16 過去
登校してくると、自分の机に悪口が書き連ねてあった。黙って席に着いた自分を遠巻きに眺めて、クラスメイトたちがげらげら笑っている。
「ねえ、井上さん。あなたの上履き、トイレに落ちてたよ」
にやにやと笑みを浮かべながら、数人の女子生徒が近づいてくる。スクールカーストの上位に位置する、派手なタイプの女の子たちだ。
「案内してあげよっか」
「……はい」
ぎこちなく微笑んで、井上は言った。ニーソックスを履いただけの脚は、冬の冷たい風を受けてかじかんでしまいそうだった。
本当は、上靴を隠したのが彼女たちであることも知っている。全ては彼女らの自作自演なのだ。けれど、クラスの皆の前で反抗すればもっと笑いものにされてしまう。体の震えを懸命に押し隠して、彼女たちの後についていった。
「ここだよ」
トイレの個室の一つを指し示され、井上はその中を怖々と覗き込んだ。蓋の閉じられた便座の上に、一組の上履きが鎮座している。手に取ろうとすると、女子生徒の一人に腕をはたかれた。
「井上さん。私たち、あなたが学校に来るまで、これが誰かに取られないようにずっと見張っといてあげたんだよ。感謝の気持ちってやつが足りないんじゃない?」
嗜虐的な笑顔を向けられ、体が凍りつくのを感じた。寒気がして、たちまち鳥肌が立つ。
「そうだよ、うちらに感謝してもらわないと」
取り巻きたちも、口を揃えて囃し立てる。井上は俯いて、ぼそぼそと言った。
「……ありがとうございます」
「何なの、それ。全然聞こえないんだけど」
「あ、ありがとうございます」
露骨に嫌そうな顔をしてみせ、女子生徒は井上の胸倉を掴んだ。普段、男子のいる場では清楚系を気取っている彼女としては、考えられないことだ。けれども、これが彼女の本性であることを、井上はこれまでの経験から知っていた。
「聞こえないっつってんだろ」
強い力で突き飛ばされ、井上はトイレの床に尻餅をついてしまった。取り巻きの一人が、掃除用のバケツにおもむろに水を汲み始める。
「ねえ、ここのトイレ、ゴミを流し忘れてるみたいよ」
「ほんとだ、お掃除しなくちゃ」
さぞかし楽しそうに会話している二人を、井上はおののいて見つめていた。自分がいつ、どのようにして彼女たちに嫌われたのかは分からなかった。ただ、彼女たちにとって自分が気に食わない存在であることは確からしかった。理不尽に自分を虐げることが、彼女らにとっては最上級の娯楽なのだ。
「お掃除開始!」
歌うように言って、女子生徒たちはバケツの中の水を井上に向けてぶちまけた。それも、一度ではない。二つあるバケツを繰り返し使い、何度も何度も冷水を浴びせかける。
「やめて、お願い、やめてえっ」
体の芯まで凍えるような寒さに、井上は震えあがった。必死に助けを求めても、どこにも味方はいなかった。容赦なく水を浴びせられ、制服は既にびしょ濡れになっている。
「なかなか流れないなあ」
床の水撒きに使うホースを蛇口に繋ぎ、女子生徒らはなおも攻撃を続けた。井上は両腕で体を庇い、か細い悲鳴を上げるばかりだった。水を浴びるたびに、華奢な身体をびくりと震わせて涙を流した。
授業開始の十分前を告げるベルが鳴ると、女子生徒たちはバケツとホースを定位置に戻した。
「朝のボランティア清掃も悪くないよね」
「うん。良いことしたって感じ」
談笑しながら、彼女たちはその場から引き上げていった。スケープゴートとなった井上には一瞥もくれなかった。一通りいじめたことで、少し興味が薄れたのかもしれない。
後に残された井上は、床に座り込み、嗚咽を漏らしていた。替えの制服は持ってきていない。こんな状態では、授業に出ることすらままならないだろう。
「やめて……お願い、やめてっ。お願いだから」
虚ろな瞳で何もない空間を見つめ、井上は半狂乱で叫んでいた。
「もうやめて。これ以上、私の心を壊さないで」
彼女の異変に気づいた岩崎が、ユグドラシルの側から離れ駆け寄ってきた。
ユグドラシルは言いつけ通りに両手で耳を塞ぎ、目を閉じ、何も聞くまいとしている。凄絶な人体実験を受けてきた彼女にとって、悲惨な過去と向き合うのは精神の崩壊を意味しかねない。真っ先にユグドラシルを守ろうとした岩崎の行動は、こうした懸念に基づくものだった。
「井上さん、大丈夫⁉」
けれども今の彼女の目には、岩崎の姿はかつて自分をいじめていたクラスメイトとしてしか映らなかった。
「やだ、こっちに来ないで。お願い、もうやめて。お願いだから……」
不規則な呼吸を繰り返し、井上は喘いでいた。
討伐隊に入る前の過去は忘れたつもりでいたし、思い出したくもなかった。しかし、セイレーンの摩訶不思議な歌声が、固く閉じられていた記憶の蓋を無理矢理こじ開けたのだった。
