22 敗走
司令室で一人、零二は時計を睨んでいた。作戦終了の予定時刻はとうに過ぎているのに、いまだ誰も帰還していない。胸騒ぎがして、喉が渇いてもいないのにミネラルウォーターの入ったボトルに何度も口をつけた。
ドアがノックされたのは、予定時刻を三十分以上過ぎてからだった。
「入りたまえ」
声を掛けると、開いた扉の隙間から女性が一名入ってきた。運送会社のものに似せた制服は所々が破れ、数か所には血がこびりついている。壁にもたれるようにして立ち、小柄な彼女は肩で息をしていた。ウサギの能力者の女であった。
「ああ、君か。他の皆はどうした?」
焦って尋ねた零二に、彼女は絶望し切った表情で首を振った。
「全滅です」
「……何?」
零二の顔が強張った。女は、しゃくり上げながら続けた。
「逃げ延びたのは、多分私だけです。皆、NEXTの能力者にやられました」
張り詰めていた糸がぷつりと切れたように、彼女の全身から力が抜ける。床に膝を突き、女は大粒の涙を流していた。
「私のせいです。私が、皆を焚きつけるようなことを言ってしまったから。本当は、戦いたくなかった人だっていたはずなのに」
「何を言うんだ。元はと言えば私のせいだ。私がこんな作戦を提案したばっかりに……」
無力感と情けなさに押し潰されそうになりながら、零二は言った。
いくら政府軍の最高司令官といえども、軍の正式な部隊を動かしてNEXTを攻撃させれば職権濫用となる。いわば暗部である特殊部隊の元メンバーを結集するというのが、彼個人の力でできる最大限の抵抗だった。
零二は、自分が切れる手札を全て切って勝負に出た。そして彼は、完膚なきまでに勝負に負けたのだ。かつての部下を一人を残して皆死なせ、何の成果も上げることができなかった。彼のせいで、第一世代の能力者の多くは無惨に散ったのだ。
自然と沈黙が訪れ、女のすすり泣く声だけが聞こえた。零二には想像もつかなかったが、きっと酷い光景を目にしたに違いない。
束の間の静寂を破り、不意にデスクに備え付けてある電話が鳴り出した。
「はい」
受話器を取った零二に、電話口の向こうの部下は早口で伝えた。怯えたような声音だった。
『NEXTのジェームズ所長が見えています。緊急の要件があって、司令にお会いしたいとのことです』
「ジェームズ氏が?」
受話器を耳に当てたまま、零二は固まってしまった。しかし、すぐに冷静さを取り戻すと、壁一面に並んだモニターの画面に目を走らせた。ジェームズが三人の側近を連れ、軍施設の入り口付近で受け付けの者と何か話している。
『ええ。開発中の新型戦闘機について、よりエネルギー効率を良くできる方法の確立に成功したと仰っています。試作機をお見せしたいので、今からNEXTの本部ビルに一緒に来てもらえないだろうか、とのことです』
「それは、今すぐにでないと駄目なのだろうか?」
『そう仰っております。試作機の設計を担当した者が明日からしばらく海外出張になるため、できる限り今日中に目を通してもらいたいとのことです』
なるほど、もっともらしい口実を持ち出してきたものだ、と零二は思った。スパイダーを倒すために軍が用意しているのは何も地上部隊だけではなく、他にも様々な兵器を用意している。戦闘機もその一つだ。
スパイダーを倒す際、わざわざ高所に武器を運んで敵を迎え撃つよりも、上空から戦闘機で目標を狙い撃った方が容易なのは自明である。ただ、スパイダーの張り巡らせた巣に邪魔されてさほど高度を上げることができないのが難点で、対スパイダー用の兵器としては開発が遅れがちだった分野だ。敵の上を飛ぶことが難しいのであれば、スパイダーへの有効な手段とはなりにくい。それに、開発にかかる費用も馬鹿にならない。
NEXTは政府軍に技術協力をしていて、戦闘機の新型モデルの設計もその一環だ。ジェームズの申し出自体は、取り立てて不自然なものではなかった。だが、そのタイミングが奇妙だった。
「分かった。すぐ行こう」
手短に言って、零二は電話を切った。受話器を置き、司令室を出ようとする。その手首を、ウサギの能力者の女はひしと握った。
「行っちゃ駄目です」
両目にいっぱいに涙を溜めて、彼女は必死に訴えた。
「分からないんですか?これは罠です。新型の戦闘機なんて、嘘っぱちに決まってます。多分ジェームズ氏は、さっきの襲撃を計画したのが司令だと察しているんですよ。行けば、尋問じみた目に遭わされるに決まっています。いえ、もしかしたら抹殺されるかもしれません」
「そんなことは分かっているよ」
零二は強く腕を振り、彼女の手を振りほどいた。寂しそうに笑って、なだめるように言う。
「けれど、仕方のないことなんだ。今回の件は、全部私の責任だ。私が償うしかあるまい」
