15 第二世代
キャンプ地に帰り着いた彼らを待ち受けていたのは、ズタズタに引き裂かれたテント群だった。まるで誰かを探していたかのように、手当たり次第に蹴り破っていくという入念さだ。無傷のまま立っているテントは無いように見えた。
トレーラーから降りた隊員たちは皆唖然とし、しばらくの間声を発することができなかった。目の前に広がっている光景が信じられないでいた。
「……ひでえな、こりゃ」
顔をしかめ、岸田が呻く。
討伐隊の隊員に家はない。旅から旅への根無し草である。だが、長くとどまってキャンプをしているこの地に、愛着がないわけではなかった。彼らの心情は、故郷を戦争で失った疎開者に近かったと言えるだろう。
そのとき、破壊されたテントの残骸の隙間を縫うようにして、三人の男女が姿を見せた。
「こいつもハズレですか」
紺のスーツを着た男が、舌打ちをする。その視線の先には、彼に襟首を掴まれて持ち上げられている女性があった。迷彩服を着ているところを見ると、キャンプ地に残っていた討伐隊員の一人に違いなかった。
「は、放して下さい」
呼吸を圧迫されているからか、女性の息遣いは荒かった。瞳は恐怖で彩られていて、抵抗する意欲すらなくしている。一方、男はもはや彼女に興味を失っているようであった。
「はいはい、分かりましたよ」
乱暴に手を放され、女性は尻餅をついて倒れた。スーツの男は彼女に目もくれず、他の二人に付き添って討伐隊の面々へと近づいてくる。近くで見ると、なかなか端正な顔立ちをした男性だった。短く刈った髪が爽やかな印象を与えるが、目には冷徹な光が宿っている。
その左に並ぶ二人の女は、いずれも美人の部類に入るだろう。
一人はセミロングの美しい黒髪をもち、妖艶な笑みを浮かべている。体のラインがくっきりと浮き出た、真っ赤なセーターが何ともなまめかしい。
もう一人は、胸まで届きそうなくらい長い金髪を誇っている。桜色をした薄手のコートを羽織り、無表情に蓮たちを眺めた。
他の隊員らを手で制し、曽我部がすっと前に進み出た。
「政府軍の者ですかな」
口調はきわめて冷静だが、その目はぎらぎらとしている。爆発しそうになっている怒りに辛うじて蓋をしていることが、ひしひしと伝わってきた。
「違うと言ったらどうです?」
紺のスーツの男が、からかうように問い返す。
彼を見て、岩崎とユグドラシルがはっと息を飲むのが分かった。後ろを振り返り、蓮は声を落として尋ねた。
「どうしました」
「あの人です」
岩崎は震える手で男を指差し、絞り出すように言った。
「あの人に、私とこの子は追われていたんです」
ユグドラシルも、青い顔でこくこくと頷く。
彼女らを後方に庇うように、森川と井上が前に出た。佐伯も無言で蓮の横に並び、いつ自分たちの力が必要になっても戦えるようにそなえる。奴らが只者ではないことくらいは、気配を見れば分かる。
(岩崎さんたちを狙ってるってことは、やっぱり「NEXT」の手の者か)
蓮の抱いていた悪い予感は、的中してしまった。思ったよりも早くここを嗅ぎつけられたこともそうだが、本当に隊員が出払った隙を突いて襲ってくるとは。いまだ謎に包まれた組織は、目的を達成するためなら手段を選ばないらしい。
「単刀直入に言います。ユグドラシルを私たちに引き渡して下さい」
金髪の女が、感情のこもっていない声で言った。曽我部が慎重に言葉を返す。
「断ります。聞けば、彼女はあなた方の元で研究材料とされ、人体実験を受けていたというではありませんか。そんな非人道的な行いを認めるわけにはいきません。あなたたちにお返しするくらいなら、私たちが保護した方が彼女も幸せなはずです。違いますか」
「何にも分かってないのね、あなた」
ゆっくりと首を振り、黒髪の女が口を挟んだ。
「あの子の幸せ?いいえ、そんなのは問題じゃないわ。あの子はたった一つの、そして最も偉大な目的のために生み出された命なの。そのために使ってあげなかったら、生きる意味がないってものじゃない」
