30 最後の戦い(3)
紅の飛竜の放った炎を、能力者たちは身を屈めて躱した。頭上を通り過ぎた火球が柱に命中し、黒い焦げ跡を残す。
「くそっ、これじゃ近づけんぞ」
澤田が悪態を吐いた。事実、蓮たち四人は遠距離の敵への攻撃手段を持たない。討伐隊による集中砲火が頼みの綱だが、現状ではさほど大きなダメージを与えることは期待できなかった。
ふと、ラードーンが視線を蓮たちから逸らした。彼の目が向いた先には、暗くなったパネルを呆然自失として見つめるセイレーンがいた。彼女は、今しがたのジェームズの話を信じられずにいるようだった。
「……話が違うじゃない。あの糸のエキスは大気中の温室効果ガスを吸収して、地球環境を温暖化以前の状態に戻すんじゃなかったの?」
喚くように独り言ち、広げた両手をわなわなと震わせる。
「私たちは、今まで何のためにNEXTに尽くしてきたっていうのよ」
セイレーンはなおもぶつぶつと呟き続け、竜が自身の方へ頭部を向けたことに気づいていない。
彼女の言葉を聞いて、蓮は心を揺さぶられたようだった。
どうやら、セイレーンら第二世代の能力者にさえも、科学者たちの描く真のシナリオは知らされていなかったらしい。彼女たちはジェームズらにとって都合の良い嘘を吹き込まれ、いいように操られていたのだ。おそらくは、造られてからずっと。
蓮自身、セイレーンに対して別段好意的な感情を抱いているわけではない。彼女は特殊な歌声で相手に幻覚を見せることができ、その能力で討伐隊を翻弄してきた。とりわけ、第十八班の班員である井上渚の心の傷を抉り、精神的に深く傷つけたことは許しがたかった。
だが、セイレーンも科学者たちに利用されていたことが明らかになった今、彼女に対する見方は変わりつつあった。第二世代の三人はジェームズらに騙され、正しい目的のためだと信じて任務を遂行してきたのだ。それは、同情や憐れみに近い感情であった。
だからかもしれない。思わず、蓮が切羽詰まったように叫んでしまったのは。
「逃げろ!」
蓮の警告が、ぼんやりとしていたセイレーンの意識に届く。弾かれたように顔を上げた彼女へ、ラードーンは凄まじい勢いで突進した。背中の翼を広げて爆発的な推進力を生みだし、一気に間合いを詰める。
セイレーンは恐怖のあまり、顔面蒼白になっていた。ぺたりと床に座り込んでしまい、おののいて竜の巨体を見上げる。彼女の脳内で、メドゥーサが食い殺される光景がフラッシュバックした。ああ、私も同じ運命を辿るんだ、という絶望がセイレーンを包んだ。
多分、NEXT上層部はセイレーンをも始末するべきだと判断したのだろう。メドゥーサがラードーンに惨殺される様を目の当たりにし、さらにはNEXTの真の計画を聞かされたことで、彼女は戦闘を続行できる状態ではなくなっていた。役に立たない部下を生かしておくよりは、その能力をラードーンに移した方が利益になると判断したに違いない。
大きすぎるショックからいまだ立ち直れず、戦友を殺した怪物を前にセイレーンは何もできなかった。討伐隊の隊員らが銃撃を浴びせかけたが、硬い鱗に当たった弾のほとんどは跳ね返されてしまう。高速で疾駆する飛竜は、一直線にセイレーンへ迫った。顎を大きく開き、無防備な肉体を噛みちぎらんとする。
セイレーンは悲鳴を上げ、細い腕で体を庇うようにしてうずくまった。目を閉じ、すぐにやって来るであろう死を覚悟する。
しかし、予想された激痛は訪れなかった。討伐隊が食い止めてくれたのだろうかと、彼女は怖々と目を開いた。
「ペガサス……!」
驚愕のあまり、心臓が止まるかと思った。
紺のスーツはぼろぼろになり、何か所も傷を負って満身創痍。それでもペガサスは、彼女の前に立っていた。閉じられようとするラードーンの上顎と下顎とをそれぞれ右腕と左腕で抑えつけ、辛うじて攻撃を防いでいる。
