13 ユグドラシル
「すみません」
山野の中を走り抜けている最中、蓮は誰かに声を掛けられた気がした。
訓練の一環で行われている、中距離走の途中である。僅かに前方を走る佐伯に追いつこうと、ペースを上げたところであった。能力者としての力を得てから、彼の常人離れした身体能力にはさらに磨きがかかっている。蓮も負けていられなかった。
(気のせいか)
そういうことにして、先を急ぐ。討伐隊の居留地を知っていて、かつ好戦的でない態度を取ってくる人物に心当たりはない。政府軍ならキャンプ地を把握しているかもしれないが、先日のような奇襲をかけてくるはずだ。ましてや、民間人が討伐隊の居場所を知っているはずもない。
「あのう、すみません」
けれども、空耳が二度も聞こえるというのはおかしい。どうやら気のせいではないようだ。蓮は一旦足を止め、声のした茂みの方へ目を向けた。少し呼吸を整えてから、唇を舐めて湿らせ、慎重に口を開く。
「はい?」
ガサガサ、と小さな音を立てて、生い茂った草木の中から一人の女性が姿を現した。年齢は三十代前半くらいだろうか。ほっそりとした体つきに、日本的な顔立ちをした女性である。緊張した表情の中にもどことなく優しさを感じさせる部分があり、敵対する意志がなさそうなことは一目で分かった。白衣に似たデザインの白い上着を羽織っている点も、研究者らしい知的な印象を強める。
「もしかして、討伐隊の隊員の方でしょうか?」
おずおずと尋ねられ、蓮は笑顔で応じそうになるのを思いとどまった。相手の素性が分からない以上、もう少し慎重に対応すべきだ。愛想よく振る舞うのは、別に今ではなくても良い。
「そうですけど、ええと、失礼ですがあなたは?」
「私は、岩崎友美と申します。『NEXT』の管轄にある研究所の所員だったのですが、訳あって逃げてきました。ある方に、ここなら安全だと言われて……。いきなりこんなことを頼まれてもと思うかもしれませんが、しばらくの間、ここにいさせてもらうことはできますでしょうか?」
「NEXT」。どこかで聞いたことのある響きだったが、すぐには思い出せない。
「分かりました。とにかく、詳しい話を上の人たちに聞いてもらった方がいいと思います。隊長のところに案内します」
蓮は軽く頷き、女性を導くように歩き出した。演習で走るコースからは大幅に外れることになるが、事情が事情だけに大目に見てくれるだろう。これは、自分一人で判断を下していい事柄ではない。
「ありがとうございます」
女性は礼儀正しく頭を下げると、茂みに向かって声を掛けた。
「ほら、大丈夫だから怖がらないで。行くよ」
他に連れがいたのか、と蓮は踵を返して女性らがついてくるのを待つ。はたして草むらから出てきたのは、中学生くらいと思われる少女だった。長い黒髪を二つに結わえた、痩せた少女だ。まだ表情には幼さが残っている。
いや、二人が細身なのは元々ではないに違いない。きっと、長い逃亡生活の中で心身ともに衰弱しているのだろう。よく見ると、彼女らの衣服はところどころが破れているし、顔色も良いとはいえない。どういう経緯で追われているのかは不明だが、少なくとも討伐隊が保護する必要はあると思えた。
一体この二人はどういう関係なのか、と蓮は疑問に思った。親子にしては外見が似ていないし、この年頃の娘がいるのなら母親の年齢はもっと上でなくてはつじつまが合わない。
(まあ、詳しいことはあとで聞けばいいか)
今はともかく、彼女らに安全な場所を提供できるよう努力しなければならない。蓮が二人を連れて再び歩き出そうとしたとき、ちょうど後方を走っていた森川と井上が追いついてきたところだった。
「これはどういう状況なん?」
歩みを止め、困惑した様子で森川が視線を向けてくる。何と答えるべきか躊躇していると、彼女は女性と少女の組み合わせと蓮へ交互に視線を向けたのち、かあっと頬を真っ赤に染めた。
「まさか蓮君、その女の人との間に」
「綾音、何考えてるの。発想が飛躍しすぎてるよ」
負けないくらい赤くなって、井上が台詞を遮る。