無慈悲な精神攻撃の前に、井上はなす術もなかった。この場に倒れている隊員たちの中でも、彼女の抱えている過去はとりわけ暗いものだった。絶叫し転げまわる彼女に、岩崎はどうすることもできなかった。
討伐隊の全員が、セイレーンの歌の魔力に呑まれたわけではなかった。僅かながら、岩崎の警告が届いた者もいた。意識下で懸命に抵抗し、悪夢から逃れる。
曾我部も、そのうちの一人だった。歌の影響で、少しの間意識を失いかけていたらしい。耳を塞ぎ、荒い息を整えながら、彼は辺りを見回した。
酷い状況だった。味方のほとんどは地に倒れ伏し、訳の分からないことをぶつぶつと呟いている。彼らはセイレーンの影響下に置かれ、事実上行動不能に陥っていた。
切り札として用意していた和泉蓮と佐伯雅也も、苦戦を強いられていた。ペガサスと交戦中の和泉は、飛行能力を持つ敵を相手に防戦一方だ。佐伯に至ってはメドゥーサの足元に崩れ落ち、もはや戦闘を続行するのは不可能に見えた。
彼に止めを刺そうと、メドゥーサがナイフを取り出す。コートの内側に飛び道具を隠し持っていたらしい。敵の動きを封じるのに毒は効果的だが、即効性という点では通常の武器の方が上だ。佐伯の全身に毒が回るのを待つほど、彼女は気が長くはなかった。
能力者を失っては、政府軍やNEXTへ対抗することはできない。それだけは、何としてでも回避しなければならなかった。力を振り絞って体を起こし、曽我部が命令を下す。
「煙幕を張れ!」
意識を保っていた数名の隊員が、第二世代の能力者三人へ向かって煙幕弾を投げつける。たちまち辺りは白煙で満ちた。その隙に、討伐隊は撤退を開始する。
幸いなことに、煙幕弾の破裂音を聞いて多くの隊員が正気に戻った。終わりなき悪夢から目覚めた彼らのうち、動ける者は眠ったままの者を背負い、あるいは持ち出せる限りの物資を抱えた。
そして、視界が晴れる前に、速やかにこの場を離れた。
こうして、新世代の能力者たちとの最初の戦いは完敗に終わった。
気がつくと井上は、レジャーシートのようなものの上に寝かされていた。目を覚ますと、覗き込んでいた森川と目が合う。
「あっ、目が覚めたんやね。良かった」
ほっと胸を撫で下ろした彼女に曖昧に笑いかけ、井上はゆっくりと体を起こした。あれから一体何があったのだろう。
「あの能力者の歌のせいか、ずっと意識がない状態やったから心配しとったんよ」
森川が笑顔で言った瞬間、あの幻影が脳裏に甦った。こみ上げかけた吐き気を必死で堪え、平静を装おうとする。
「渚、まだ寝てた方がええんちゃう?顔色悪いし」
「ううん、大丈夫。それより、今の状況を教えてくれない?」
自分のことを気遣ってくれるのはありがたかったが、これは自身の過去であり、自分自身で解決すべき類の問題だ。森川だって、あの歌で何かしら嫌な記憶を呼び覚まされたはずだ。それなのに、今は全然平気だという顔をしている。自分なんかのことは後回しにしなくちゃ、と井上は思った。
「ええとね、今うちらは、さっきの場所から数キロ離れた山の中におるんよ。詰め込めるだけトレーラーに積んで逃げてきたけど、物資不足は否めんね。テントもほとんどは破壊されてしまっとるし、残りのテントが全員分あるかは怪しいわ」
思い出すように森川が話すのを聞きつつ、井上は周囲をざっと見回してみた。多くの隊員はセイレーンによって無力化されたのみで、目立った外傷を負った者はいないようだった。
ふと視線を遠くにやると、見知った顔が横たわっていた。それも、大勢の人に囲まれて。
「綾音、あれは?」
「あれはね」
答えようとして、また涙が溢れそうになってしまった。目尻を強く拭って、森川が先を続ける。
「佐伯君が、メドゥーサっていう能力者の毒にやられてしまったんよ。手持ちの薬でどうにかなるものでもないみたいで……救護班の人は、もう駄目かもしれんって」
負傷者の救護を担当する女性隊員は、残念そうに首を振った。側に敷かれたシートに横たわり、苦しげな呻き声を漏らしているのは佐伯である。
「あるだけ全ての解毒剤を試してみましたが、効果がありません。専門的な治療を受けない限り、回復するのは難しいかもしれないです」
第十八班の班員たち三人は、今もなお苦しみ続けている佐伯を前に無力だった。岩崎とユグドラシルも、岸田に連れられて心配そうに見守っている。
居ても立っても居られなくて、蓮は曽我部が立っている方へ駆け出した。彼は部下たちに指示を出し、予備として残っていたテントを適当な場所へ設営させているところだった。
「隊長、お願いがあります」
「何かね」
眉をひそめた曽我部に、蓮は深々と頭を下げた。
「佐伯が毒にやられて、まだ回復していません。それどころか、ちゃんとした病院に連れていければ命が危ない状態です。麓まで下りて、彼に治療を受けさせる許可を下さい。お願いします」