「駄目ですっ」
女は扉の前に立ちはだかり、零二を通すまいとした。泣きそうな顔で、懸命に言葉を紡ぎ出す。
「司令にまで死なれたら……皆が何のために散っていったのか、分からないじゃないですか」
その台詞にはっとさせられ、零二は数度瞬きをした。
「司令、お願いですから生きてください。生きて、最後の最後まで足掻いてください。それとも、このままNEXTに好き勝手させておくつもりですか」
「それは……」
零二の視線は刹那、虚空をさまよい、そして彼女を真っ直ぐに見つめた。その目には、再び闘志が宿っていた。
「すまない、どうかしていたようだ。私は絶対に諦めない。何としてでも、奴らの陰謀を食い止めてみせる」
扉を閉めて部屋の内部へ向き直ったとき、視界にモニター画面が入った。何気なくそちらを見やると、ジェームズの側にいた男女三人が消えている。
「どうかされました?」
覗き込むようにして尋ねてくる女に、零二は不安そうに答えた。
「いや、ジェームズ氏はまだ一階にとどまっているんだが、彼と一緒にいた人たちが見えないなと思ってね。ほら、紺色のスーツを着た男性たちだ」
「紺色のスーツの……」
彼女は何とはなしに復唱してみて、ぎょっとしたように目を見開いた。悪夢のような光景が甦ってきた。動きを封じられた仲間たちに次々と回し蹴りを喰らわせ、命を奪ったスーツの男性を女は覚えていた。
「まさか、彼の側にいたのは」
言い終わらないうちに、司令室の扉が物凄い力で蹴られた。頑丈なはずのドアが大きくへこみ、今にも蹴り破られようとする。
NEXTの能力者だと察し、女は素早く動いた。小さくコマンドを唱え、ウサギの力を発現させる。ふさふさの白い毛と長い耳をもった姿へ変わると、彼女は背中におぶさるよう零二に言った。
「逃げましょう。彼らは間違いなく、司令を殺すつもりです!」
零二を背負い、能力者の女は跳びはねた。窓の側へ一跳びで移動し、ガラスを突き破って飛び降りる。その直後、司令室のドアを蹴り破ってペガサスが踏み込んできた。背後で鈍い衝撃音が聞こえる。
女は音もなくアスファルトに着地し、将棋の桂馬の駒のような軽快な動きで跳びはねて、ぐんぐん進んで行った。かなりの高さから落ちたわけだから、足には相当な衝撃が伝わっているはずだ。それでも彼女はちっとも苦しそうな素振りを見せず、ただひたすら駆け続けた。何せ、相手は飛行能力を持っているのだ。いくら引き離しても、引き離し過ぎるということはない。
「それで、ええと……どこへ向かいましょうか?」
ひとまず距離を稼ぐことで頭がいっぱいで、今までは闇雲に跳びはね続けていたらしい。軍の敷地を抜け、今は人気のない住宅街を屋根から屋根へ移動している。首だけで振り返って問うた彼女に、零二はいくらかの迷いを伴って答えた。
「討伐隊のキャンプ地だ。少し古いものだが、連中の位置情報がデータとして残っている。こうなってしまった今、NEXTに対抗しうる組織は討伐隊しかあるまい」
消去法でいくと、他に選択肢はなかった。NEXTは軍の施設を隅々まで知り尽くしている。そのどこかに身を寄せるのは、危険極まりない行為だ。
もちろん、討伐隊のキャンプ地に向かうことに抵抗はあった。彼らにしてみれば、敵対している組織の親玉が転がり組んでくることになる。当然、歓待はされないだろう。どうにか事情を説明して、力を貸してもらえないかと懇願するしかない。自分勝手な頼みだと一蹴されればそれまでだが、現状NEXTに対抗できるのは討伐隊だけなのだ。
討伐隊のところに行けば、おそらく蓮にも会うことになるだろう。久しく会っていない気がする。どんな顔をして会えばいいのか、零二にはまだ分からなかった。特殊部隊の報告によれば、蓮は既に自分の力に覚醒しているらしい。
そろそろ、真実を伝えるべきなのだろうか。そうすべきかどうか、零二には判断がつかなかった。能力者の女が進行方向を変え、零二に伝えられた方角を目指して大きく跳ぶ。彼女の背中におぶわれたまま、彼は悩み続けていた。
見張りに立っていた隊員は、何者かが接近していることに気がついた。
のんびりと吹かしていた煙草を慌てて放り捨て、岸田は前方に目を凝らした。中年の男性と若い女性の二人組で、こちらに向かって真っすぐ歩いてくる。
時刻は日没間近、もうそろそろ夕食の支度が始まるという頃だった。最近では岩崎も食事の用意を手伝ってくれるようになっていて、彼女の手料理を岸田は密かな楽しみにしていた。
「お二人さん、止まってもらおうか」
ライフルを構え、岸田は低い声で言った。見張りの任務など退屈なだけで、いつもは適当に手を抜いている。だが、切り替えが早いのが彼の強みだった。
