20 赤き竜
都心のオフィス街の中でも、際立った高さを誇る超高層ビル。その最上階にある一室で、ジェームズはデスクの前に座っていた。椅子を百八十度回転させ、ガラス張りの壁の方を向く。見下ろした地上では、あまりにもちっぽけな車がせわしなく行き交っていた。小さな点くらいにしか見えない人間たちが、何かにせきたてられるように急いで道を歩いている。
不意に、机に備え付けてある電話が鳴った。椅子を再度回してデスクへ向き直り、落ち着いて受話器をとる。
「私だ」
『所長、大変です。スパイダーが当ビルの方面に向かって進行中、との情報が入りました』
電話口の向こうで、男は早口で言った。おそらく下の階で連絡を受け、エレベーターで移動する時間も惜しみ、直接電話したのだろう。かなり切羽詰まっている様子だった。
「このビルに?」
『はい。それも、大型の個体です』
ジェームズは顔をしかめた。間が悪いことに、第二世代の能力者たちは今、ユグドラシル回収のため出払っている。通常なら彼らに迎撃を頼むところだが、そういうわけにもいかないようだった。
「政府軍の力を借りることはできないのかい。彼らには山ほど貸しがある」
『一番近い軍の基地からでも、車で一時間はかかります。おそらく、間に合わないかと』
「なるほど」
芳しくない事態に直面し、ジェームズは唸った。
政府に余計な戦力を持たせたままにしておくのもまずいと思い、しばらく前に特殊部隊は解散させてある。しかし、それが仇となった。通常の部隊でもスパイダーに対抗できないわけではないが、能力者のように迅速に現場に駆けつけることは不可能だ。大型の個体ということであるし、今の政府軍が尽力しても速やかに倒すのは難しいかもしれない。
こうなれば奥の手を使うしかあるまい、とジェームズは腹をくくった。背に腹は代えられない。まだ完成には至っていないが、実戦に投入できるレベルには十分達しているはずだった。
「仕方ないですね。ラードーンを使いましょう」
『よろしいのですか』
男は、ひどく驚いているようであった。
「構いません。私が許可を出します」
『……承知しました』
うやうやしく引き下がり、男が通話を終了する。ジェームズは受話器を置くと席を立ち、執務室を後にした。
このビルは中央部分が吹き抜けになっていて、その最下部、つまり地下五階の床はエレベーターのように上下する。研究資材を効率よく運搬するための仕掛けである。
フロア中央部に近づき、ジェームズは手すりから下を覗き込んだ。地階から徐々に上昇してくる、円形の厚い床。その上に乗せられているのは、巨大な生物を閉じ込めた檻だった。その生き物は時折熱い息を吐き、体を震わせている。
床は上昇を続け、やがてヘリポートのある屋上まで到達した。スパイダーが接近すれば研究員らが檻の鍵を開け、その中に潜む魔物を解き放つ手はずとなっている。
それを見届けると、ジェームズは足取りも軽く執務室へと戻った。ラードーンはいわば、NEXTにとっての最終兵器。あの化け物を出撃させた以上、敗北はあり得なかった。
真っ赤な鱗に身を包んだ、巨大な竜。ラードーンは、それ以外に形容のしようがなかった。大型のスパイダーをも上回る巨体を揺らし、久方ぶりに檻から出された猛獣は咆哮を上げた。口から吹き上げた熱い炎が、その頭上にあるスパイダーの巣を焼き焦がす。
そうして生じた隙間へと、ラードーンは翼を大きく広げて飛び込んで行った。スパイダーの吐いた糸の層を体当たりで次々と破り、ついに巣の上に出る。黄色い目で辺りを見渡し、こちらに向かって進行中のスパイダーを視界に収めた。
スパイダーは敵に気づき、八本の脚を細かく動かして突進してきた。下顎をガチリと鳴らし、ラードーンへと向かって行く。
対してラードーンはさらに上昇し、スパイダーの間合いから離れた。目標の真上に移動し、口から火炎を吐きかける。全身を火に包まれて、スパイダーは苦しそうに身をよじった。
その戦いの一部始終は、屋上に設置された監視カメラによって記録されていた。ジェームズは執務室で、その映像をパソコンに送らせたものを眺めていた。
完勝だった。スパイダーはほとんど何の抵抗もできないまま、ラードーンの吐き出す炎を受けて一方的に攻撃されている。弱ったスパイダーの上に、急降下したラードーンが飛び乗る。前脚にそなわった太い爪を振り上げ、白い皮膚に突き刺し、引き抜き、抉り出す。もはや、無慈悲な殺戮といっても良いレベルであった。
