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汚された箱庭  作者: 瀬川弘毅
3 新世代の戦士
17/34

17 下山

 いつまでも山に籠っていることはできない。

 持ち出すことのできた食料は十分な量があるとは言えず、討伐隊は物資を調達する必要に迫られた。だが大勢で動けば、敵に発見される確率はそれだけ上がる。そこで曽我部は、数名ずつ隊員を下山させることにした。


 第十八班にも、その役目が回ってきた。朝食後、岸田は班員たちをテント周辺に集めた。

「よし、じゃあ説明するぞ。今からお前たちを二人ずつに分ける。それぞれのペアは別ルートから山を下り、麓にある商店で買い出しをしてから戻ってくる」

 麓にある町の簡単な地図とチャージされたプリペイドカード、それから小型の無線機を一人一人に手渡す。

「万が一政府軍やNEXTに遭遇したら、その無線で俺に連絡してくれ。あと、一般人に怪しまれないように服装は私服とし、携帯する武器はコンバットナイフのみにすること。ここまでで何か質問は?」


 はい、と森川が手を挙げた。やや心配そうな面持ちである。

「武装がナイフのみというのは、正直心もとないです。能力者が相手であった場合、対抗するのは難しいのではないかと思います」

「分かってる。まあ、こっちも各ペアに能力者が一人ずついるから安心しろ」


 それを聞いて、蓮はやや意外に感じた。てっきり男女別のペアが組まれるものと思っていたのだ。

 しかし、考えてみれば岸田の案は自然に思える。班員の身の安全を最大限に確保しようと思えば、能力者であり大きな戦力となる蓮と佐伯は別行動をとった方が良いのだ。

「用心のため、各ペアの出発には時間差をつける。まずは和泉と井上の二人だ。早く支度しろよ」



 普段着に着替え、買ったものを詰め込むための大きめのリュックを背負う。準備を整え、蓮は井上と共に出発した。時に草木をかきわけながら、斜面を下っていく。

 思えば、二人で面と向かって井上と話した経験はあまりない。何の話題を振ればいいかいまいち分からなくて、蓮は最初のうち、あまり会話を弾ませることができなかった。彼女もあまり口数が多くなくて、そのことが気づまりな沈黙の継続に拍車をかけていた。

 敵に見つかる危険を冒したくなければ、早く進んだ方が良いのは自明だ。けれども、横を歩く女性に歩調を合わせないほど、蓮は無粋な男ではない。どうせ見つかるときは見つかるのだ。腹をくくって進むしかない。


 山の中腹にさしかかった辺りで、井上の歩くペースが鈍っていることに気がついた。足を止め、蓮が声を掛ける。

「大丈夫?少し、休もうか」

「ううん。何でもない」

 彼女は軽く首を振り、そのまま歩き続けようとした。心なしか、顔色が悪く見える。

「無理しない方がいいよ」

「全然大丈夫だから、気にしないで」


 気がかりではあったが、本人がそう言うのならもう少し様子を見ようと思った。ペースをゆっくりとしたものに変え、蓮は時折彼女を励ましながら山を下った。

 あるとき、大きな、それでいて何を言っているのかはっきりしない、ぼんやりとした声が聞こえた。何事かと一瞬体を硬くしたが、蓮はすぐに苦笑いを浮かべた。今のは多分、登山客が発した声が反射したやまびこだろう。こんなことでいちいち驚いていたら、仲間たちに笑われてしまう。

 しかし、井上の反応は違った。びくりと身を震わせ、体を縮こまらせる。瞳には、恐怖の感情がありありと映し出されていた。


 やはり、彼女の体調は万全ではないのだろう。蓮は踏み出しかけた足を引き戻し、振り返った。井上がはっと顔を上げる。

「何かあったのなら、俺に話してほしい。できる限り、力になりたいと思うから」

「……和泉君、私ね」

 彼女の目は、涙で潤んでいた。

「セイレーンっていう能力者の歌声を聞いたときに、昔あった嫌なことを思い出しちゃったの。意識の奥を無理矢理掘り返されるような感じで、苦しくて、辛くて……。それ以来、毎晩のようにあの頃のことを夢に見るの。さっきみたいに大きな物音を聞いたときにも、思い出しちゃうことが多くて」


