19 反撃
立て続けに両の拳を振るい、殴りかかる。蓮の仕掛けた猛ラッシュを、セイレーンは翼で自身の体を包むことで凌いだ。硬質な羽は、強い衝撃を受けても傷一つつかない。さらに繰り出したニーキックも、その鉄壁の守りを破ることはできなかった。
一向に反撃の気配を見せず、セイレーンは防御に徹している。やはりそうか、と蓮は確信した。
彼女の特殊能力は、歌声で相手に幻を見せ、精神的行動不能に追い込むというものだ。だがその反面、セイレーンは直接的な攻撃手段を有していない。翼で自らを包み込んで攻撃を受け流し、歌を響かせて敵を無力化する――彼女を生み出した科学者たちは、おそらくそういった設計思想をもっていたのだろう。
つまり、歌声に惑わされさえしなければ勝機はあるということだ。
突然セイレーンが翼を広げ、後方にスライドするように飛んで距離をとった。蓮が追撃を放つより、彼女が口を開く方が僅かに早い。奇妙な旋律に乗って、意味をなさない単語群が次々と並んでいく。
ふと辺りを見回すと、蓮は高級マンションの一室に立っていた。十数年間慣れ親しみ、そして今ではもう帰ることはないかもしれない空間だった。久しぶりに戻ってきたような気がするが、あまり懐かしさは感じなかった。
書斎のドアをノックし、蓮が中に足を踏み入れる。まるで台本通りに演技をする役者のように、彼は無意識的に行動していた。記憶の中の出来事を追体験しているのだ、と気がつく。
「父さん、話があるんだけど」
「何だ。今忙しいんだ、手短にしてくれよ」
仕事机の前に腰掛けている父は、こちらに椅子の背を向けたまま言った。デスクには山のように書類が積まれ、万年筆を握った手が紙の上を素早く行ったり来たりしている。表情は窺い知れないが、できれば話しかけないでほしい、と態度で示していた。
「どうして父さんは、スパイダーを守ろうとしてるの」
しかし、蓮の次の言葉を聞き、父は手を止めた。動作をぴたりと静止させ、静かに応じる。
「蓮、お前もスパイダープランの偉大な功績については理解しているはずだ。スパイダーという存在がいなければ、人類は今と同じ生活を続けていくことはできない。私たちは彼らを必要としているんだ」
「でも」
蓮は声を荒げた。少し声が震えているのを自覚する。
父の意見に反論するのは、このときが最初だった。幼い頃から自分は、両親に、とりわけ父に対して従順に生きてきた。この国の未来を背負う父を、尊敬していた時期もあった。スパイダーによる被害の現状を知るまでは。
父に逆らうのは恐ろしかったが、惨状から目を背けることの方がもっと嫌だった。直接父に問いただしてみれば、疑問が解決するかもしれないと思ったのだ。
「だからって、スパイダーが人間を捕食している現実を受け入れろって言うの?」
「他に選択肢はない。もしスパイダーの巣が上空にない場合、紫外線や汚染された大気による健康被害は遥かに増加する。その結果生じる死者数と比べれば、スパイダーによる犠牲者など大した数ではない」
そう断言し、父は回転椅子を百八十度回してこちらへ向き直った。目には冷たい光が宿っていた。
「一定数の犠牲はやむを得ないなんて、俺にはとても思えないよ。全員が助かる選択肢があるかもしれないのに、父さんたちはそれを模索せずに、スパイダーに頼って逃げてるんだ」
「綺麗事はよせ。私だって、スパイダーの力を借りずに人類が生き延びることができたらどんなにいいかと思う。だが、そんなことは実際には不可能なのだ。私には、他にどうすることもできない」
一瞬、父の顔を苦悩の表情がよぎったように見えた。言いたくもないことを言わなければならず、敗北感を味わっているかのようでもあった。けれども、当時の蓮は気づかなかった。口調は熱を帯び、口論の様相を呈してきた。
「父さん、スパイダープランには重大な欠陥があったんだ。あれは負の遺産、後世にまで残してはいけないものなんだよ。このままだと人類は、未来永劫、スパイダーにいけにえを捧げることになる。それでもいいの?」
「人間は奢り高ぶりすぎた。経済的利益を追い求め、環境破壊に目を瞑り続けた結果がこれだ。スパイダーは必要悪、否、人類に課せられた罰なのだ。受け入れるしかあるまい」
