34 エピローグ
汗ばんだ体をボディーペーパーで拭い、ポロシャツに着替え、顔を洗う。一応の身だしなみを整え終えると、化粧室を出た。
訓練の後、蓮は呼び出しを受けていた。射撃場のある地下から、エレベーターで一階へ上がる。自分に割り当てられた部屋のある上階へは直行せず、側にある休憩室へ足を運んだ。
中には誰もいない。少し早すぎたかな、と蓮は思った。
ベンチに腰掛けて待つこと数分、渚が駆け込んできた。急いで来たらしく、頬は健康的に紅潮している。迷彩柄の戦闘服を薄手のワンピースに着替え、白い素肌が部分的に覗いていた。
「ごめん、待った?」
「いや、今来たところ」
待ち合わせにおける決まり文句のようなやり取りを、一通りする。型通りの会話にも聞こえるが、当人たちの表情は活き活きと輝いていた。
「それで、何なんだ? 話って」
本題へ移ろうとした蓮を、彼女はやや緊張したように見た。
「私ね、本当のこと言うと、まだ自分がどうすればいいのか分からないの。討伐隊の皆ともっと一緒にいたいのは本当だし、学校に戻ってまた辛い目に遭いたいわけでもない。でも、それでいいのかなって」
「えっと……つまり、どういうこと?」
聞き返しながら、蓮は先刻の、岸田たちを交えての会話を反芻していた。あのとき渚は確かに、答えるのを躊躇していたように見えた。
「結局、私は逃げてるだけなんじゃないのかなって」
そう言って、渚は寂しそうに笑った。
「私も和泉君と同じで、親に無断で討伐隊に入った。けれど、それはお父さんやお母さんに反発したかったからじゃなくて、現実から目を背けてどこか遠いところに行きたかったからなの。戦いの中で死んでも構わないとさえ思ってた」
返す言葉を探そうとしている蓮に、彼女は沈んだ声音で続けた。
「和泉君はお父さんとの過去に決着をつけることができたけど、私は何も変わってない。両親は今でもきっと、私のことを家出した親不孝者だと思ってる。高校で自分をいじめていた女の子たちから、私はただ逃げようとしているだけなの」
「そんなことない」
嘘偽りのない言葉で、蓮は渚を勇気づけようとした。真剣な眼差しを向け、語りかける。
「井上は、討伐隊で一生懸命頑張ってきたじゃないか。射撃の腕も相当なものだし、最後の決戦の時だって、井上の立てた作戦がなかったらラードーンを倒すことはできなかった」
上目遣いにこちらを見つめる彼女は、何かに縋ろうとしているかのようだった。
「家や学校のことは、急いで解決しようとしなくてもいい。すぐに戻っても、色々大変なこともあるだろうしな。俺たちの任務が一区切りついてからでも、大丈夫なんじゃないか」
「うん、ありがとう。ちょっと元気出てきた」
安堵したように、渚はお茶目に微笑んでみせた。
「私も、頑張ってみるね。過去と向き合って、乗り越えられるように」
「その意気!」
笑顔を交わし合い、しばし二人は談笑した。
やがて、蓮が腕時計の文字盤に目を落とす。約束の時間が迫っていた。慌ててベンチから腰を上げ、申し訳なさそうに両手を合わせる。
「悪い、この後ちょっと予定があるんだ。佐伯のやつ、組手の練習に俺を付き合わせようとして聞かなくてさ。能力者相手ならともかく、スパイダーと戦うのにどれだけ効果があるのか疑問なんだけど」
自分でも、冗長で言い訳がましい台詞だなと思った。本音を言うと、もう少しこのまま一緒にいたかった。案の定、渚も名残惜しそうな表情を垣間見せる。
「そっか、行ってらっしゃい。引き止めたりしたら悪いもんね」
本当にごめん、と何度も頭を下げ、蓮は休憩室の扉を開けた。ダッシュでエレベーターへ乗り込み、叩くようにボタンを押す。佐伯は遅刻に厳しく、この前なんかは遅れて行くと先制攻撃を食らわせてきた。今日こそは不覚をとるわけにいかない。
急いで走っていくその背中を、渚は優しく笑って見送っていた。
彼女にとって討伐隊とは、特に所属している第十八班は、家庭や学校以外での自分の居場所に他ならない。しかしながら、もしかすると和泉蓮は、それ以上の存在になるのかもしれなかった。互いを支え、寄り添えるような、かけがえのない存在に。
はっきりとしたことは、渚自身にもまだ分からない。
『関東平野上部を、スパイダーが南西方向に進行中との情報が入った。サイズは中型以上。正確な位置を特定し、一時間後には出発する』
時刻は午前六時を過ぎたばかりであったが、曽我部のアナウンスで蓮は飛び起きた。布団を跳ね除け、大急ぎで身支度を整える。