「私だって、彼の命を助けたくないわけではない。しかし、許可を出すわけにはいかない」
「どうしてですかっ」
苦い表情で曽我部が告げる。ぱっと顔を上げ、蓮は怒りと動揺を隠さずに迫った。
「NEXTの能力者たちは、まだ辺りをうろついているはずだ。ここで不用意に動けば、今度こそ私たちは全滅するだろう。最悪の事態を招きかねないような真似を、隊長として許すことはできない」
「じゃあ隊長は、佐伯が死んでもいいって言うんですか」
「私だって、能力者として貴重な戦力になっている彼を失いたくない。だが、今彼を助けようとすることはあまりにリスクが大きすぎる。色々な事柄を天秤にかけた結果として、こう判断せざるを得ないというだけだ」
政府軍やNEXTへの対抗手段として、能力者である佐伯は不可欠な存在だ。しかし、彼の命を救おうとしてNEXTの攻撃を許し、さらに被害を拡大させては本末転倒である。曽我部が言いたいのは、おおよそこういうことらしかった。彼が折れることはなく、議論は平行線のままとなる。
肩を落とし、蓮は佐伯の側へ戻った。能力者としての力も、今この状況では何の役にも立たない。何もできない自分が歯痒かった。
そのとき、何かを決意したかのような表情で、ユグドラシルがすっと前に進み出た。人だかりを縫って歩き、佐伯の傍らに跪く。
「ユグちゃん、どうしたん?」
驚いて尋ねた森川に彼女は振り向き、真剣な面持ちで答えた。
「この人たちに、教えてもらったの。たとえ自分が能力者であっても、正しいことのために力を使えるのならそれでいいんだって。私も、誰かの役に立ちたい」
そう言うと左手を前に出し、手のひらを地面へ向けた。ユグドラシルが目を閉じると、彼女の手の下の土が淡く光ったように見えた。
そこから、小さな双葉が次々と顔を覗かせる。草花は恐るべき速度で成長し、あっという間に二十センチほどの高さにまで育った。
「もしかして」
岩崎がはっとして、ユグドラシルの側へ駆け寄った。目を開けた少女は、少し疲れているように見えた。その手の下にある植物は、岩崎が知っているものだった。
彼女は大学で薬学を専攻していて、研究施設で働くことになったのもその知識を買われたからであった。岩崎は救護班の女性に、やや興奮気味に言った。
「すり鉢を持ってきていただけますか?」
「構いませんけど」
戸惑った様子の女性に、岩崎は微笑みかけた。
「もしかしたら、毒を中和できるかもしれません」
ちぎった草の葉ををすりつぶし、液状にする。それを水で少し薄めて飲みやすくしたものを、岩崎は佐伯の口元へと運び、飲ませた。
佐伯はむせたように数度咳き込んだが、しばらくすると静かになった。さっきまでの体の震えや痙攣が少なくなり、心なしか顔色もいくらか良くなったように思える。
「しかし、薬草を生成するとは驚きましたな」
穏やかな寝顔を見守り、岸田が呟く。
「植物を操れるらしいとは聞いてましたが、こういうことだったとは」
「あの子が自分の意志で力を使うところを見たのは、私も初めてかもしれないです。実験で強制されることが多かったので」
隣に屈んでいる岩崎も、しみじみと言った。疲れて座り込んでしまったユグドラシルの頭を、優しく撫でる。そして、少し困ったように付け加えた。
「それにしても、皆さんにはご迷惑をかけてばかりで、何とお礼をすればいいのか……。元はと言えば、NEXTの能力者が襲ってきたのも私たちを狙っていたからですし」
「いやいや、市民を守ることも我々討伐隊の使命ですから。当然のことです」
何てことはない、と岸田がかぶりを振る。
いい雰囲気になっている二人をよそに、蓮たち三人は佐伯の回復を喜び合っていた。
「本当に良かった。うち、もう駄目かと思ったんよ」
「ちょっと、もう……綾音は涙もろいなあ」
井上に抱きつく格好で、森川は嬉し泣きの嗚咽を漏らしていた。
「これもユグドラシルのおかげだな」
だいぶ持ち直した様子の佐伯を見守り、蓮はようやくほっと一息つくことができた。
「こんな無害そうな能力の持ち主をつけ狙う、NEXTの意図が分からないよ。あいつらは一体何がしたいんだろう。新薬の開発とか?」
冗談めかして言ってみたが、岩崎は軽いジョークとは受け取らなかったらしい。蓮の方へ向き直り、思案げな表情になる。
「でも、本当にそれだけなんでしょうか、この子の力って……。詳しい資料やデータを見る機会がなかったので分かりませんけど、あの子の中にはまだ何か、別な力が眠っているように思えてならないんです」
ユグドラシルの場合、能力を行使すると蓮や佐伯以上に体力を消費するようだった。岩崎の膝の上で寝息を立て始めた彼女は、脅威となるような存在には見えない。華奢な体つきをした、ちょっと内気な普通の女の子だった。