31 最後の戦い(4)
竜の接近を目で捉え、セイレーンは肌が泡立つのを感じた。メドゥーサとペガサスの最期が脳裏をよぎる。
(悪いわね。もう一仕事してからじゃないと、そっちには行けないわ)
通常よりも高位の能力を解放しているため、彼女の肉体には大きな負荷がかかっている。自由に体を動かせないのも、ラードーンと同じだ。流れる汗を拭う暇も惜しみ、セイレーンはより詠唱を高速化させた。唇の優雅な動きが速くなり、意味をなさないフレーズが次々と紡がれていく。さらに強力になった精神攻撃が、飛竜を襲った。
ラードーンは今や、セイレーンの目の前まで迫っていた。その巨躯が、見えないバリアに弾かれたようにぴたりと静止する。苦しそうな呻き声を上げ、竜は小さく体を揺らした。
彼は真正面からセイレーンを見つめていた。白く濁った両目には、怪しい輝きが宿っている。メドゥーサから奪った能力を使い、彼女の動きを封じようとしているのだろう。いくら効果の絶大な歌声でも、唇を動かすことができなくては発動しない。
だが、セイレーンは決して竜の瞳を見なかった。美しい顔をやや伏せたまま、詠唱を続行する。メドゥーサと彼女は、何度も一緒に戦ってきた。近くにいる相手の目を見ないようにするコツくらい、とうの昔に習得済みであった。
不可視の拘束に抗い、竜はほんの僅かに口を開いた。牙の並ぶその奥に、ぼんやりとした紫色の光が見える。毒液を吐きかけるつもりなのだ。またしても戦友の能力を行使しているのを見て、セイレーンは神経を逆撫でされたように感じた。彼女を侮辱することだけは、断じて許すことができない。
たとえ少量であっても、メドゥーサの毒を受けては命に関わる。それは、側で戦ってきたセイレーン自身が最もよく知っている。一旦詠唱のスピードを落とすことで、体の自由を一部取り戻す。翼で体を包み込み、セイレーンは咄嗟に防御姿勢をとった。
けれども、どうやらそれはフェイントだったらしい。竜は毒液を放つことなく、彼女に向かってもう一歩踏み出した。一瞬にせよ詠唱の威力が弱まったことで、ラードーンにも少しではあるが体の自由が戻っていた。そして間合いは限りなくゼロに近くなり、彼は確実に獲物を仕留められるだけの距離にいた。
火炎や毒を使えば、殺すのもいくらか楽かもしれない。ただ、それではセイレーンを捕食し、能力を奪うことができないのだ。あくまでもNEXTの命令に忠実に、ラードーンは動いていた。
(……しまった)
この化け物に作戦を立て遂行するだけの能力があるとは思っておらず、セイレーンは幾分敵を侮っていた。また、メドゥーサを殺し、その能力を我が物顔で使う飛竜に激しい怒りを覚えていた。セイレーンが隙をつくってしまったのは、そうした要因によってかもしれない。
がぱりと開いた竜の顎が、彼女の翼をとらえる。万力のごとき恐ろしい力で、ラードーンは両翼を引きちぎった。白い羽が飛び散り、セイレーンが激痛に耐え切れず悲鳴を上げる。盾を失った獲物の柔らかい肉体に、紅の竜は勝利の雄叫びを上げて牙を突き立てた。
彼女の着ていた真っ赤なセーターが、溢れ出る血でどす黒く染まる。
「和泉君、これを使って!」
隊員たちをかき分け、井上は息を切らして最前列に出た。そして、両手に持っていた物を放り投げる。すぐ側に落ちたそれを、蓮は震える手を伸ばしてどうにか掴み取った。
それは、対スパイダー用狙撃銃。何の変哲もない、討伐隊の使用する基本的な武装だ。
(今さら、こんな武器で何ができるっていうんだ)
諦めにも似た、当然の疑問が頭をよぎる。けれども、井上のひどく真剣な目は何かを訴えていた。蓮にならそれができると、彼女は強く信じていた。
「……そうか。そういうことか」
誰にともなく呟き、蓮は渚に向かって「分かった」と言うように小さく頷いた。ほっとして微笑みを返す彼女の脇に、それに続く一人の戦士がいた。
「佐伯君も、うちの使ってや!」
横に並ぶように立った森川が、同じようにライフルを放る。渚よりもやや勢いよく投げられた銃を、佐伯は横たわったまましっかりと受け止めた。
「任せろ」
全身の力を振り絞り、蓮と佐伯は再び立ち上がった。床に片手を突き、足元は若干おぼつかない。それでも、二人の闘志は本物だった。
井上と森川の意図を、他の隊員らが完全に理解していたかどうかは定かではない。だが、彼らは彼女らに勇気づけられたようだった。