「だって、年齢的におかしいから。もし本当にそうなら、この子はせいぜい幼稚園児くらいでないと道理に合わないもん」
逆に岩崎さんが赤ちゃんを連れてたら疑うのかよ、と蓮はがくりと肩を落とした。できれば状況証拠によってではなく、蓮自身の人格への信頼によって擁護してもらいたいところであった。危うく濡れ衣を着せられかけ、森川をちょっぴり恨めしく思う。
「―それに、和泉君がそんなことするはずないから」
付け足すように、誰にも聞こえないくらいのボリュームで井上が呟いたのが聞こえた者はいただろうか。
どうにか誤解を解き、岸田に状況を説明して訓練を中断させてもらう。十分後には、岩崎と謎の少女は曽我部のテントの中へ迎え入れられていた。
両脇に屈強な隊員二人を控えさせ、曽我部はデスクにどかりと腰を下ろした。同時に、向かい側に座る二人にも椅子を勧める。
「和泉君から話は聞いています。まず、何故あなた方が追われているのか話してもらえないでしょうか」
精悍な顔立ちの曽我部に、彼女らは最初こそ気圧されていた。しかし、見かけによらず柔和な性格であることを察すると、少し表情が和らいだように見えた。
「はい。私は先ほどもお話ししたように、『NEXT』の研究所の所員でした。そこでこの子は、連日のように人体実験を受けていたんです。でも、それがあまりにもむごくて……何度も止めさせるように頼んだのですが、聞き入れてもらえませんでした。だから、彼女を連れて逃げてきたというわけです」
「人体実験?この子が?」
曽我部は眉をひそめ、岩崎の隣に腰掛けた少女を見つめた。
(こんなに無防備で、何の罪もない少女に人体実験を強いるとは)
何とも理不尽な仕打ちに、はらわたが煮えくり返りそうになる。自分が岩崎友美の立場でも、同じように逃げ出したかもしれない。
「ええ」
悲しげに目を伏せて、岩崎が答える。今ではすっかり彼女に同情している曽我部は、質問を重ねた。
「何故この子はそんな目に遭ったんです。人体実験を受けさせることで、何か組織にとって利益があったのですか?」
「多分そうなんだろうと思います。ただ、どうして私の上司たちがこの子に拘ったのかはよく分かりません。尋ねてみたこともありますが、はぐらかされてしまって」
そこで一度言葉を切り、岩崎は話していいものかどうか迷ったようだった。けれども、やがて顔を上げて明かす。
「実は、この子には植物を操る不思議な力があるんです。もしかすると、それが実験の対象になった理由かもしれません」
「植物を操る力……」
部下たちとさっと視線を交わし、曽我部は少し考える素振りを見せた。
「それは、我々が能力者と呼んでいる異能の者と同種の存在かもしれませんな。彼らは、肉体を動物の特徴をそなえた形態に変化させる、といった力を有しています。この子がそれと同じ系統の能力を持っている、という可能性はあるかもしれません。彼女が政府軍と接触した経験はありますか?」
暗に「能力者は政府軍の技術によって生み出された存在だ」、と暴露しているに等しい台詞だ。それを躊躇いもなく口にした曽我部は、岩崎の言葉を疑っていないばかりか、彼女からより多くの情報を引き出して自分たちに役立てようとしていた。
「いえ、ありません」
申し訳なさそうに、岩崎が首を振る。落胆した様子も見せずに、構いませんよ、と曽我部は笑った。
「ところで、そちらのお嬢さんは何という名前でしたかな」
「……ユグドラシル」
このとき初めて、少女が口を開いた。あまり抑揚のない、ハスキーな声だった。
確か、北欧神話に登場する世界樹と同じ名前だ。根が世界へと伸び、枝が宇宙を支えるとされる大樹。奇妙な名だ、と曽我部は思う。被験者にまともな名前を付けるほど、岩崎の所属していた組織は人間的ではないということか。
「なるほど。……話を聞いた限り、あなた方は非常に辛い状況に置かれているようだ。落ち着くまで、私たちのところで暮らして構いません。第十八班の者に面倒を見させます」