今や、スパイダーの体の各所からは青い血が噴き出て、見るも無残な姿となっている。けれどもジェームズは、おぞましい光景を目にしてもたじろぐことはなかった。否、恍惚とした表情で画面を見つめていた。
「我々のシナリオ通りに事が進めば、彼らは住むべき場所を失うことになる。我らを排除しようとするのは、ある意味当然か」
もっとも、そこまで高レベルな思考ができるような高い知性は、スパイダーにはプログラムしていないのだが。容赦のない攻撃を続けるラードーンを食い入るように見ながら、彼はぽつりと言った。
「自らを創りし者に刃向かうとは、愚かな」
ジェームズが乾いた笑みを浮かべたのと同時刻、ラードーンの脚がスパイダーの頭部を踏み潰した。ぐしゃりという音の後に、紅の飛竜の勝ち誇ったような遠吠えが響く。
都心を襲った大型のスパイダーは、このようにしてきわめて迅速に処分された。
NEXTの所有するビル上空の出来事を見ていたのは、ジェームズだけではなかった。和泉零二もまた、その一人である。奇しくも政府軍本部のビルは、NEXTの建物と同程度の高さであった。十数キロ離れた位置から、零二は呆然とその模様を見ていた。自分の見ているものが信じられず、ガラス張りの壁に張り付いた格好のまま、瞬きをするのも忘れていた。
あれほど軍が倒すのに苦労していた大型の個体を、こうもあっさりと葬ってしまうとは。あの竜に似た生物は一体何なのだろう。
(新手の生物兵器か?)
そこまで考えて、零二は恐ろしい可能性に思い当たった。
(まさか、あれも能力者だというのか)
そして、その可能性が決して低くはないのも事実であった。NEXTが開発を急いでいるという第二世代の能力者の成れの果てが、あの化け物じみた姿なのかもしれない。仮に竜の正体が能力者でなくとも、NEXTがあんなものを保有していたという事実は零二に衝撃を与え、戦慄させた。
零二は、NEXTと協力関係にあることの正当性に疑問を抱いた。彼らは、本当に信用するに足る組織なのか。彼らの行っていることは正しいのか。今までは考えないように努めてきた一連の自問自答が、津波のごとく押し寄せてくる。
間違っているに決まっている。直感がそう告げていた。彼らに人類の未来を委ねることはできないと、零二は強く思った。
「というわけで、俺たちは手を組むことになったわけだけど」
蓮は改まった口調で言った。第十八班の班員たちは救護班のテントの中で、澤田と松木を囲むようにして座っていた。
「まずは、お互いの手の内を見せあった方が良いと思う」
「情報交換か。何について話せばいい?」
横になったまま軽く頷いて、澤田が答える。蓮は、事前に話し合って決めておいた内容を口にした。
「能力者についてだ」
澤田は松木と顔を見合わせ、どう話したものか、といった表情を浮かべた。
「能力者の力の原理的なことは、俺たちにもよく分からない。物心ついた頃から軍の施設で育てられていて、そのときから既に力を宿していたように思う。俺たちはそこで生まれながらの兵器として育てられ、戦闘訓練を受けさせられた」
「どのようにして力を得たのかは覚えていない?」
「ああ。悪いが、答えられそうにもない」
班員らの中に、落胆の空気が広がった。つまるところ、彼らは何も知らないに等しい。
「では次に、和泉のことについて聞きたい」
気を取り直して、今度は佐伯が質問した。これも、二人に聞いておかねばならない類のことだった。
「何故、和泉が能力者としての力を宿しているのか知っているか?」
「本人も覚えていないのか?」
「そのようだ」
佐伯にちらりと視線を向けられ、蓮は肩をすくめた。自分には、全く心当たりがなかった。澤田は難しい顔をして、記憶をたどるように少し考え込んだ。
「覚えていないということは、裏を返せば俺たちと同様、幼い頃に力を埋め込まれたのかもしれない。だが俺の覚えている限りでは、軍の施設で一緒に過ごした仲間に『和泉』という名前の奴はいなかった」
「僕にも覚えがないですね」
隣に寝かされている、松木も首を振る。佐伯は、質問の仕方を少し変えてみることにした。
「和泉は討伐隊に入るまで、両親のもとで普通の学生生活を送っていたと言っている。そして彼の父親は、お前たちも知っての通り、政府軍の最高司令官だ。和泉が力を手にした経緯について、父親が関わっているという可能性はあると思うか?」
「あり得るな」
澤田は深く頷いたが、どこか釈然としていない様子だった。