「お前らも使ってくれ」
前列にいた二名の男性隊員が、澤田と松木にそれぞれ一丁ずつライフルを放る。
彼らは曽我部の補佐的な立場にある、年長の隊員だった。二人は当初、政府軍の出身である澤田たちと手を結ぶことにも難色を示していた。それが今では、互いを認め合う関係となっている。
「お言葉に甘えさせてもらおうか」
澤田が微かに笑い、荒い息をついて体を起こす。
「必ず仕留めます」
クールに応じ、松木も再起した。銃を杖のように使い、ふらつく体を支える。
チャンスは、おそらく一度だけだろう。討伐隊は賭けに出ようとしていた。それも、絶対に負けることのできない賭けだ。
鋭利な牙に胴を刺し貫かれてもなお、セイレーンは辛うじて意識を保っていた。ほとばしりそうになる悲鳴を押さえ、自分のすべき最後の仕事を成し遂げようとする。小さく口を開き、ごく短い簡易的な詠唱を行った。
彼女の歌には何種類かの基本的なパターンがあり、一応の様式がある。その最低限の要素だけを押さえ、あとの諸要素をできる限り簡略化したのが今使用したバージョンだ。無論、通常の歌と比べて効果は劣る。
しかし、至近距離から繰り出した場合は別だ。ラードーンに喰らいつかれている今なら、竜の頭部の耳はすぐ近くにある。最前列にいた方がライブ会場で迫力を感じることができるように、彼女の歌声もまた、近距離で聞けば聞くほどその威力を増すのだ。
セイレーンの肉体を一口で飲み込もうとしていた飛竜は、すんでのところで動きを止めた。今度は、微動だにしない。完全に静止していた。
彼女は最後の力を振り絞り、命を賭してラードーンの動きを止めた。セイレーンの歌声による硬直状態から竜が脱するのに、そう長い時間はかかるまい。そうなる前に、迅速に勝負を決める必要がある。
蓮たち四人は床を蹴り飛ばし、紅の竜目がけて全力疾走した。スタミナの温存などは考慮しない、一直線な疾駆であった。
そしてライフルを構え、四方からラードーンの頭部を取り囲むようにして立つ。硬質な鱗へ冷たい銃口を押し当て、蓮は引き金を引いた。強い反動が全身を襲うのにも構わず、何度も何度もトリガーに指を触れさせ、後ろに引く。ゼロ距離から射出された弾丸が竜の皮膚を貫き、ダメージを与えていく。
効いてる、と蓮は微かな希望を感じた。このまま攻撃を続ければ、脳に損傷を与えて戦闘不能に追い込むことも可能だろう。
討伐隊の用いる狙撃銃は確かに強力だが、遠距離からの射撃はラードーンに対してまるで効果がない。一方、近接戦闘に秀でる能力者組も思うような成果を上げられていない。状況を打開する最善の策は、「討伐隊のライフルを使い、ゼロ距離から銃撃を行う」だった。
単純な打撃力なら、能力者の攻撃の方が上なのは間違いない。けれども、一点に破壊力を集中させられる点では討伐隊の武装の方が優れている。
セイレーンが命懸けでつくった好機を逃さず、蓮たちは狙撃銃を連射した。銃弾が皮膚をじわじわと抉り、内部へと潜り込んでいく。ラードーンは時折身を震わせたが、体を完全に自由に動かせる状態にはなかった。歌声のつくり出す幻想の中に囚われ、彼には抵抗する手段がない。
数分間銃撃を続行した後、ついにラードーンはその巨体を横たえた。何発もの弾丸が脳を破壊し、致命傷となっていた。頭部からは多量の鮮血が流されていた。かっと目を見開いたまま、紅の竜が力なく倒れる。フロア全体が揺さぶられるほどの、大きな衝撃が走った。
随分苦戦したし、犠牲を払うことにもなった。それでも、NEXTの誇る最終兵器とやらをやっとの思いで撃破することができたのだ、束の間安堵しかけた蓮の肉体を、ライフル連射による反動が襲った。歯を食いしばってどうにか耐えてきたが、筋肉は悲鳴を上げ、体は限界を迎えていた。
それは他の三人も同じらしい。彼らは体から力を抜き、ぐったりと床に倒れ込んだ。
「――和泉君!」
張り詰めた声音で、渚が駆け寄ってきた。その目は、涙で僅かに潤んでいる。彼女に体を支えられるかたちで、蓮はゆっくり上体を起こした。
「大丈夫?」
「全然平気だよ、これくらい」
軽く首を振ろうとしたら、節々が痛んでしまい苦笑する。
