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汚された箱庭  作者: 瀬川弘毅
2 猛虎の雄叫び
12/34

12 別れ

「なるほど。事情は理解したよ」

 腕組みをし、曽我部が束の間思案する。

「君は、自分がどのようにして能力者へ改造されたのかは覚えていないのだね?」


「はい。麻酔をかけられて手術台に乗せられ、気づけば終わっていました。一つだけ記憶に残っているのは、彼らが『動物の能力を人間に移植する』というような話をしていたことです」

 長机の手前に屈んだ人影が、神妙な面持ちで答える。


 どうやら軍の機密保持は徹底しているらしく、能力者の秘密については依然としてほとんど何も明らかになっていない。少し間が空いて、再び曽我部が口を開いた。

「本来、君の勝手な行動は許されうる類のものではない。しかしながら、今回のケースは結果オーライというやつだ。特殊部隊を退けることにも成功した上、奴らやスパイダーへの対抗手段となる能力者を一人獲得することができたのだからね。したがって、君のしたことについては特別に不問とする」


「寛大な処置に、感謝します」

 眼前に跪いた佐伯は、さらに深くこうべを垂れた。

「ただし、一つだけ心に留めておいてもらいたいことがある。能力者の力の原理が不明である以上、その力を身に宿すのはリスキーともいえる。二度とこんな危険を冒さないことを、私に約束してくれるかな」

「もちろんです」

 返答を聞き、曽我部が満足げに頷く。その後も短いやり取りを少し交わし、佐伯は討伐隊隊長のテントを出た。


「本当に心配だったんよ、佐伯君」

 待ち構えていた森川が頬を膨らませ、むすっとして詰め寄る。佐伯は一瞬狼狽の気配を見せたが、冷静に返した。

「結果的にお前たちを騙すようなかたちになってしまったのは、俺の落ち度だ。申し訳なかったと思っている」


「でも、うちらに少しくらい話してくれてもよかったんちゃう?」

 いまだ機嫌を直さない森川を見つつ、蓮は内心はらはらしていた。佐伯が戻ってきたのを皆で素直に祝うのだと思いきや、彼女による軽い取り調べが展開されている。隣に立つ井上も、表情を窺うに同じ心境のようだった。

「俺が本気で軍に入るつもりだと奴らに信じさせるためには、たとえ班の仲間であっても計画を話してはいけなかった。そういうことだ」

 生憎、佐伯の態度は取りつく島もない。森川は唇を噛み、ゆっくりと右手を上げた。

「馬鹿っ」


 パン、と高い音がした。平手打ちをしたのだ、と蓮が理解するには数秒を要した。井上も同じく唖然としていて、頬をはたかれた佐伯も驚きに目を見開いている。

 顔を赤く染め、森川はやや声を荒げていた。

「どうして全部一人で抱え込もうとしてしまうん。もっとうちらを頼ってよ」

「すまない」

 俯き、佐伯が静かに言った。簡潔な言葉の中に、沈んだ響きが内包されていた。

「俺たちに長い間秘密を隠していた和泉も、今や仲間を信じようとしている。俺はその姿を傍で見ていながら、本当は絆というものの大切さを理解していなかったのかもしれない。スパイダーを倒したいという気持ちが強くなりすぎて、自分を見失いかけていた部分があったかもしれない。許してくれ」

 自分のことについても少し言及され、蓮は何だか体がむずむずした。


「……分かってくれたんなら、ええんよ」

 急に自分のしたことを思い出して恥ずかしくなったのか、森川は真っ赤になってもじもじし始めた。本当に感情の変化の激しい奴だ、と半ば呆れてしまう。もっとも、そこが彼女の魅力でもあるのは事実なのだが。


「そうだ、和泉。お前にも謝っておかなければならないことがあった」

「何だよ、まだあったのか」

 不意に佐伯がこちらを向き、蓮は思わず背筋を伸ばした。

「買い物に慣れていないからと言って、お前に任務を押し付けたことがあったな。あれは嘘だ。隙を見て抜け出すためには、お前を欺く必要があった。許せ」


「お前なあ……」

 どうも馬鹿馬鹿しくなってしまい、蓮は苦笑するしかなかった。大体、少し考えれば話がおかしいことに気づけたはずではないか。母親に連れられてスーパーに来たことがない子供なんて、まずいない。一般的な基準より裕福な家庭で育った自分でさえ、それくらいはしたことがある。