「だが、分からないな。何のために和泉蓮の父親――和泉零二が、そんなことをしなければならなかったのか。司令は実の息子に異能を宿させる一方で、本人にはそれを秘密にしていたということになる。本人が力を自覚しない限り能力は発現せず、何の効力も発揮しない。言い方は悪いが、能力を持っていてもそれでは宝の持ち腐れだ」
「……俺からも一つ聞かせてくれ」
そこで、当事者である蓮も口を挟んだ。
「あんたたちが以前に俺を何度か狙ってきたのは、父さんの命令によるものらしいな。そのときのことを、詳しく教えてほしい」
「司令は俺たちに、一人の脱走した能力者を捕らえるように命じた。能力者は最新の技術により生み出された強化人間で、その遺伝子モデルが海外に流れるようなことがあれば軍にとって痛手になるからだ。そして、それが自分の息子であることも明かした。もちろん俺たちは驚いたが、司令はそれ以上は何も話さなかった。俺たちもまた、何も聞かなかった」
当時を振り返るように、澤田がぽつりぽつりと語った。それを聞いて、蓮は体を揺さぶられるような衝撃を感じた。やはり父は、蓮が能力者であることを知っていたのだ。蓮が力を得た経緯にも、何らかの形で関係しているに違いない。
同時に、失望に似た感情も湧き上がってきた。和泉零二は、純粋な愛情から我が子を連れ戻そうとしたのではない。そこには、能力者の技術を他方面に漏洩させてはならないという打算が働いていた。父と良好な関係を保てていたかといれば嘘になるが、心のどこかでは「父に愛されているのではないか」と期待していた。根拠のない楽観は、無残にも打ち砕かれた。
その後もいくつか質問を続けたが、大した収穫はなかった。逆に澤田たちの方は討伐隊について知り尽くしていて、特に新しく尋ねるべき事柄はなかった。軍の情報網は恐るべきもので、組織の末端にいた彼らでさえ、多くのことを知っている。
第十八班はまずまずの成果を収め、テントから引き上げた。辺りは暗くなり始めていた。
自分たちに割り当てられたテントへ向かって歩きながら、蓮は悶々としていた。父の思惑が理解できず、様々な推測をしては堂々巡りに陥りかけていた。
どうも眠れそうになくて、先に寝袋に潜り込んだ佐伯をよそに、蓮は少し夜風に当たってみることにした。頭を冷やせば、落ち着いて冷静な思考ができるかもしれない。
ぶらぶらと林の中を歩いていると、背後に気配を感じた。ぱっと振り向くと、井上が恥ずかしそうに微笑んで立っていた。
「私も、眠れなくて」
「そうなんだ」
蓮も微笑したが、彼女には別の理由があってここにいるんだ、という気が何となくしていた。
はたして、井上は静かに蓮の側へ歩み寄ると、囁くように言った。
「和泉君が今日、真っ先にセイレーンに向かって行ったのって……もしかして、私が前にあんな話をしちゃったせいかな」
暗闇の中でも、彼女が頬を赤く染めているのが分かった。
「私なんかのために、そこまでしてもらわなくてもいいのに」
「大したことじゃないよ。気に食わない相手だったからぶっ飛ばしただけだ」
笑い飛ばそうとした蓮の腕を、井上が優しくそっと掴んだ。それでいて、瞳には真剣な光が灯っていた。
「無理しないでね」
セイレーンの歌声には、敵を自身の過去と向き合わせ精神的なダメージを与える効果がある。蓮もまた心を傷つけられたのではないかと、彼女は心配しているようだった。
「ありがとう。でも、大丈夫だよ」
「うん」
明るく笑って返すと、井上もにっこりと笑った。木々の隙間から差し込む月明かりよりも眩しく、美しい笑顔だった。白い肌が月光に照らされて、清らかな輝きを放っている。
「お父さんのことで悩んでるのかもしれないけど、多分、和泉君のお父さんにも何かわけがあったんだと思う。和泉君のことを思って、事実を伏せておこうと思ったんじゃないかな」
心中を察せられたようだった。そんなに顔に出ていただろうか。参ったな、と蓮は照れくさく思う。慮るような表情で、井上は励ますように言った。
「俺も、そうだといいなと思うよ」
もし蓮が能力者として、兵器としての人生を歩んでいたら、澤田たちと同じような運命を辿っていたかもしれない。藤宮のように、理不尽に殺されていたかもしれない。それに比べれば、自分のこれまでの人生はぬるま湯のようなものだ。確かに自身の能力を活かすことはできなかったが、その反面危険に巻き込まれることも少なかった。