「前に、通っていた高校でいじめられていたって言ってたな。そのことか?」

「うん」

 高校生だった彼女がどんな体験をしたのか、蓮はほとんど何も知らないも同然だ。詳細については井上の口から聞いていないし、あえて尋ねようとも思わない。そんなことをしても悪夢を甦らせ、彼女を今と同じような絶望に突き落とすだけだ。


「和泉君、私、怖いの」

 泣きそうな表情で、井上は声を震わせて言った。

「あのときのことを思い出すと、皆に自分の存在が否定されているみたいに感じて……もう、心が壊れてしまいそうで」

「……そうか。よく頑張った」

 蓮はそれ以上何も言わず、彼女の肩へそっと手を回した。


 彼の腕の中で井上は、戸惑ったような表情を浮かべた。だがそれはほんの僅かな間で、蓮に身体を委ね、寄りかかる。華奢な、それでいて柔らかさをもった彼女の肉体が触れて、蓮はどきりとした。白く綺麗な肌には、ほんのりと赤みが差している。

 蓮は、井上が味わった地獄を知らない。それを理解することもできないかもしれない。それでも、彼女の苦しみは痛いほど伝わった。


 やがて口を開き、蓮は言った。

「過去を変えることはできない。俺だって、父さんとのこともそうだし、塗り替えたい過去なんていくつもある。けど、俺たちには今がある。未来がある。それで十分だと、俺は思うな」

 それが、自分にできる精一杯の励ましだった。

「ありがとう」

 溢れ出す涙を拭いながら、井上は絞り出すように言った。蓮の腕の中で体をよじって向きを変え、正面から向き合うようなかたちになる。

「ごめん、また辛いこと思い出しちゃった。もう少しだけ、このままでいてもいいかな」


 構わないよ、と蓮が頷く。

 その胸に顔をうずめて、彼女はしばらくの間、嗚咽を漏らしていた。蓮はその細い背中を、優しくさすっていた。

 脳裏をよぎったのは、あの巨大な翼をもつ能力者だ。井上にこれだけ苦しい思いをさせたセイレーンを、蓮は許すつもりはなかった。次に会ったときは必ず倒す、と心に決めた。



 蓮と井上がペアを組まされたということは、つまりもう一方のペアは佐伯と森川になったということである。一組目が出発してから二十分後に、彼らも別ルートで下山を始めた。

「ひゃっ」

 目の前に茂みが突然揺れ動き、森川は思わず佐伯の腕にしがみついていた。

 そこから飛び出してきた一匹の猫を見て、佐伯が呆れたようにため息をつく。メドゥーサの毒のダメージから回復し、彼はすっかりいつもの調子を取り戻していた。

「驚きすぎだ」

 ぱっと手を振り払い、先に歩いて行ってしまう。

「ちょ、ちょっと待ってや」

 慌てて森川が後を追いかけるが、佐伯はほとんど歩調を緩めなかった。彼の少しだけ後ろを、遅れないようについていく。大きくて逞しい背中が、何だか眩しかった。


(佐伯君、うちのこと異性やと認識してないんかな)

 胸が締め付けられるような感情に襲われて、森川はどうにも苦しかった。自分でも、さっきはややオーバーリアクション気味だったと思う。だがそれは、少しでも佐伯の注意を引きたい、という意図もあってのことだった。


 討伐隊に入って、彼女が最初に親しくなったのは和泉蓮だ。何でも気兼ねなく話すことができて、仲の良い幼馴染のような感じだった。時折見せる笑顔が可愛くて、ちょっと乙女心をくすぐられることもしばしばだった。

 けれども蓮が秘密を抱えていたことが分かると、「何故自分に相談してくれなかったのか」という不満が湧き上がった。すぐに仲直りすることができたが、あの件で二人の間には小さな溝が生じたかもしれない。佐伯が失踪を遂げていた時期に、取り乱した姿を蓮に見せてしまったのもマイナスに作用している。


 その一方で、黙々と訓練に励み、自主的にトレーニングを重ねている佐伯が、森川の目には輝いて映った。誰よりも真剣に物事に取り組み、常に自分に対してストイックで、一切の妥協をしない。そんな彼は何だか格好よく見えて、だからこそ、佐伯の行方が分からなくなったときは動揺してしまったのだ。

 出会った頃は、愛想がなくて取っつきにくい人物だと思っていた。いや、今でもその傾向は残っている。先刻のやり取りを見れば明らかだ。しかし、彼の魅力は欠点を上回っている。少なくとも彼女は、そう思っていた。