ふざけるな、と蓮は唇を噛み、拳を固く握り締めた。周りの目がなかったら自分を抑えられず、今すぐ飛び出して行ってあの女に殴りかかっていたかもしれない。
奴らは、人の命を何だと思っているのだろうか。それに、人生を歩む意味とは当人が決めるべきものだ。他人の思惑でその身を犠牲にして苦しみぬくだけの人生を、ユグドラシルが望んでいるとはとても思えない。
「セイレーン、喋りすぎですよ。彼らに余計な情報を与える必要はありません」
「分かってるわよ」
男にたしなめられ、彼女はやや膨れっ面になりつつも口を閉じた。
セイレーンというと、ギリシャ神話に登場する海の魔物のことか。上半身は人間の女性、下半身は鳥の姿をしているとされる。それが名前だとしたら、かなり変わった名前だ。もっとも、単なるコードネームのようなものかもしれないが。
「交渉に応じる気はなさそうですね。ならば、実力行使といきましょう」
さほど残念そうでもない口ぶりで、男は告げた。むしろ、戦うことを楽しんでいるようにさえ見えた。
彼らは得物を所持しているわけではなく、纏っている衣服もおおよそ戦闘向けのものではない。それにもかかわらず数の上で圧倒的に多い討伐隊に戦いを挑むのだから、通常の武装兵士ではないことは明らかである。
「……俺は金髪の女の方をやる。お前はあのリーダー格の男を潰せ」
一触即発の気配が高まると、佐伯が小声で耳打ちしてきた。自分たち能力者の働きが戦場で鍵を握ることを、彼はよく理解している。
「個人的には、セイレーンって奴をぶん殴りたい気分なんだけどな」
「討伐隊のほぼ全員が同じことを思っているはずだ。いくら奴が強くとも、怒り狂った隊員たちに包囲されて一斉射撃を浴びればひとたまりもないだろう。つまり、俺たちの出る幕ではないということだ」
佐伯の意見にも一理あると思い、蓮は黙って頷き、了解の意を示した。それに、セイレーンを倒すのは他の二人を無力化してからでも遅くはない。
三人の男女が討伐隊と対峙し、その全身から殺気が放たれる。隊員らがライフルを構え、先手必勝とばかりに攻撃を仕掛けようとした瞬間だった。
「『能力解放』」
異口同音に、三人がコマンドを唱える。凄まじい衝撃波が吹き荒れ、隊員たちは思わず腕で顔を庇った。目を細め、立ち込める砂煙の向こうにあるものの正体を見極めようとする。
紺のスーツの男の背から、鷹のそれに似た逞しい翼が伸びる。両脚の筋肉が発達し、馬のごとき力強さを発揮する。それはまるで、異なる種の生物の力を同時に使用しているように見えた。
金髪の女の髪の毛の一本一本が、シューシューと音を立てる毒蛇へと変化する。瞳が白く濁り、怪しげな輝きを放つ。蛇の能力をもつのではなく、肉体そのものを蛇へ変化させている。奇妙な肉体変化を目の当たりにし、隊員らは戸惑った。
身体全体を包み込むほどの巨大な翼を、セイレーンはそなえていた。これほど大きな羽をもった動物を、蓮は知らない。
三人とも能力者には違いないが、一体どの生物の力をベースにしているのだろう。これまでに交戦したことのある、政府軍所属の能力者集団とは一線を画した存在であることは明白だ。
蓮たちの心を読んだかのように、男が言った。
「随分と驚いているようですね。まあ、第一世代の能力者しか知らないあなたたちからすれば、それも当然でしょう」
「あんな低レベルな奴らと一緒にされたら困っちゃうわ。第二世代である私たちは、複数の生物の力を併せ持ち、神話上の存在の力を疑似的に再現することに成功しているの」
セイレーンが不敵に微笑む。彼女に付けられた名は、自身の能力の代名詞でもあるのだろう。セイレーンは歌声で船乗りを誘い出す存在として神話に描かれており、彼女が何らかのかたちで敵の精神に干渉する能力をもつ可能性もある。鋭い爪のような目立った武器はないものの、侮れない相手かもしれない。
「行きますよ。セイレーン、メドゥーサ」