彼女の考えた作戦は、銃撃によって能力者たちに多大な負荷がかかる。だが、渚を責める気は一切ない。確かにリスキーな作戦ではあったものの、この方法以外ではラードーンを撃破することは困難だったであろう。むしろ、感謝の気持ちしかなかった。自分たちだけでは、こんな風に機転を利かせることはできなかったはずだ。
なおも心配そうに覗き込んでくる渚を元気づけようと、蓮は心持ち明るく言った。
「とにかく、これでNEXTの能力者は全員倒したはずだ。あとはユグドラシルを助け出すだけだな」
彼女を救出し、狂った科学者たちの描くシナリオを阻止しなければならない。時間がないのは分かっているが、今の状態では戦闘を続けるどころか上階へ移動するのも難しい。少しだけ休んで体力を回復させ、再び上を目指そう。蓮はそう思った。
ふと、ラードーンの傍らに倒れたセイレーンへと目を向ける。彼女は胴体に痛々しいほど深い傷を負い、どう見ても助かる見込みはなさそうだった。第一、出血量が多すぎる。仮に傷口を塞ぐことができても、長くはもたないだろう。
「私のことなんてどうでもいいのよ。あなたたちは、早く上に行きなさい」
か細い声で彼女は言った。ごぼっと嫌な音がして、こみ上げた血が口から溢れる。何度も苦しげに咳き込んでから、セイレーンは続けた。
「馬鹿ね。私はあなたたちの敵なのよ。同情する必要はないわ」
少し間を空けて、彼女は声を震わせた。
「でも、最後に一つだけわがままを言わせてほしいの。どうか、私たちにできなかったことを、あなたたちが……」
そこで言葉は途切れた。それがセイレーンの最後の言葉になった。
彼女の両目が焦点を結ばなくなり、首ががくりと下に落ちる。やがて、目も閉じられた。その死に顔は、何かの呪縛から解放されたかのように安らかだった。白い羽と赤い血の鮮やかなコントラストに彩られて、彼女は静かに息絶えた。
蓮は瞼を閉じ、少しの間黙祷をささげた。言うまでもなくセイレーンと自分たちは対立関係にあったが、彼女の協力がなければラードーンを倒せなかったのも事実だ。第二世代の能力者らは、最後の最後で正義のために戦い、その命を散らしたのだった。
(任せてください。あなたの意志は、俺たち討伐隊が受け継ぎます)
渚が蓮を介抱したように、佐伯の側には森川がいた。
「さっきはありがとう」
それだけ言って、佐伯は狙撃銃を彼女へ返した。
「正直に言って、見直したぞ。お前になら、俺の背中を預けられるかもしれない」
「ほんまに⁉」
続く台詞に、森川は目を輝かせて飛びついた。今の発言は、自分の技量を認めたのと同義ではないのか。佐伯と並んで歩くことを夢見ていた彼女の脳内には、ラブロマンス的な妄想が溢れんばかりであった。
「いや、和泉のやつには及ばないが」
だが、愛想なく付け足した佐伯に森川はがっくりした。文字通り肩を落とした彼女の様子を、彼はどこか面白がるように見ていた。それは、他愛ない戯れに似ていた。
一方で澤田を介抱していた人物は、察する通りである。二人のやり取りを、松木はやや引き気味に眺めていた。「馬鹿な女に絡まれると大変ですね……」と言いたげである。
「隊長~! ご無事で何よりです」
「おい、泣くな。それと、そんなに背中を叩くな。傷が痛む」
縋りついてわんわん嬉し泣きしている白石を、澤田は顔をしかめて見ていた。不意に、何か思い出したように彼は言った。
「白石、今は一刻を争う。お前の得意分野を生かすときだ」
「えっ?」
一瞬きょとんとしたのち、彼女はぽんと手を叩いた。合点がいったらしい。
「了解しました!」
涙を拭い、すっくと立ちあがる。口の中でコマンドを唱え、彼女も能力者の姿へと変身した。ウサギの長い耳と白い体毛、まん丸で可愛らしいしっぽをそなえた外見へと変わる。
「負傷者を連れて移動するのが、私の仕事ですものね」
にっこりと笑って、白石は四人の能力者を見回した。順番に運ぶことにはなるであろうが、そう長い時間はかかるまいと思った。
初期案でも、セイレーンの歌でラードーンの動きを止めることは考えていました。
しかし、肝心の「どうやって強敵ラードーンの防御を破るのか」は思いつかず、書きながら考えた結果がこちらです。
序盤でしか蓮が使っていなかった対スパイダー用の銃が再登場し、また、それを渚と森川が投げ渡すのには原点回帰的な意味合いを込めました。
仲間との絆を再確認できるような内容になり、結果的には良い塩梅になったのではないかなとと思います。