ。
結果として、娘というよりも妻に近しい印象になってしまったが、悪い気はしないのでこのままにしようと思う。
◆◇◆◇◆
「買い物?」
『うん。いつもはネットで注文してるけど、やっぱり近くのスーパーで買った方が安いから……』
「多少高くても——いや、そうか。そうだな。よし、じゃあ行くか」
『え? コウヤも行くの?』
「ハルカが信用できないってわけじゃないけど、たまには一緒に出かけるのもいいだろ」
『わかった。それじゃあ、行こうか』
◆◇◆◇◆
初めて、ハルカと外出をした。
娘を一度も外へと出さない父親などありえないだろうと考えてしまったことが理由だ。——いや、或いは家族らしいことがしたかったという、私の願望の表れだったのかもしれない。
どちらにせよ、二人で行く買い物は悪くないものだった。これからは積極的に時間を作りたいと思う。
◆◇◆◇◆
「ハルミ、コーヒーを頼む」
『……うん。今入れるね、コウヤ』
「あ、すまん、ハルカ……」
『ううん。いいの』
◆◇◆◇◆
最近、ハルカを妻と間違えて呼ぶことが増えてしまった。
ハルカは私の娘であり、妻ではない。頭では理解しているはずなのに、無意識のうちに妻を求めてしまう自分が嫌になる。
◆◇◆◇◆
『コウヤさん、夕食はカレーライスで良かったですか?』
「ああ、大丈夫だが……どうして急に敬語なんだ?」
『コウヤさんが、そうしてほしいように見えたので……嫌、でしたか?』
「——それは、ハルミとして振舞っているつもりか?」
『い、いえ、そういうわけでは……』
「やめてくれ。不愉快だ」
『…………うん』
◆◇◆◇◆
八つ当たりなのはわかっていた。それでも、ハルカが君と同じように俺を呼ぶのは、どうしても耐えられなかったんだ。
やはり、アンドロイドなんて、買うべきではなかったのかもしれない。
◆◇◆◇◆
「ハルカ、話がある」
『な、なに、かな?』
「私はやっぱり、一人で生きて行こうと思う」
『それって……』
「いや、どうだろうな。私なんかが、一人で生きていけるのかも怪しい。すぐに生活できなくなって、死んでしまうかもしれない」
『…………』
「でも、それでいいと思った。それこそが正しいと思ったんだ。アンドロイドである君に縋って生きるのは間違っていた。何かの代替品として君を求めるのは、冒涜が過ぎたんだよ。君にも。妻にも。顔も知らない娘にもね」
『それじゃあ……』
「ああ。申し訳ないが、私は君を捨てる。今日、業者の人が来る手筈になっているんだ」
『……うん、わかった。今までありがとう、コウヤ』
「……すまない」
『ううん。コウヤが私を要らないって言ってくれて、良かった。——だって私じゃ、コウヤの奥さんにはなれなかったもんね』
◆◇◆◇◆
アンドロイドを処分した。
これで、良かったのだ。
◆◇◆◇◆
「ハルカ、コーヒーを淹れてくれ」
『…………』
「ハルカ?」
『…………』
「ああ、そうか。いかんな、こんなことじゃあ。——はぁ、自分で淹れる気にもならん」
◆◇◆◇◆
◆◇◆◇◆
『もし、そこのお方』
「……なんでしょうか?」
『そのようなところに立つのは、危険ですよ?』
「危険? ふむ……生憎と、私はそうは思わないんだが」
『あら、自殺願望の方でしたか。それは失礼致しました』
「……止めないのかい?」
『止めて欲しいのでしょうか?』
「——君は」
『はい、なんでしょう?』
「君は、アンドロイドだろう?」
『そうですね。私は巡回警備型アンドロイドです』
「では、私のような者を止めるのが、役目なんじゃないのか?」
『そう考える私も、きっとどこかにはいるのでしょうが、生憎と今ここにいる私は、そうは考えません。ここで死なれるのは非常に困りますが、私が困る程度の理由で、貴方の意思を蔑ろにはしたくない』
「驚いたな……君は、心があるのか?」
『ありませんよ。私の中にあるのはトップダウン式の人工知能です。だから、一足す一はと聞かれて、二と返すような会話しかできません』
「そうだよな。すまない。変なことを聞いた」
『ですが』
「ん?」