残忍な表情を垣間見せ、男が戦闘開始の合図をする。
「ええ」
「ペガサス、了解しました」
セイレーンがにっこりと笑い、蛇から成る髪をもつメドゥーサが首を縦に振った。
勢いよく向かってきた三人を、討伐隊は全力で迎え撃った。
作戦通りにいくことにした。
蓮は吠えるようにコマンドを発声し、獅子の能力を発現した。太く鋭利な爪を武器に、ペガサスと呼ばれた能力者へ突進する。
ペガサスは翼を広げ、ふわりと地上から浮き上がった。蓮の攻撃を苦も無く回避すると、そのまま上昇して上空を旋回する。かと思うといきなり急降下し、踏みつけるようなキックの一撃を繰り出した。
反射的に飛び退き、蓮はすんでのところでそれを躱した。しかし、ペガサスは蹴りを放った後着地するのではなく、翼を僅かにはためかせて一メートルほど浮かび上がった。羽の角度に微妙な調整を加えることによって、空中で自在に姿勢制御することを可能にする。
上方に浮かんだまま跳び蹴りのフォームを形作ると、ペガサスは再び蓮に襲いかかった。一瞬のうちの出来事で、今度は避ける余裕もない。やむを得ず両腕を体の前で構え、蓮は防御の姿勢をとった。
だが、相手の方が一枚上手だった。ペガサスがさらに翼を微動させ、空中で体を捻る。それにより、ほぼ直線的だった攻撃の軌道が弧を描くようなかたちに変化した。飛行ルートを変更して素早く蓮の側方へ回り込むと、ペガサスは思い切り足を蹴り上げた。
(……何⁉)
瞬時に行われた、ドロップキックから回し蹴りへの方針変更。高い動体視力を誇る蓮の目は、一連の動作を捉えてはいた。ただ、あまりの速さに肉体の反応が間に合わない。
ガードする間もなく、強烈な蹴りが胸部に叩き込まれた。肺の中の空気が全て押し出されたようで、強い衝撃が全身を走り抜ける。蓮は数メートルほど吹き飛ばされたが、どうにか足を踏ん張って持ちこたえた。
背中を冷や汗が流れるのを感じる。
この男の強さは、半端なものではない。翼の角度に細かい調整を加えることで、地面に降りることなく体の向きを臨機応変に変えることができる。言い換えれば、彼は攻撃を加えた後に全く隙をつくらず、ほとんど予備動作なしで次の攻撃に移行することができるのだ。無限の連続攻撃が可能だと言っても過言ではない。
ペガサスは一旦地上に降り立ち、出方を窺うようにこちらを見つめている。
「この間の能力者よりは、いくらかしぶといようですね」
そう独り言ち、ペガサスは蓮の全身をしげしげと見た。金色のたてがみを見て、眉をぴくりと動かす。
「ライオンの能力者。あなたは確か、旧世代の中でもかなり優秀なモデルでしたか。高い潜在能力を秘めていると、資料で読んだ覚えがあります」
「さっきから第一世代とか第二世代とか言ってるけど、一体それはどういう意味なんだ。能力者の中にも、序列のようなものが存在してるのか?」
訝しげに問うと、ペガサスは鷹揚に頷いた。
「ええ」
これくらいならば話しても構わないだろう、というように、端的に述べる。
「あなたのような第一世代の能力者は、一種類の動物の力のみを引き出すことができる。しかしそれは、より優れた能力者を生み出すための前段階に過ぎませんでした。いわば、あなた方はプロトタイプであるわけです。私たち第二世代は、第一世代のデータを元に改良を加えたバージョンアップ版なんですよ」
「なるほど。その話が本当なら、どうやらあんたたちの方がスペックは上みたいだな」
色々と考察すべき事柄はあったが、蓮はひとまず会話を続け、時間を稼ぐことにした。
ペガサスによれば、能力者には第一世代と第二世代という部類が存在する。科学者たちが何のために能力者を生み出しているのかは知らないが、今明らかになったことがあった。
第一世代の能力者は、蓮や佐伯のような例外を除き、政府軍の特殊部隊に属している。そして第二世代の能力者は、「NEXT」という組織に所属しているらしい。この二つに因果関係があるように思えてならなかった。