二人は大人しく指示に従った。両手を上にあげ、戦う意志がないことを示す。NEXTの連中かと警戒していただけに、少し意外に感じられた。
「ここから先は討伐隊のキャンプ地だ。一般人が立ち入っていい場所じゃない。分かったら、回れ右して帰るんだな」
この場所のことは他言無用で頼むぜ、と付け足そうとして、岸田は妙な既視感を覚えた。以前にも、どこかでこの男の顔を見たことがある気がした。
「私たちは、その討伐隊に用があるのです」
男性は落ち着いた声音で言った。その表情をまじまじと見つめ、岸田は思わずあっと声を上げていた。数年前に写真で見たときに比べると、いくらか老け込んでいる。皺の数も増え、髪に白いものも多く混じり始めていた。険しい表情には彼自身の経験した苦しみがありありと現れていて、それでいて岸田のよく知る人物の面影が微かにある。
「あんた、何を考えてる? 散々俺たちのことを邪魔しておいて、一体どういう風の吹き回しだ」
「……話せば長くなる」
和泉零二は、苦々しげに応じた。彼の側で、女は心配そうにやり取りを見守っていた。
彼らの突然の来訪は、隊員たちを大いに驚かせた。ざわめきが広がり視線が行き交う中を、零二と能力者の女は歩いた。四方を武装した男らに囲まれ、キャンプ地の中央へと付き添われていく。
待ち構えていた曽我部は、仇敵の姿を認めて目を細めた。
「これはこれは、和泉殿」
皮肉たっぷりに言い、会釈する。お世辞にも好意的とは言えない態度だったが、今までの政府軍と討伐隊の軋轢を考えれば至極当然のことである。
「今日はどういったご用件で?」
零二が口を開こうとしたそのとき、人だかりをかき分け、息を切らして二人の男が駆け寄ってきた。
「司令⁉ 何故ここに」
訳が分からないという風に、澤田と松木は口を揃えて言った。零二は戸惑いを隠さなかった。
「君たちこそ、どうして討伐隊と行動を共にしているんだ」
「手短にまとめると、共通の敵ができたからです」
そう答えた澤田の胸に、何か柔らかいものがぶつかってきた。背中に軽く手を回され、澤田は驚いて相手の顔を見た。
「お前、特殊部隊にいた白石か」
「はいっ」
ウサギの能力者の女は半泣きになったまま、ぎゅうっと澤田に抱きついていた。軍基地から逃げる道中は堪えていた涙が、ここにきて一気に溢れ出したようだった。
昔から割とストレートに感情表現をする奴だったが、皆が見ている前で抱きつかれたのには少々狼狽する。けれども、何故彼女たちが訪ねてきたのか知りたい気持ちが照れくささを上回った。
「隊長たちがご無事で何よりです」
よく見れば彼女の衣服には血がこびりつき、所々が破れている。間違いなく、戦闘の形跡があった。
「一体、何があったんだ」
白石は顔を上げたが、泣きじゃくっている彼女は冷静に話ができそうな状態ではなかった。代わりに、零二が咳払いを一つして話し始める。
「NEXTを倒すために、君たち討伐隊の力を借りたい。図々しい申し出であることは百も承知だ。しかし、私はもう他に誰も頼ることができなくなってしまった」
「どうしたんですか、そんなに急かして」
その日の訓練を終えて一息ついていた蓮を連れ、岸田は歩調を速めた。
「親父さんが来てる。さっさと行くぞ」
「父さんが? そんな、一体どうして」
思わず大きな声を上げてしまった蓮へ、班員たちの視線がぱっと向いた。
「さあな、俺にも分からん。とにかく、今キャンプ地中央部で親父さんの取り調べが行われるらしい。最初は曽我部隊長のテントに連れ込んで尋問する予定だったみたいなんだが、政府軍の大物が現れたってことで話が大きくなっちまってな。野次馬根性のある隊員も多いんで、いっそのこと皆の前で話を聞いた方が良いってことになった。隊長が皆に事情を説明する手間も省けるしな。ほら、行くぞ」
岸田にせきたてられて、蓮は急いでその後を追った。
頭の整理は全くと言っていいほどできていなかった。敵である討伐隊の本拠地に自ら乗り込むなど、自殺行為に等しい。父が何を思ってそんな行動に出たのか、真意を知りたいと強く思った。まさか、息子である自分に会いたいとか、そういう理由ではないだろう。父が自分に愛情を向けてくれたと思えたことは、ほとんどない。零二が政府軍最高司令官に就任し、人が変わったようになってからは一切なかった。あるのは、否定と拒絶だけだった。
物事を良い方に考えるとすれば、思わぬかたちで父を話す機会が得られたということにもなる。蓮がずっと頭を悩ませてきた自身の異能の謎が、ようやく解き明かされるかもしれない。
何はともあれ、会って話をしないことには始まらない。先の見えない展開に若干の不安の色を見せつつも、蓮はしっかりとした足取りでテント群を縫って歩いた。