 第十八班の四人は声を上げて笑い、佐伯との間に生じていた溝は完全に埋められた。その様子を陰で見守りながら、岸田はほっと一息をついた。

「何はともあれ、一件落着ってか」



 同時刻、政府軍司令室の扉は無遠慮に開け放たれた。扉を後ろ手に閉め、白人の男性がつかつかとデスクに歩み寄る。目は血走り、額には青筋が浮かんでいる。

 椅子に腰かけたままの日本人の男は、強張った表情で彼を見つめていた。

「和泉君、君には失望したよ」

 開口一番、ジェームズはため息交じりに漏らした。

「軍の特殊部隊を動員したにもかかわらず、君は脱走したサンプルの捕獲にことごとく失敗している。それだけならまだいいが、新たに引き入れた能力者にまで逃げられてしまった。このままでは、私たちの確立した人体の改造技術が流出する恐れがある」


「申し訳ございません」

 恐縮した和泉零二へ、ジェームズが冷ややかな眼差しを向ける。

「もういい。君に期待した私が間違っていたよ」

 流暢な日本語で紡がれる言葉は、政府軍の司令官を絶望させるのに十分だった。

「今後、軍の管轄下にない能力者の回収は我々『NEXT』が行う。君たち政府軍はもはや用済みだ」

 そう言い捨てて、ジェームズは足早に退出した。あとに残された零二は、体から力が抜けてしまったようだった。



「どういうことですか、司令」

 逃げるように歩き去ろうとする男の肩を、澤田はぐいと掴んで引き止めた。

「納得できません。確かに、今回の作戦が失敗に終わったのは俺たちの責任かもしれません。ですが、だからといって特殊部隊を解散するのは飛躍しすぎています」

 和泉零二はしぶしぶ足を止め、一応は部下の意見に耳を傾ける素振りを見せた。

「それに、特殊部隊の担う役目は、普通の人間に任せられるものではないはずです。俺たちがいなければ、一体誰が市民を……」

 なおも言いすがろうとする澤田を、零二は振り返らないまま手で制した。

「仕方のないことなのだ。私には、決定を覆す権限がない」


「何故です」

 肩から手を離し、澤田が鼻息を荒くする。今にも胸倉を掴みそうな勢いだが、さすがの彼も政府軍最高司令官に逆らう度胸は持ち合わせていなかった。代わりに、言葉でもって反抗する。

「あなたはこの国のトップに立つ人間だ。あなたに指図できる者などいない」


 しかし零二は何も答えず、軍施設の長い廊下を足早に歩いて行った。話は終わりだ、ということらしい。間もなく、その背中は見えなくなった。

 澤田の後ろに控えていた二名のうち、ピアスをした金髪の男の方が欠伸をした。右手に持った解雇の旨が記された通知書を、やけくそ気味にひらひらと振る。

「懇願するだけ無駄だったか」


「残念ながら、そのようですね」

 黒縁の眼鏡をかけた痩せた男も、暗い顔で同調した。二人を振り返り、澤田が沈鬱な面持ちで言う。

「特殊部隊が解散になり、俺たちはお払い箱にされた。司令の気が変わらない以上、新しい仕事を探して各々でやっていくしかあるまい。藤宮、松木……今まで、俺の下で働いてくれてありがとう」


「今生の別れってわけでもないのに、隊長は大げさなんだよ。これからもこまめに連絡を取って、困ったときは助け合おうじゃねえか。俺たち、仲間だろ」

 しんみりとしたムードを打破しようとして、藤宮は苦笑した。つられて、澤田と松木も微かに笑う。

「そうだよな。また、どこかで会えるさ」


 人生のほとんどの時間を軍の施設で過ごした者にとって、部隊から除籍されることは自身の人生を否定されるのに等しい。これから始まるであろう新しい生活を、彼らはまだ上手く想像できないでいた。普通の生活というものを、彼らは経験したことがない。