よろめきながらも階段を上ってきたペガサスは、ラードーンが暴走する現場に出くわした。最後の力を振り絞って翼を展開し、飛竜とセイレーンの間に割って入ったというわけだった。
「間に合って良かったです」
普段通り、ペガサスは爽やかに言ってのけた。けれども、口調とは裏腹に余裕は一切感じられない。
澤田や松木と交戦して受けたダメージで、彼の肉体は限界を迎えていた。ラードーンの上下の顎を抑えている腕が、時折痙攣を起こしたように震える。歯を食いしばり、彼は残された力の全てをもってセイレーンを守った。
「もうやめて。私なんかを庇って、あなたまで死ぬ必要はないわ!」
束の間の均衡は、じきに破られるだろう。そう悟り、セイレーンは涙を流しながら必死の形相で訴えた。犠牲になるのは、自分一人で十分だった。
「そういうわけにもいきません。私も、さっきのジェームズ氏の談話を聞いてしまいましたからね」
呼吸を荒げ、ペガサスは儚げに笑った。
「私は、これまで多くの罪を犯しました」
澤田と松木の方をちらりと見てから、彼は静かに続けた。一瞬だけではあったが、三人の視線が交錯した。
「あなた方の同胞を手にかけ、狂った科学者たちの計画に加担してきました。騙されていたからだとはいえ、到底償い切れない罪です。私の命をもってしても、許されることはないでしょう」
そして、ペガサスは再びセイレーンを見つめ、弱々しく微笑んだ。
「ですが、せめて最期くらいは……誰かを守って死にたいものです」
それが、彼の残した最後の言葉となった。
ペガサスの腕を振り払い、紅の飛竜が上下の顎をがちりと閉じる。鋭い牙が彼の肉体を刺し貫き、腰から上の部分を一口で噛みちぎった。鮮血が飛び散り、辺りは血の海となる。
「嘘でしょ……ペガサス? ペガサス⁉」
セイレーンの悲痛な叫びだけが、静まり返ったフロアにこだましていた。
咆哮を轟かせ、ラードーンは今度こそセイレーンを喰らおうとした。再度口を目いっぱい開き、鋭利な牙を覗かせる。
「――この野郎!」
その真横へ素早く回り込み、蓮は床を蹴って跳躍した。右腕を軽く後ろへ引き、竜の側頭部へストレートパンチを叩き込む。ラードーンは呻き声のようなものを上げて、数歩後ずさった。
「何のつもりだ、和泉。その女は俺たちの敵だ」
敵を見据えつつ着地した蓮に、佐伯が問いかける。
「そんなことは分かってる。でも……」
蓮の中では今、理不尽な犠牲を強いるNEXTへの怒りが爆発しそうだった。彼らは自らの部下でさえも、機械を構成する部品の一つくらいにしか考えていない。
「もうこれ以上、誰も死なせたくない」
返答を聞いて、佐伯は眉をぴくりと動かした。やがて彼は蓮の隣に並び立ち、両腕を体の前で油断なく構えた。
「同感だ。ともかく、あの竜を倒すのが先決だな」
一方の澤田と松木は、戸惑ったように顔を見合わせた。散り際に自分たちへ向けられたペガサスの眼差しを、彼らは忘れることができなかった。彼は「許してほしい」と言っているようでもあり、「許されるはずもない」と諦めているようでもあった。
二人にとって、ペガサスは藤宮を含む多くの仲間の命を奪った仇敵だった。しかし、第二世代のエースであった彼でさえも、NEXTに操られる手駒に過ぎなかった。彼は最期の瞬間に罪を自覚し、自らの命を投げうって大切な仲間を守ったのだ。
「澤田さん、僕たちも行きましょう」
やや間があって、松木は決意を滲ませて言った。
「彼もまた、犠牲者の一人でした。僕たちは、この悲劇を終わらせなければいけません」
「ああ」
低い声で澤田が応じ、二人は蓮と佐伯の側へ駆け寄った。
「癒せない悲しみを味わうのは、俺たちだけでいい」
並び立った四人の戦士は、雄叫びを上げてラードーンへと向かって行った。
火炎を吐きかけようとした竜の顔面を目がけて、松木がショルダータックルを繰り出す。フロアを疾走し、彼は既に敵の死角へ回り込んでいた。床を蹴り飛ばして高く跳び、右肩を前に突き出す。左の頬に予想外の衝撃を受けて、ラードーンの攻撃は不発に終わった。頭部を震わせ、よろめいた相手へと、蓮と佐伯が飛びかかる。