隊員たちが軍の宿舎を利用し始めてから、重要な連絡は放送でなされるようになった。以前のように岸田が班員を叩き起こし、召集をかけるといった慌ただしいことはない。楽になった反面、何となく昔が懐かしい気もする。
「スパイダーか。ここで暮らし始めてから、出動するのは初めてだな」
迷彩服の袖に腕を通しながら、佐伯が呟く。スペースの都合上、彼らはこれまでと同じく相部屋で生活していた。ちなみに、井上と森川、その他の多くの隊員も同様である。
「ごめん、俺、行かなくちゃならないところがあるんだ」
軽く頭を下げるやいなや、蓮は出し抜けに駆け出した。広さ十畳ほどの一室を後にし、シューズを履いた足を交互にテンポよく踏み出す。
「おい、どこに行く」
驚いて佐伯が呼び止めたが、生憎本人は聞く耳をもたないようだった。
「集合時間までには戻って来いよ」
諦めたようにそう言うのがせいぜいで、彼は珍しくため息をついた。
スパイダー出現の知らせを受けて、政府軍上層部は騒がしさを増していた。各部署への指示が飛び交い、軍服を着た何人もの男たちが歩き回っている。喧騒に満ちたビルの中を、蓮は人だかりを縫って必死に進んだ。
やがて、目的の部屋の前に辿り着く。深呼吸を一つしてドアをノックし、返事が返ってくるのも待たずに扉を開いた。
「何だ、貴様は。無礼だぞ」
デスクに座った司令官と言葉を交わしていたスキンヘッドの男が、ぱっとこちらを振り向いた。胡散臭そうに侵入者を観察し、顔をしかめる。部外者は立ち入るな、と言いたげだ。
「やめなさい。私の息子だ」
だが、司令の台詞が鶴の一声となった。途端に男は居住まいを正し、敬礼までしてみせた。首筋には冷や汗が流れており、自らの失態を恥じている様子だった。
「まさか、ご子息だとは思っておらず……失礼しました」
礼儀正しく後ろに下がった男を横目に、零二は蓮に笑みを向けた。
「会うのは随分久しぶりな気がするな。軍に戻ってからというもの、山積した課題に追われてなかなか時間がつくれなかった」
目の下には、うっすらとだが隈が見える。睡眠時間を削ってまでも、自らのやるべきことに取り組んでいることが伝わってきた。スパイダープラン崩壊までのタイムリミットは、刻一刻と迫っている。少しの時間も無駄にはできないのだろう。
蓮もそのことは十分承知していた。それでも、貴重な時間を割いてまでして話しておきたいことがあったのだ。
「時間がないから、手短に言うけど」
一度言葉を切り、蓮は言った。
「討伐隊に入ったとき、色々な原因があったとはいえ、父さんや母さんの許可なく家を出てしまってごめん。今でも悪かったと思ってる」
急に何を言い出すのかと、零二は当惑したように蓮を見た。彼としては、昔のことは全て許し、水に流したつもりだったのだ。
「だから、今改めてお願いしたいんだ。討伐隊の一員として、スパイダーと戦うことを認めてほしいって」
しかし、続く言葉を耳にした瞬間、なくしていたパズルのピースが見つかったかのようだった。新たなる戦いを目前にし、蓮は今一度、過去とけじめをつけようとしているのだ。
「もちろん許可する。しっかり頼んだぞ」
何度も首を縦に振り、にこやかに言う。表情を輝かせ、蓮も嬉しそうに応じた。
「ありがとう、父さん!」
それから間もなく、来た時と同じように、蓮は風のごとく立ち去った。しばらく見ないうちに、また一段と逞しくなったかもしれない。後ろ姿を見ながら、零二はしみじみとそう思った。
数十分後、車庫から数台のトレーラーが発進した。討伐隊の隊員たち以外にも、軍の正規部隊の構成員もそれに乗り込んでいる。これからは討伐隊だけでなく、この国が一丸となってスパイダーの脅威に立ち向かうのだ。
当然ながら、トレーラーには蓮も乗っている。遠ざかっていく車の列を、零二は司令室の小窓からいつまでも見送っていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
スパイダーの個体数は減り、NEXTの計画も潰しましたが、戦いはまだ終わりません。続編も執筆しております。
第二部「堕天使たちの愛」では新キャラクターを多数登場させ、第三部「暴竜再臨」で今作と第二部の総括のようなことをしています。もし興味のある方は、そちらもお読み下さい。
最初は父と対立してばかりした蓮が、最後には和解し、きちんと許可を得たうえで討伐隊で戦う。このエピローグは、その点を大切にして書きました。
では、また次の作品でお会いしましょう。