控えている二名の隊員が動揺の気配を見せたが、曽我部は気づかぬふりで通した。一方、岩崎は顔を輝かせ、深く一礼した。
「ありがとうございます」
それに倣うように、ユグドラシルと呼ばれた少女もぺこりと頭を下げる。その表情はぼうっとしていて、見よう見まねで何となくやっているのだと分かった。
「隊長、さっきの決定はどういうことです」
二人が退室すると、部下の一人が曽我部へと向き直った。
「何も、あんな新入りの隊員ばかりのところに任せなくてもいいじゃないですか。今でさえ、十八班の班長の苦労は並大抵ではありませんよ」
班長の岸田以外の全員が新入隊員であるあの班は、ベテランの隊員の中では「ハズレ」扱いされている。貧乏くじを引いた岸田は、密かに皆の同情を集めていた。
「あの班を選んだ理由はいくつかある。第一発見者である和泉蓮、そこに居合わせた森川綾音と井上渚―彼らは皆、第十八班に所属している。顔見知りの者と一緒に過ごせる方が、あの二人も安心できるだろう。それに、あそこは比較的女性隊員の比率が高い。彼女らの身の回りの世話をする上で、何かと都合が良い」
曽我部は全く動じずに、淡々と自分の考えを披露していった。
「もう一つの理由は、『NEXT』が関係していることだ」
一瞬怪訝な顔をした二人に、説明を続ける。
「スパイダープランを提唱していた世界的に有名な科学者集団は、スパイダーが人間を襲い始めたのと同じタイミングで姿を消した。まるで、人々から非難を浴びることになるのを予知していたようにね。しかし同時期に、世界各国に研究機関を建設している組織があった。それが『NEXT』だ」
「つまり隊長は、例の科学者グループは『NEXT』へと名前を変え、いまだ暗躍しているとお考えなのですか?」
「ああ」
曾我部が重々しく頷く。突飛にも聞こえる仮説だが、そう考えても不自然ではないくらいの証拠は揃えられていた。
「彼らはスパイダープラン実施後、数年の間は人類を救った英雄として称えられた。その頃に受けた多額の寄付金を活用すれば、研究施設を秘密裏に移転することなど造作もなかったろう。もっとも、確たる根拠があるわけではないから、この説はあくまで疑念として胸の内に留めていたんだが……彼女の話を聞いて、あながち間違っていないかもしれないと思うようになった」
「どういうことです、それは」
もう一人の方が、やや急かすように聞いた。
「政府軍は、能力者を所有している。しかし、長い間平和を保ってきた我が国の軍事化の歴史は、ごく浅いものだ。自力であの技術を開発したとは考えにくい。となると、何らかの組織から技術を導入したと推察するのが自然だ。そして、『NEXT』では能力者に類する何かについて研究が行われていると分かった。さらに彼女の話から、その活動拠点は日本にもあることも明らかになった。どうだね、全てが繋がり始めたように思わないかい」
「仰る意味は、理解できました」
二人の部下はいまだ混乱しているようだったが、ある程度は頭の中を整理することができたらしい。おもむろに頷いた。
「つまり、『NEXT』は政府軍と協力関係にある可能性が高く、ある意味我々にとって敵であるということですね。ですが、それと彼女らを第十八班に預けることにどのような関係が?」
「忘れたのかね、和泉蓮の存在を」
曽我部は不敵な笑みを浮かべ、足を組んだ。
「君たちも知っての通り、彼の父親は政府軍の最高司令官だ。私たち討伐隊の側の人間の中で、彼は最も政府軍上層部と近い位置にいる。私はただ、彼が何かの拍子にあの二人から重大な事実を聞き出し、私たちの気づき得ないことに気づく可能性に賭けてみただけさ」
今は何よりも情報の入手が優先的で、僅かな希望にもすがりたい気分だった。椅子の背もたれに体重を預けて、曽我部が呟く。
「どうも嫌な予感がする。私たちがあずかり知らぬところで、途方もないことが進行しつつあるような気がしてならない」
部下たちは一様に押し黙り、今にも迫っているかもしれない危機に漠然と思いを馳せた。
「というわけで、今日からお前たちと一緒に生活することになったお二人さんだ」