「まあ、そういうことになりますね。早く降参して、ユグドラシルの身柄を引き渡すのが身のためですよ。あなただって、これ以上いたぶられたくはないでしょう?」
ペガサスが高らかな笑い声を上げる。
つまり、こういうことではないのか。NEXTは政府軍と裏で繋がっていて、協力関係にある。自分たちの実験の過程で生じるプロトタイプ―つまり第一世代の能力者を、軍に貸し与えるようなことを行っていたのではないか。もしかすると、蓮もその旧世代の集団の中に含まれていたのかもしれない。自身の能力の由来の謎を解く鍵が、その辺りにありそうな気がした。
「たとえ能力的に劣っていたとしても、退くわけにはいかないんだよ」
奥歯を噛みしめ、蓮は唸った。罪のない少女を彼らに渡し、また人体実験を受けさせるようなことがあってはならない。再び戦闘の構えをとり、蓮は咆哮を上げて躍りかかっていった。
「『能力解放』」
虎の獣人へと姿を変え、佐伯はメドゥーサと呼ばれた女の前に立った。
「邪魔です」
メドゥーサはぼそりと呟いた。対照的に、彼女の頭に巣くう無数の毒蛇たちがシュー、と不気味な音を立てる。口を大きく開き、彼らは紫色の液体を吐きかけた。おそらく、毒液だろう。
佐伯はバックステップでそれを躱した。周りにいる他の隊員らも、慌てて避ける。液がかかった草花はみるみるうちにしおれ、変色したのちに溶けてしまった。酸性の液体らしく、腐食作用ももつようだ。
なかなか厄介な相手だ。遠距離の敵に対しても強力な攻撃手段をもっているところを見ると、間合いに踏み込んで攻撃を仕掛けるのは難しいといえるだろう。佐伯の有する虎の能力は、もっぱら近接戦闘に特化している。相性が悪いことを認めざるを得ない。
それならば、距離を保って銃撃を浴びせるのが有効だろう。そう考えた隊員は一人ではなかった。佐伯を援護すべく、十数人が散らばってメドゥーサを包囲する。銃口を向けられても、彼女は全く動じていなかった。佐伯は彼らの邪魔にならないよう、流れ弾の当たらない位置まで一旦下がった。
けれども、誰も引き金を引かなかった。異変に気づいた佐伯が、メドゥーサと隊員らを交互に見やる。
(何故だ。どうして攻撃を仕掛けない)
隊員たちの表情を見たとき、その答えが分かった気がした。彼らの目は、一様に驚きに見開かれている。指先がぷるぷると震えている。アクションを起こさないのではなく、動きを封じられているのだ。
思えば、神話においてメドゥーサは、自分と目の合った者を石に変える能力をもつとされている。さすがに伝説を文字通り再現するレベルには至らなかったようだが、それに類する力を彼女は持ち合わせているに違いない。例えば、目の合った者の体を硬直させる、といったような。
ともかく、このままではまずい。無防備な状態になった隊員たちが、一方的に敵の攻撃を受けるかたちになってしまう。彼らを守るべく、佐伯は木の陰から飛び出した。なるべくメドゥーサの顔を直視しないようにしつつダッシュで接近し、一瞬で懐に潜り込む。右手を軽く後ろに引き、勢いよくアッパーカットを放った。
間違いなく、彼の拳はメドゥーサの顎をとらえたはずだった。しかし、手の甲に伝わるのは硬く冷たい感触だった。相手は怯んだ様子も見せない。
はっとして、佐伯は拳を当てている箇所へ目をやった。メドゥーサの顔の下半分が石化し、強固な盾となって佐伯の殴打を見事にガードしている。
彼女に能力を与えた科学者は、より実践的な力を発揮できるように神話の内容をやや曲解したのかもしれない。敵を無力化するのに、わざわざ石像に変えてしまう必要はない。動きを止めることができれば十分だし、無駄なエネルギーの消費も抑えられる。それよりは、自身を守るために力を使う方が理にかなっている。
(くっ……)
さらに力を加えてみたが、頑丈な岩となった彼女の顔はびくともしなかった。
「足掻いても無駄。あなたはここで排除します」