「いつか、父さんにもう一度会いたいと思う。そのときに、父さんの本当の気持ちを聞いてみるつもりだ」
それはもしかすると、果てしなく長い道のりになるかもしれない。しかし、蓮は必ず成し遂げてみせると誓い、拳を強く握り締めた。
あれから何度も、眠れない夜を迎えた。ベッドで幾度となく寝返りを打ち、悶々と考え続けた。
決断には多大な勇気を必要とした。それはいわば、自分が今までしてきたことを全否定するに等しいからだ。過去を間違いだとして切り捨て、少しでも未来の可能性を追い求めることだった。できることなら、これまで希望だと思っていたものにいつまでも縋りついていたかった。
けれども、その希望が偽りのものであったのならばどうだろうか。自分にできる最善の選択肢は何か。和泉零二はついに決意した。布団を払い除け、ゆっくりと体を起こす。
(やはり、NEXTに人類の運命を託すわけにはいかない)
彼が今までスパイダーを可能な限り保護しようとしてきたのは、NEXTによる働きかけが背後にあったからである。裏の世界で絶大な権力を握っている彼らには、たとえ一国の軍司令官であっても逆らうことはできなかった。そのため、自身の意志を殺してずっと従属してきた。本心では彼らのやり方に反発していたとしても、だ。
だが、先日目撃した赤き飛竜が、零二の中の何かを変えた。あれはまさに、NEXTという組織の異常性の象徴だった。大型のスパイダーをいとも簡単に屠ってしまった異形の怪物は、人類にとってスパイダーを遥かに凌ぐ脅威となるだろう。
問題はそれだけではない。彼らはその気になればスパイダーを一掃できるだけの戦力を保持しているにもかかわらず、ほとんど何のアクションも起こしていない。脱走した能力者を捜索しているという話は聞いているが、その程度だ。
(一体、彼らは何を企んでいるんだ)
妻の恵梨が用意してくれた朝食を食べながらも、零二は考えに耽っていた。彼が無口なのは昔からなので、妻は特に気にした様子はない。しばらく前、息子が突然家を出てからというもの、和泉家の食卓は尚更しんと静まり返っていた。
NEXTの前身がスパイダープランを提唱した科学者グループであることは、零二にも察しがついていた。彼らの行動には、説明のつかない点がしばしば見受けられる。
スパイダーという生物を人工的に造り出した科学者たちは、プランの欠陥が露呈する直前に行方をくらました。同時期にNEXTという組織が結成され、事実上、その科学者グループの後身となった。彼らは強化人間――能力者を生み出すことにも成功し、日本政府に技術提供を行った。いや、この国だけではない。 世界各国の政府にNEXTは取引を持ち掛け、スパイダーを倒そうとする民間団体の活動を抑えつけているのだ。
(彼らはスパイダーへの対抗手段を生み出しておきながら、必要に迫られない限りそれを使おうとしない。何故だ)
スパイダーの巣がなければ、人類の生存確率が大きく下がるからだろうか。それとも、また別の理由があるのか。いずれにせよ、零二は彼らの暴挙をこれ以上見過ごすわけにはいかなかった。おそらくNEXTには何か目的があり、これまでに彼らの為したことは全てその布石なのだろう。
狙いが何なのかは分からないし、問いただしたところでろくな答えが得られないことも承知している。ともかく、行動を起こすのは早い方が良い。零二は、彼らを早急に叩く必要があると判断した。
「ごちそうさま」
味噌汁を飲み終えて、ぼそりと言う。食器をキッチンへと運び、零二は身支度を整えた。
「行ってらっしゃい」
スーツに着替えてすぐに出発しようとすると、恵梨が素っ気なく形式的な挨拶を投げかけてきた。適当に答えてドアを開け、高層ビルの最上階にある一室を後にする。ボタンを押して、エレベーターが来るのを待った。
結婚してもう何年も経ち、夫婦仲はだいぶ冷え込んでいる。零二が司令官へ昇進してからは、その傾向が加速していた。息子に理想を押しつけようとする零二の姿に、恵梨はやや辟易しているように見えた。あれも事情があってやったことなのだが、話したところで妻は分かってくれないかもしれない。
一階に降りると、軍司令部からの迎えの車は既に到着していた。無言のまま、黒塗りの高級車の後部座席に乗り込む。
司令補佐から昇進して給与も増えたのだから、一戸建てを構えればいいのに。人からはよくそう言われる。しかし、住み慣れた今の家を離れるのはどうも気が進まなかった。
車は静かに発進し、やがて司令部へと到着した。