「目を覚ましてよ、父さん」
父の言葉はどこか空虚で、あらかじめ用意された台詞を読み上げているような響きを含んでいた。掴みかからんばかりの勢いで、蓮は詰め寄った。
「昇進して司令官になってから、父さんは変わってしまった。昔の父さんは、もっと周りの意見に耳を傾けていたはずだ。この国のトップがこれじゃ、外国に笑われるよ」
パン、と鋭い音が空気を切り裂いた。頬をはたかれたのだ、と数秒してから気づく。鈍い痛みが広がった。
「蓮、お前はまだ何も分かっていない」
苛立たしげに言い、父はため息を漏らした。父に暴力を振るわれたのはこれが初めてで、蓮は出合い頭に殴られたような衝撃を受けた。拒絶されたと感じると同時に、この人とは理解し合えないと強く思うようになった。
「お前は私の言うことを信じ、その通りに振る舞ってさえいればそれでいいんだ。それがお前自身のためでもあるし、私のためにもなる」
突き飛ばすようにして蓮を部屋から追い出すと、父は内側から鍵をかけてしまった。決して埋めることのできない深い溝のように、厚い木の扉が二人を阻んでいた。
父への反抗、そして決裂。これらは蓮の心に傷をつけ、のちに家を出るよう駆り立てた。
しかし、所詮は過去の出来事だ。
蓮は歯を食いしばり、うっすらと目を開けた。額には玉のような汗が浮かんでいる。硬直しかけていた手足を動かし、セイレーンへと迫った。
セイレーンは目を見開き、動揺を隠さなかった。
「あり得ない。まさか、自力で私の歌から目覚めたというの⁉」
再び巨大な翼を盾にしようとするが、体の前に回された羽と羽の隙間には蓮の手が入り込んでいた。
今度は、蓮の方が僅かに早かった。百獣の王の力を全開にし、翼による防御を力任せにこじ開けて突破する。筋肉の発達した両腕が、みしみしと小気味いい音を立てる。セイレーンも必死に抵抗しているが、徐々に翼と翼の隙間は広がっていった。
「俺にだって、思い出したくないことは山ほどあるさ。けど、俺は過去に囚われたりはしない」
右足を踏み込み、足払いをかける。バランスを崩してよろめいたセイレーンは、一瞬翼から力を抜いてしまった。その隙を、蓮は見逃さなかった。腕に一層の力を込め、羽を左右に動かし、大きく開く。今や、セイレーンの絶対防御は崩れ去っていた。
「大切なのは、過去じゃなくて未来だ。俺はお前たちを倒して、そしていつか父さんの真意も確かめてみせる!」
軽く後ろに引いた右の拳を、渾身の力を込めて前へと繰り出す。
井上渚を、他の多くの隊員をも傷つけ苦しめた強敵、セイレーン。彼女に一矢報いるべく、固く握り締められた拳が風を切って唸る。
腹部に強烈なストレートパンチを喰らい、セイレーンは体を折り曲げた。衝撃で十数メートルも吹き飛ばされ、大木の幹に背中を打ちつける。力なく地面に倒れ込んだ彼女を、蓮は呼吸を荒くして見下ろしていた。
他の隊員たちと連携し、佐伯はメドゥーサを包囲した。対スパイダー用ライフルを構え、照準を合わせる。けれども、彼は能力者の力を発現させていなかった。銃を持った一人の戦士として、そこに立っていた。
「どうして力を使わないの」
何の感情もこもっていない声で語りかけ、メドゥーサは佐伯を見つめた。
「簡単なことだ。わざわざお前の間合いに入り、接近戦に持ち込む必要はない。それに銃を撃つには、この姿の方が適している」
視線を地面に落としたまま答え、佐伯は仲間たちを振り返って指示を出した。
「奴の目を直接見るな。視線を下方に固定し、下半身を狙ってくれ」
「了解!」
隊員たちがさっと頷く。彼の側で銃を構えていた森川、井上も、すぐに号令に従った。佐伯の右手の指が、ライフルの引き金にかかる。
一斉に射撃を浴びせられ、メドゥーサは自身の皮膚を石化させて防御した。今のところは持ちこたえているようだが、彼女の身体に叩きつけられている銃弾は本来、スパイダーを倒すために作られたものだ。鋼のごとき強度を誇る皮膚を貫通することのできる、絶大な威力を有する弾丸。それはもちろん、能力者に対しても十分に有効である。