無表情のまま、メドゥーサが告げる。
殺気を感じて飛び退ろうとした佐伯の腕に、彼女の髪が変化した蛇たちが絡みついて逃がさない。振りほどこうと身をよじり、佐伯は膝蹴りを繰り出した。それはメドゥーサの腹部に命中したはずだったが、伝わってきたのはまたしても硬い感触だった。一度に複数の部位を硬化することも可能なようだった。
佐伯の抵抗を完全に封じ、メドゥーサは小さく口を開けた。軽く息を吸い込み、それから漆黒の霧を吐き出す。
毒霧だと気づいたときには、もう遅かった。
致死性のガスを全身に浴び、佐伯は力なく崩れ落ちた。
セイレーンは第二世代の三人の能力者の中で、最も非力そうに見えた。
ペガサスのように強靭な肉体をもつわけではない。確かに巨大な翼こそ有しているが、それは自らを包み守る盾として使われることがほとんどだった。メドゥーサのように、頭から蛇が伸びているという奇怪な外見をしているわけでもない。
だが、彼女を侮ってかかるのは大きな間違いだ。
討伐隊の隊員は狙撃銃を構え、セイレーンを取り囲んだ。一斉に射撃を浴びせるが、見かけによらず硬質な翼がそれを阻む。自分を翼で包み込むようにして、彼女は防御に徹していた。
何発も銃弾を浴びせているのに、一向に反撃してくる気配がない。井上は妙に思いつつも、皆に倣い攻撃を続行した。このまま集中砲火を浴びせ続ければ、さすがの能力者といえどもいずれは耐え切れなくなるはずだ。
不思議なメロディーが戦場に鳴り響いたのは、そのときだった。
井上はしばし、誰が歌っているのか分からずに困惑した。心の奥深くに語りかけてくるような、どこか哀愁の漂う、懐かしい感じの歌だった。
セイレーンだ。あの能力者が、歌を歌っているのだ。何故そんなことをするのか、という疑問は頭から抜け落ちていた。井上は思わず、彼女の歌に聞き惚れてしまっていた。隊員たちも攻撃の手を止め、ぼんやりとした表情になっている。
背後で、岩崎が喘ぐのが聞こえた。意識を無理矢理に歌から引き剥がし、どうにか現実に戻ったらしい。彼女は咄嗟に屈み込み、茫然自失としているユグドラシルの両耳を手で塞いだ。そして、必死の面持ちで叫んだ。
「皆さん、あの歌は危険です。耳を貸してはいけません!」
勇気を振り絞って発せられた警告を受け取ろうとする者は、しかし誰もいなかった。井上はただぼうっとしたまま、「こんな美しいものを、どうして聞いてはいけないのだろう」と漠然と疑問に思った。
岩崎はNEXTに属していたとき、新世代の能力者に関する資料を見る機会が何度かあった。その書類に記載されていたこの女の能力を思い出し、彼女は辛くも歌の呪縛から逃れた。何も知らない隊員らは、歌に意識を奪われるがままになっていた。
突然、歌のテンポが激しくなった。剥き出しの感情のこもった歌声が、速いリズムに乗せて意味不明の歌詞を次々に響かせる。その多くは単語の羅列に過ぎず、何の意味をなさないものだった。
途端に隊員たちが銃を取り落とし、頭を抱えてうずくまった。頭が割れるように痛かった。井上も、訳の分からぬまま地面に膝を突いた。体に力が入らなかった。
ふと横を見ると、森川が苦悶の表情を浮かべて倒れていた。髪をかきむしり、時折パニックになったように両手を振り回す。
「ごめん、お父さん。うち、頑張るから。頑張ってお金稼いで、家を立て直すから……だから、そんなこと言わんといて。ねえ、お父さん」
ほとんど、うわ言を言っているようだった。目の焦点が定まっておらず、視線は虚空をさまよっている。セイレーンの見せた幻想の中に囚われ、彼女は戦うことを放棄していた。
思い出したくもない過去と相手自身を向き合わせ、精神攻撃を仕掛ける。これが岩崎の恐れていた、セイレーン固有の能力だった。際立った殺傷能力こそないが、多数の敵をいっぺんに無力化できるという点で甚大な威力を誇る。
気がつくと井上は、通っていた高校の教室にいた。敵の術中にはまっているという意識すらなかった。