翌日、朝食の後に第十八班は召集をかけられた。班長である岸田から雑に紹介され、岩崎とユグドラシルが遠慮がちに会釈する。
「二人には、食事の用意や物資の整理を手伝ってもらうことになっている。顔を合わせるのは訓練の合間になるが、まあ仲良くしてやってくれ」
また面倒なお荷物が増えた、と言わんばかりの嫌そうな表情である。最初の挨拶くらい愛想よくすればいいのにと思うが、岸田のこの性格は生来のものなのかもしれない。
軽く自己紹介をした後、蓮たちは訓練へ、岩崎はユグドラシルを連れ、別のテント群へ向かって歩き出した。
「本当にあの子が能力者なのか?どう見ても、普通の女の子じゃないか」
射撃場―といっても木の幹に的を取り付けてあるだけだが―へ向かう道中、蓮が漏らす。やや内気そうなことを除けば、彼女に特に変わった点はないように思えた。
「お前の目は節穴か」
横に並んで歩く佐伯は、大げさにため息をついてみせた。
「ブラウスの襟の陰になっていたが、彼女の首元には生々しいあざがあった。まるで、チューブか何かを繋がれていたかのような跡がな。人体実験を受けていたというのは本当なんだろう」
すらすらと続ける彼を、蓮は驚いて見つめた。
「何でそんな細かいところまで見てるんだよ」
「虎の能力を得てから、少し視力が上がったようだ。まさか、百獣の王の力を持つお前が気づかなかったはずはないだろうがな」
「うるさいな」
いつもの調子で意地の張り合いを始めた二人を後ろから眺め、森川と井上は目くばせしてふふっと笑った。
その日の訓練は早々に切り上げられた。岩崎らと十分に親睦を深められるようにとの、岸田の配慮である。上も黙認しているらしい。
彼女らのテントは第十八班の近く、森川と井上の使っているものの側に設営されている。そこへ集まり、皆でレクリエーションでもしようという話になった。
「ねえ、ユグちゃんって呼んでもかまん?」
にこやかな笑顔を向けられて、少女はびくりと体を震わせた。警戒するような眼差しを向けられ、森川が急にしどろもどろになる。
「いや、ユグドラシルやと呼びにくいやん?」
「……綾音、ちょっとフレンドリーすぎるよ」
呆れ気味にぼやいた井上を横目に、岩崎がすまなさそうに謝る。
「すみません。この子、今までずっと実験に耐えるだけの生活を強いられていたもので。話し相手もいなかったから、他人との付き合い方がまだ分からないんだと思います」
まるで生まれたばかりの赤ん坊じゃないか、と蓮は思った。きっと、物心ついたときから能力者であることを運命づけられ、実験動物として扱われてきたんだろう。対人経験はないに等しい。
彼女にこんな非人道的な仕打ちをした「NEXT」という組織は、一体どのようなものなのだろうか。名前は聞いたことがあるが、具体的に何をしている団体なのかと聞かれると答えられない。
持参した一組のトランプを取り出しかけて、再び懐に戻す。この子は、研究施設の外の世界をほとんど知らずに育ってきた。ババ抜きや大富豪のルールを知っているはずもない。
それでも森川は、暗くなりかけた雰囲気をどうにかして元に戻そうとした。精一杯の明るい表情で、ユグドラシルに話しかける。
「じゃあ、うちらが色々教えてあげんとね。外、歩いてみん?」
「……うん!」
そのとき、俯いていた少女はぱっと顔を上げ、満開の桜のような眩しい笑顔を見せた。笑ったところを見たのは、おそらく初めてだった。
一同はテントの外に出ると、夕暮れの森の中を散策した。
時折立ち止まっては木々や草花を指差し、ユグドラシルに話しかける。
「ユグちゃん、これはすみれっていう花なんよ」
「すみれ」
噛みしめるようにして復唱し、恐る恐る花びらに手を伸ばしてみる。粉のようなものが指について、少女は驚いたように目を見開いた。
「あっ、それは花粉っていうんだよ」
教えなきゃいけないことがたくさんあるね、と井上が優しい微笑みを浮かべる。妹ができたようで嬉しいのか、二人はユグドラシルの世話を焼くのを心から楽しんでいるように見えた。