このままでは、じわじわと体力を削られて追い込まれてしまう。そう判断したメドゥーサは、不意に顔を上げた。口を大きく開き、濃い紫色をした毒霧を吐き出す。頭に絡みつく蛇たちも、四方八方へ同色の液体を吐き散らした。
しかし、討伐隊の反応は迅速だった。メドゥーサが顔を上げた瞬間、後方に撤退して敵の攻撃範囲外へと逃れる。回避に成功したのちにまた少し接近し、銃撃を再開した。
全身の皮膚を石化し、メドゥーサは弾丸の嵐をどうにか耐え凌いでいた。再び禍々しい吐息を漏らし、今度こそ隊員らを仕留めようとする。彼女が口を開くより少し前に、戦士たちは動き始めた。
円を描くように、メドゥーサの周りを絶えず移動し続ける。その間も攻撃の手を休めることはなく、走りながらトリガーを引き続ける。敵に狙いを定めることができず、メドゥーサは一方的に攻撃を受けるかたちとなった。
集中的に銃弾を浴び、ついに彼女の鎧が限界を迎える。石のように硬くなった皮膚に亀裂が走り、メドゥーサはがくりと片膝を突いた。まだ決定打は与えられていないようだが、相手は確実に消耗してきている。
討伐隊のこの作戦には、二つの狙いがあった。第一に、敵がこちらに対して攻撃を当てづらくすること。第二に、主戦力である佐伯を隊員の中に紛れさせ、彼の位置を把握することを困難にさせることである。隙を見せたメドゥーサに、佐伯は満を持して襲いかかった。
「『能力解放』!」
黄色い毛に黒い稲妻の走った、虎の特徴をそなえる能力者。
包囲網の中から飛び出した佐伯は一気に距離を詰め、両腕の爪を交互に素早く振るった。石化したメドゥーサの皮膚をはぎ取り、抉るように、鋭い一撃を次々と叩き込んでいく。視線は下に向けられたままで、決して相手の顔を見ることはしない。それにもかかわらず、研ぎ澄まされた嗅覚と聴覚が、敵の位置を正確に割り出していた。
「この間の借り、返させてもらうぞ」
怯み、後退したメドゥーサの懐へと、佐伯が大きく踏み込む。勢いよく放たれたアッパーカットは、彼女の顎をしっかりととらえていた。全身を覆っていた石の鎧が、ついに完全に砕け散る。その破片を飛び散らせながら、メドゥーサの体は宙を舞った。
剛腕を唸らせ、澤田がペガサスに殴りかかる。上体を反らせて難なくそれを躱すと、ペガサスは余裕の笑みを浮かべてみせた。
「藤宮の命を奪った、貴様だけは絶対に許さん!」
怒り狂った澤田が両の拳を振り上げ、それを交互に素早く突き出す。連続で放たれたパンチを、高く蹴り上げられたペガサスの足が弾いた。
「あなたたちも、すぐに彼と同じところに送ってあげますよ」
軽く攻撃をいなし、ペガサスは澤田を嘲笑った。次の瞬間、背後に殺気を感じ、反射的に翼を広げる。真上に高く飛び上がり、松木のショルダータックルの回避に成功した。
松木は足を止め、悔しそうに上方を仰ぎ見た。舌打ちし、澤田の横に並び立って身構える。一方のペガサスは宙に浮かんだまま両足を突き出す姿勢をとり、そのまま急降下した。落下の勢いを加えた、強力なドロップキックである。
「澤田さん、ここは僕が」
「ああ」
二人は目で合図し、行動に移った。まず、松木が澤田を庇うように前に出る。両腕をクロスさせて防御姿勢をとり、自らが盾となって攻撃を防ぐ。その間に、澤田は横方向に回り込んだ。
多少のダメージは覚悟のうえで、松木がペガサスのキックを受け止める。いくら機動力のある敵とはいえ、攻撃を放った直後には隙が生じるはずだ。そこに澤田が殴打を浴びせ、相手を地面に叩き落とす。刹那のやり取りの中で、二人は即興で立てた作戦を理解していた。
はたして、ペガサスの繰り出した蹴りが松木に命中する。強靭な皮膚が傷つくことはなかったが、衝撃は殺し切れなかった。歯を食いしばり両足を踏ん張ったものの、余波で数メートル程度後ずさることとなる。
ペガサスの側方に回り込んだ澤田は、右腕を勢いよく振るった。囮役を担った松木の思いは無駄にさせない。彼の放った一撃は、しかし空を切った。
「何⁉」
翼の向きや角度を微調整し、ペガサスは澤田のパンチを華麗に躱した。僅かに高度を下げることで、攻撃の軌道から逃れたのだ。
さらに、ペガサスは容赦のないカウンターを叩き込んでいく。翼が推進力を生み出すおかげで、ほとんどノーモーションの状態から自在に攻撃を繰り出せるのだ。