「はあっ!」
紅の鱗の上へ飛び乗り、佐伯は一気にそこを駆け抜けた。腹部を蹴って跳び、ラードーンの下顎へアッパーカットを喰らわせる。続いて、敵の懐へ潜り込んだ澤田が、ラードーンの脚部に殴打を叩きつける。
剛腕が唸り、強烈な一撃を受けて竜はふらついた。ペガサスを喰らったことにより脚力は強化されているようだが、それは元々手足があまり長くない彼にとって活かしづらい能力だった。
一方、竜の長い首へ飛び移った蓮は両腕の爪を振りかざし、連続で切りつけた。硬質な鱗が一枚、また一枚と剥がされ、僅かながら傷を負わせることに成功する。
間断なく頭部を攻撃し続けることで、毒や炎を吐く暇を与えない。手数で相手を圧倒するというのが、蓮たちの立てた作戦の基本方針だった。今のところ、少しずつではあるがリードを広げ、ダメージを蓄積させている。いけるかもしれない、と蓮は思った。
不意に、ピキピキという乾いた音がどこからともなく聞こえた。見れば、ラードーンの皮膚が徐々に鎧のようなものに覆われ、黒ずんでいく。
「まさか、メドゥーサの石化能力か」
佐伯が焦りを露わに呟く。ただでさえ硬い防御を誇る相手が、最強の盾を得てしまった。これでは、いくら攻撃しても一向に体力を削り切れない。
ラードーンは連たちの猛攻をものともせず、翼を広げ、その巨体を激しく揺すった。強い振動に耐えられず、蓮たちは振り落とされてしまった。床に叩きつけられ、痺れるような衝撃が全身を襲う。
(くそっ、どうすればいいんだ。まるで突破口が開けない)
蓮は心の中で悪態を吐いた。どうにか上体を起こしたはいいが、飛竜は今にも炎を吐き出そうとこちらへ顎を向けている。討伐隊の援護射撃も、皮膚を石化したラードーンには全く効果がない。怯ませることすらままならない。
四人はふらつきながらも立ち上がり、懸命に抵抗を試みた。
文字通り目の前で、ペガサスはラードーンに捕食された。セイレーンは残された彼の肉片へと目を落とし、繰り返される悲劇に打ちひしがれ、涙を流した。
しかし、ペガサスは悲しみだけを残していったわけではなかった。彼の最後の言葉が、彼女に勇気を与えてくれた。
(ペガサスの言う通り、私たちのしてきたことは間違っていたんでしょうね)
鮮血の飛び散った床に片手を突き、セイレーンは静かに、ゆっくりと立ち上がった。涙を拭い、討伐隊と交戦している紅の竜を見つめる。
(だったら、今私にできることをやるだけよ)
自らの過ちを悟り、セイレーンは討伐隊に協力して戦うことを決めた。今まで彼女が行ってきたことと、それは明らかに矛盾する行為だ。けれども、彼女に躊躇いはなかった。
諸悪の根源が自らを造り出したNEXTであることは、もはや疑いようもない事実だった。ならば、自分のアイデンティティーや信条など知ったことか。最後の最後まで戦い抜いて、一矢報いてやる。セイレーンは、固く決意していた。
彼女は深く息を吸い、全神経を集中させた。そして、メロディーを紡ぎ始めた。
セイレーンの唇から流れ出る歌が、響き渡る。意味をなさない単語の羅列が軽やかな旋律に乗り、リズミカルに歌われる。
反射的に耳を塞ごうとして、蓮ははっと手を止めた。通常であれば伴うはずの苦痛が、いつまでたっても到来しない。隊列の後方で、森下や井上も戸惑ったような表情を浮かべていた。
特定の相手の精神にのみ干渉する、セイレーンのもつ第二の能力。それが解放されたのを見るのは、討伐隊の面々にとっては初めてのことだった。この歌声は普通のものとは異なり、歌い手自身が意図した相手にしか作用しない。味方を巻き込む恐れはなくなり、対象は一体に限定される。