 佐伯は、枝や木の葉を踏んで不用意に足音を立てぬよう、慎重に歩みを進めていた。

 多分彼は、スパイダーを撲滅することしか頭にないのだ。以前蓮が、佐伯は「過去に色々あって」スパイダーを人一倍憎んでいる、と言ったことがある。佐伯の過去に何があったのか、森川は詳しくは知らない。あの時、蓮が言葉を濁していたことを思うと、むやみに詮索すべきことでもないのかもしれない。

 彼女だって、スパイダーを倒し賞金を得ることで、家族の生活費を稼いでいる。もしかすると、佐伯の抱える事情は森川のそれよりもずっと深刻なのだろうか。


(やっぱり、うちのことなんか眼中にないよね)

 こんなに焦がれているのに、手が届かない。悔しさと悲しさで、森川の視界は一瞬滲んだ。佐伯の背中が、やけに遠くに感じた。



 佐伯は、蓮に対して嘘をついたことがある。買い物をしたことがない、という嘘だ。

 もちろん、そんなことがあるわけがない。むしろ彼は相当手際が良くて、メモに書かれた品物を買い揃えるのに一時間もかからなかった。森川は、彼が陳列棚から取ったものをひたすらカートに放り込んでいく係だった。

 買い物袋を両手に提げ、二人は麓のスーパーを後にした。再び山が迫ってきて、険しい坂を登っていく。行きは楽だったが、帰りはなかなか苦労しそうだ。


 足取りも軽く、ずんずん先へ進む佐伯を、森川は眩しい思いで見つめていた。

 道程の半分くらいまで来ただろうか。荷物を持った両腕は痛くて、足にもかなり疲労が溜まっている。男女の体力差というのもあるだろうが、それ以上に佐伯の鍛え方が違うのだ。憧れの存在についていくことができなくて、森川は自分が情けなかった。

(うちには、無理なんかもしれんな。佐伯君の隣を歩くなんて)


 すると、佐伯は足を止め、くるりと後ろを振り返った。無言のまま来た道を戻り、森川へ近づく。

「貸せ。一つ持ってやる」

 言うが早いか、彼女が右手に持っていた買い物袋をひょいと取り、自分が運ぶと引き受けた。

「でも、佐伯君に無理させるわけにもいかんし」

 さすがに申し訳なくて、森川は断ろうとした。首を振って、遠慮の意志を示す。

「お前こそ無理をするな。疲れてるんだろう」

 それだけ言うと、佐伯は再び歩き出した。全て見透かされているようだった。彼の不器用な優しさが温かくて、愛おしかった。


「……ありがとう、佐伯君」

 こんな感謝の言葉でも、まだ足りないくらいだ。少しでも自分に注意を向けてくれたことが、たまらなく嬉しい。佐伯に迷惑をかけてしまっていることは、分かっている。でもいつかは、彼を支え、共に歩いて行くことができたらいいなと思う。

「そういえば」

 不意に振り返った佐伯にぶつかりそうになって、森川は慌てて立ち止まった。

「どしたん?」

「前から気になっていたんだ。何故、和泉のことは下の名前で呼ぶのに、俺のことは名字で呼ぶんだ」

「それは……」

 頬がかあっと熱くなるのを感じる。まさか正直に、「名前を呼ぶのが気恥ずかしかったから」と答えるわけにはいかない。それでは、意識している相手である、と告白するようなものだ。どう答えようかと森川は逡巡し、しばし沈黙が流れた。


「いや、答えなくないのならいいんだ。変なことを聞いてすまない」

 咳払いをした佐伯は、若干赤面しているようにも見えた。

「佐伯君」

「何だ」

「試しに、下の名前で呼んでみてもいい?」

 佐伯は瞬きをし、軽く頷いた。

「ああ。構わない」

「じゃあ……雅也、君」

 口にした瞬間、森川は真っ赤になってしまった。ぶんぶんと手を振り、なかったことにしようと全力で否定する。


「だ、駄目。なんか、照れくさくて……うち、恥ずかしさで死んでしまいそうやわ」

「別に、今まで通りでもいい」

 ふいっと視線を逸らし、落ち着こうとするように佐伯が言う。

「気が向いたら、呼び方を変えてくれ」

「……うん、分かった」

 森川はにっこりと微笑んだ。彼に少しでも近づきたいという想いは、さらに強まっていった。

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