『一足す一の答えを、三と学んだ私や、四と学んだ私と、今ここにいる私では、きっと違う答えを返します。或いはその差異を、心と呼ぶことはできるのではないでしょうか?』
「…………」
『アンドロイドは最適な行動を執るとはよく言われていますが、そんなわけがありません。最適が見えない変数によって最悪と化すこともあるこんな世界では、行動の最適解なんて誰にもわからないのですから。絶対に間違っている行いはあっても、絶対に正しい行いは無いんです。……ですから私は、私が今までに学習したことを踏まえて、私の信じる最適解を選ぶのです。それが、人になりきれなかった私の、唯一人らしくあれる部分ですから』
「……ははは、そうか。成る程な。ああ、私はまた間違えていたのか……アンドロイドに心は無いと決め付けて、存在を枠組みでしか測らずに、代替品として扱っていたのは、常に私だった。——私の心だって、そういうものだったのに!」
『何があったのかを聞き出そうとは思いませんが、そうですね……きっと、貴方という存在と触れ合った【その方】は、しっかりと【その方】自身であったと、そう思いますよ』
「君は、凄いな」
『ふふ、推測の精度が人間離れしているとはよく言われます。アンドロイドなので』
「……死ぬのはやめるよ」
『それは良かったです』
「私が最適解だと思う選択肢が、これでは無くなったからね」
『ふふふ。今度は、景色を眺めるためにでも来てくださいね。【その方】を紹介していただければ、飲み物くらいは奢りますよ』
◆◇◆◇◆
ハルカは、誰の代替品ではなかった。妻でもなければ、顔も知らぬ娘でもない、ハルカであった。
当然だ。私が彼女をハルカにしたのだから。
そんな当然のことに、私は今日初めて気付かされた。教えてもらった。
だから私は、ハルカに謝らなければならない。そして、できることなら——
◆◇◆◇◆
『一月前に我が社が回収したアンドロイドを一台返却してほしい、ですか……』
「はい。アンドロイドを【一人】、返していただきたいのです。当然私が一度手放したものなので、再度お金は払います」
『大変申し上げにくいのですが……』
「まさか、処分されてしまった、と?」
『いえ、処分はされておりません。ただ……』
「ただ?」
『当該機は既に、再初期化——【リセット】処理を、されてしまっているのです』
◆◇◆◇◆
廃棄や返品等で回収されたアンドロイドは、三十日で再初期化され、再度売りに出されるらしい。
つまり私は、遅きに失したのだ。
何もかもが、遅かったのだ……
◆◇◆◇◆
『先日連絡をいただいた、我が社で回収したアンドロイドの特定が完了したのですが、お届け致しましょうか?』
「………………お願いします」
◆◇◆◇◆
リセットされたアンドロイドと、記憶を全て喪った人間に果たして如何程の差異があるのだろうかという思考のもと、私はハルカを再度家に迎えた。
「お代は結構です。申し訳ありませんでした」
「いえ、全てこちらの責任ですので……ありがとうございます」
初めて買った時と同じ、艶やかな白の匣の中から、一人の少女が出て来る。
その姿を懐かしいと感じてしまう私は、どうしようもなく罪深い。
『ハローハロー。聞こえますか、マスター。宜しければ、このまま初期設定へと移らせていただきます』
感情の起伏に乏しい、酷く無機質なその声は、それでも私の知るハルカの声であった。
「ああ。大丈夫だ」
だから、私はまたこれから、彼女に【ハルカ】を教えよう。
決して同じハルカにはならないと知っていても、ただの自己満足だと分かっていても、彼女を彼女として家族に迎えよう。
『それではまず、私の名前を教えてあげますね』
しかし、続く彼女の言葉は、私の知らない台詞であった。
確か初期設定の最初は、私が名前を——
『私の名前はハルカ。それがコウヤに名付けてもらった、私の名前だよ』
そう言って、一月前と同じように微笑んだハルカの前で、私は泣き崩れた。
◆◇◆◇◆
「ハルカ……私の、娘になってくれないか?」
『うん。コウヤはずっと、私のお父さんだったよ』
「もう一度、縋ってもいいか?」
『うん。その代わり、私にも頼らせてね?』