その代わり、精神攻撃を放っている間、セイレーンは無防備になる。絞り込んだターゲットに強力な精神干渉を行える一方で、歌っている間は体を自由に動かすことが難しくなる、諸刃の剣だ。この能力は元々、尋問などのシチュエーションで活用されることを期待して開発されたものである。威力は高いが、実戦で使われることは想定されていない。
今この瞬間だけは、セイレーンは討伐隊を共に戦う仲間だと認めていた。彼らに影響を及ぼさぬよう配慮した歌声が、ラードーンを襲う。人間だった頃のおぼろげな記憶を呼び覚まされ、竜は苦しげに吠えた。巨体を横たえのたうち回るラードーンを見て、蓮たちの中に微かな希望が生じた。
火炎と毒霧を吐いて攻撃し、鋼のごとき強度の皮膚をもつ暴竜。だが、その動きは今、ほとんど封じられた。
蓮はセイレーンの方を向き、ありがとうと小さく頷いた。彼女は詠唱に意識を集中させ、額に玉のような汗を浮かべていた。蓮に気づくと、はにかんだような笑みを返してきた。
一時的なものにせよ、セイレーンと討伐隊は協力関係を結んだ。隙を見せたラードーンへと、四人の能力者が再び襲いかかる。
果敢に攻撃を仕掛ける蓮たちだったが、いまひとつ決定打に欠けていた。石化能力を使ったラードーンの硬い皮膚を突き破るには、通常の打撃だけでは不十分なようだった。
セイレーンの歌声に苦しむ紅の竜へ、松木がタックルを繰り返し喰らわせる。蓮も幾度となく殴打を叩き込んだ。佐伯と澤田も奮闘し、爪で鱗を切り裂こうとしている。しかし、それでも致命傷を負わせるには至らない。討伐隊も絶え間なく援護射撃を行っているものの、銃弾の大半は鱗に弾かれてしまう。
ラードーンは全身を震わせながら、ゆっくりとその首を持ち上げた。視線は、セイレーンへと真っ直ぐに向けられていた。奇妙な歌で精神に干渉してくる彼女を、竜は第一に排除すべき敵だと認識していた。大きく太い脚が徐々に持ち上がり、ぎこちなく動く。
飛竜はセイレーンの歌声の影響を受けつつも、ぎりぎりのところで意識を奪われていなかった。簡単な思考しかできず、自分がまだ人間であったときの記憶が曖昧である彼は、常人よりも精神攻撃への耐性があった。獣に催眠術が効かないのと同じ理屈だ。鈍重ではあったが、ラードーンは彼女のいる方向へと歩みを進めた。
敵の動きを制限してくれているセイレーンが倒されれば、自分たちに勝機はない。彼女を守るべく、蓮たちは竜の巨体へ一斉に飛びかかった。
ヒュン、という小気味いい音が耳に飛び込んできた。次の瞬間、凄まじい衝撃が全身を襲う。四人は大きく吹き飛ばされ、フロアに身を投げ出した。柱や床に強く体を打ちつけ、痛みに呻吟する。
ラードーンが長い尾を振り回して風を切った音だと理解するのに、少々時間がかかった。強靭な尾は筋肉の塊のようで、それを叩きつけられた体中が痺れるように痛んだ。口の中は血の味でいっぱいだった。
倒れ伏した蓮には目もくれず、竜は一心不乱にセイレーンへと迫った。飛行能力を使えるほどには体の自由を取り戻していないようだが、一歩一歩確実に距離を詰めていく。
「やめろ」
喉の奥から絞り出すようにして、蓮は叫んだ。思いのほか、かすれた声が出てきた。生憎、ラードーンに気にした素振りはない。言葉の意味を解したのかどうかすら怪しい。
焦ったように討伐隊が銃撃を行うが、竜に目立った外傷はない。隊列後方で、井上はライフルを構えて青くなっていた。彼女も懸命に撃っているけれども、全くと言っていいほど成果が得られていない。
(どうしよう。このままじゃ、あの人まで殺されてしまう)
言うまでもなく、セイレーンの歌声によって辛い過去を思い出させられたことを、渚は快く思っていない。忘れようと努めていた高校での出来事と無理矢理に対峙させられ、彼女は再び心に傷を負うことになった。
しかし皮肉なことに、今この状況ではセイレーンの力が必要だった。彼女の歌声による拘束からラードーンが逃れれば、討伐隊はNEXTへの有効な対抗手段を失ってしまう。
何か打開策はないかと、渚は必死に考えを巡らせた。