ペガサスは空中で体の向きを変え、薙ぎ払うような回し蹴りを澤田の胸部にヒットさせた。呻き声を上げ、巨体が吹き飛ばされる。
「随分と呆気ないですね」
音もなく着地し、ペガサスはつまらなさそうに言った。どうにか立ち上がろうとしている二人の能力者に残忍な眼差しを向け、にやりと笑う。
「てっきり、もうちょっと楽しませてくれるものと思っていましたが」
ふと遠くに視線をやり、ペガサスは眉をひそめた。セイレーンとメドゥーサが苦戦を強いられている。
仲間を助けるべく、彼は踵を返した。第一世代の能力者たちに止めをさしたいところだが、彼らと戦う意味は実質的にない。挑発に乗ってきたから返り討ちにしてやっただけであって、自分たちの目的はあくまでユグドラシルの奪還だ。
再度飛び上がり、低空飛行で彼女らの元へ急ぐ。突き飛ばすようにして討伐隊の隊員らを押しのけると、仲間たちの体を軽々と抱え上げた。そのまま高度を上げ、猛スピードで飛び去って行く。撤退には成功したらしかった。
襲撃者たちは、目的を達成できぬまま去った。白煙に身を包み、能力者たちが元の姿へと戻る。
蓮は何も言わず、倒れていた澤田を助け起こしに向かった。同じように、佐伯も松木に肩を貸している。彼らは戸惑った表情を浮かべていた。
「何故、俺たちを助ける。俺たちはお前たちの敵だったんだぞ」
「少なくとも今は、共通の敵がいる」
澤田の大きな体を支えて、蓮はゆっくりと歩いた。
「それに結局のところ、あんたたちは父さんの親馬鹿に付き合わされて、俺を連れ戻そうとしてただけなんだろ。命令に従っただけだっていうなら、どうにも責めにくい」
「そうか」
澤田は苦しそうに咳き込み、それから時間をかけて呼吸を整えた。何か言いかけたようでもあったが、今は喋る気力もほとんど残っていないらしかった。
「お前たちは、これからどうするつもりなんだ」
今度は、佐伯が口を開いた。
「決まっているでしょう。藤宮の仇をとるんです」
即答した松木の目を、佐伯は真っ直ぐに見返した。相手が僅かに怯む気配を見せる。
「お前たち二人だけで、か。無理だな」
聞き捨てならないとばかりに、松木は足を止め、佐伯の胸倉を掴んだ。頭に血が上り、彼は普段の冷静さを欠いていた。
「もう一度言ってもらえますか」
「ああ、何度でも言ってやる。お前たちには無理だ」
なおも突っ掛かろうとする松木に、後ろを振り返った澤田は無言のまま首を振った。もういい、よせ、ということらしい。
「松木、その青年の言ったことは残念だが事実だ。実際、俺たちは二人がかりでも、あの能力者に手も足も出なかった」
悔しそうに俯いた松木に、佐伯は続けた。
「そう、確かに無理だ。お前たち二人だけならな」
「……まさか、手を組めと言いたいのか」
澤田が目を細める。真剣な表情で、佐伯は頷いた。
「悪くはない話のはずだ。討伐隊としては使える戦力が増えるし、お前たちとしても第二世代の能力者相手に対抗しやすくなる」
本当に底知れない奴だ、と蓮は感心していた。勝つためなら、かつて敵同士であった者でさえも積極的に利用する。昨日の敵は今日の友とは、まさにこのことである。
あとは、上がこの共同戦線を認めてくれるかどうかであった。
澤田と松木を救護班のテントまで運んでから、班長の岸田を通じて意見を伝えてもらうことにした。
「しかし、本当に良かったのですか」
長机の両隣に腰掛けた二名の部下は、心配そうに曽我部に問うた。
「彼らは以前政府軍の特殊部隊に所属し、何度も我々を狙ってきたのですぞ」
「それは過去の話だ。違うかね」
動じた様子もなく、曽我部は静かに言った。
「今ではその特殊部隊も解散している。彼らが私たちの前に立ちはだかることは、今後はないと言っていい。というより、私たちと対立しなければならない理由が、今の彼らにはない」
コーヒーの注がれたカップを手に取り、一口飲む。程よい苦みを堪能してから、曽我部は狡猾そうな笑みを浮かべた。
「私だってあの二人を完全に信用したわけではないが、彼らから引き出せる情報も決して少なくはないだろうからね」
計算高いのは、何も佐伯に限ったことではない。彼もまた、様々な計略を練っているように思われた。