女性たちが構築するネットワークに男性が踏み入りがたく思うのは、よくあることだ。蓮は佐伯と連れだって歩きながら、彼女らのほのぼのしたやり取りを眺めていた。
咲き誇る菜の花を見て、歓声を上げている三人。それを遠目に見て、佐伯がぼそりと言った。
「皮肉なものだな」
「何がだよ」
きょとんして尋ねると、佐伯はため息をつき、苛立たしげに首を振った。
「俺は、両親を喰い殺したスパイダーが心底憎い。だが、もしスパイダーが存在せず、奴らの張り巡らせた巣が上空になかったら、今見ているような景色を俺たちが目にすることはなかっただろう。奴らが俺たちに恩恵をもたらしてもいるんだと思うと、どうにも複雑な気持ちになってしまう」
言わんとするところは分かる。スパイダープランが実行されていなければ、人類は加速する地球温暖化の影響をもろに受けていただろう。激しい気候変動により、地球のほぼ全域は熱帯と化す。生物の多様性はほぼ消滅し、熱帯由来の動物のみによる画一的な生態系が形成される。厳しく降り注ぐ紫外線は、短時間浴びるだけでも人体に悪影響を及ぼす。海面上昇だって起こり得ただろう。
ある意味で人類を救った存在であるスパイダーを保護しようとする政府を、蓮は全く理解できないわけではなかった。スパイダープランは、温暖化を食い止める手段として効果が薄いわけではない。ただ、多少の犠牲者が出るのもやむなしとしている点で、最善の選択肢には決してなり得ないと思っている。
「らしくもないな。スパイダーを一匹残らず倒すのが、お前の目標だったんじゃないのか」
「もちろんだ。そのために危険な賭けをし、能力者の力を手に入れた。だがな、この頃ふと思うようになった」
佐伯は目を細め、菜の花を摘んで花冠をつくっているユグドラシルたちを見た。
「仮に討伐隊や、諸外国にある対スパイダー組織の尽力で、スパイダーが全て滅んだとしよう。その先に何が待っているんだろう、と」
「それは……」
上手い答えが浮かばなくて、蓮の言葉は虚空をさまよった。
スパイダーの吐き出す糸は高い強度をもつが、絶えず新しい糸で巣を補強しなければならない程度には脆い。糸を紡ぎ出す者がいなくなれば、人類を保護してきた巣は朽ちる。人々は箱庭の中から自然の猛威の中に投げ出され、徐々に破滅へと向かう。
「何も深刻になる必要はない。技術が発展すれば、スパイダーの吐く糸、もしくはその代替物を人工的に生産できるようになるかもしれない。それを使って人間の手で巣を補強できるようになれば、スパイダーなしでも人類は生存できる」
一旦言葉を切り、佐伯は瞬きをした。
「俺が言いたいのは、事態はそう単純ではないかもしれないということだ」
「頭に入れておくよ」
蓮は軽く頷き、楽しそうに戯れている三人を眺めた。にこにこと笑っている井上の横顔が、やけに輝いて見えた。
遠くない未来、政府の思惑通りにスパイダーが保護され続けたとしても、討伐隊が勝利してスパイダーを駆逐したとしても、この平和は長くは続かないだろう。今のところ、確実に状況を打破できるような解決策は浮かばない。けれども、自分たちにできることを必死にやるしかない。
この美しい世界を絶対に守ると、蓮は心に誓った。
「良かったです。あの子、とても幸せそうで」
蓮と佐伯とはまた別の角度から、花摘みに勤しんでいる少女らを見つめている者たちがいた。岩崎は安堵の表情を浮かべ、優しく笑っていた。
「本当に良かったですな」
うんうんと首を縦にふり、岸田も微笑む。
「彼女のことは、我々が全力でお守りします」
「ありがとうございます」
ぺこりと会釈した岩崎を見て、岸田の胸の中に妙にもやもやとしたものが広がった。やがて違和感の正体に気づき、心の中で苦笑いする。
「どうか、されました?」
自分で思っていたよりも長く、考え事をしていたらしい。やや心配そうに見つめられ、岸田はぎこちない笑みを浮かべた。
「いえ、何でもないですよ」
言えるはずもなかった。ずっと前に別れた妻に、少し似ているだなんて。