 けれども、しばしの別れは無情にも避けがたいものである。三人は名残を惜しみながら、誰からともなく別々の方向に散っていった。


 藤宮はジャケットのポケットに両手を突っ込んだ格好で、ふらふらと街をさまよっていた。軍にあてがわれていた寮も追い出され、今の彼は宿無しである。

 ポケットの中で、指先が紙切れに触れる。数日前に渡された、討伐隊のキャンプ地の位置が記されたメモだ。本来の予定では、これを元に奴らに大掛かりな奇襲を仕掛け、和泉蓮と佐伯雅也を回収するはずだった。だが、計画は急遽中止された。このメモに書かれている情報は、今や何の役にも立たない。


(あーあ。これからどうしたらいいんだ、俺は)

 物心ついたときから戦闘訓練に明け暮れ、戦いのみを生きがいにして生きてきた。軍に所属しているという事実が、彼のアイデンティティであったと言っても過言ではない。全てを奪われた今、藤宮には何の展望もなかった。

 割り切って考えて、早く第二の人生をスタートさせるべきだと頭では分かっているのだ。だが、やりたいことも特にないし、軍以外で自分が働いている姿が思い描けない。クビになった実感が湧かなかった。


 自分の他にも、多くの能力者が職を失ったはずだ。皆、今頃どうしているだろうか。

 あてもなく歩いているうちに、広々とした公園にたどり着いた。木のベンチに倒れるように座り込み、ショルダーバッグから取り出したミネラルウォーターを貪るように飲む。幸い、特殊部隊の一員として働いて貯めた金はまあまあな額になっていて、贅沢をしなければ数か月は暮らせるだけの金額がある。問題は、その後どうするかだ。


(澤田、松木……教えてくれよ、俺は一体どうすればいいんだ。俺にはもう何も残ってない。軍を辞めて、どうやって生きていけっていうんだ)

 ベンチに横になり、藤宮はため息をついた。今日の宿はどこにしようか。まさか、この公園に野宿するわけにもいかない。何とはなしに辺りを見回してみると、何組かの親子連れが公園内を散歩していた。彼らから見れば、自分は薄汚い浮浪者に違いない。自嘲気味な笑みを浮かべ、軽く上体を起こしてみる。


 よく観察してみると、その中に一組だけ他とは異なる雰囲気の親子がいた。三十代くらいの女性に連れられて、少女が歩いている。少女の年齢は中学生くらいか。

 中学生にもなれば思春期に突入し、親としょっちゅう喧嘩していてもおかしくない年頃だ。自分には家族と呼べる存在はいないが、藤宮にもそれくらいは分かる。そういう年代の女の子が母親と仲良く並んで散歩していること自体、やや不自然に思えた。しかも、今は平日の昼間だ。不登校の生徒でもない限り、この時間帯に中高生が出歩いているのはおかしい。


 親子の顔だちがあまり似ていないことも、藤宮の注意を引いた。いや、そもそも二人が本当に親子なのかすら怪しい。まるで何かから逃げているかのように、どこか怯えた様子だ。

 やがて彼女らは、公園の中央にある噴水の近くに腰かけた。近くのコンビニで買ったのだと思われるサンドイッチをビニール袋から取り出し、ベンチに座って食べ始める。こんなお粗末なピクニックがあってたまるか、と藤宮は思う。やはり、二人は訳ありらしい。少なくとも、ごく普通の家庭ではないのは確かだ。

 ちょうど藤宮の向かい側に彼女らは座っているのだが、こちらに気づいた様子はない。十メートルほどの距離があるのもその一因だろうが、二人ともがっついて夢中で食べている。久々に食事にありつけた、といった感じだ。いくつも置かれていたサンドイッチが、あっという間に平らげられる。


 そのとき、この場に馴染んでいない人物がもう一名現れた。

 上等そうな紺のスーツを着た男性が公園に足を踏み入れ、きょろきょろと一帯に目をやる。首筋に汗をかいているところを見ると、走ってきたらしい。しかし、ランニングのついでに立ち寄ったわけではなさそうだ。

 遊具で遊ぶ子供たちや、ゲートボールに興じるお年寄りたち。それらにざっと視線を向けたのち、彼は噴水の方を睨んだ。どうやら、目的の人物を見つけたらしい。


 そして藤宮の勘が正しければ、その標的とは先刻の不思議な親子である。男は迷いのない足取りで、真っ直ぐに彼女たちへ歩き出した。長期にわたり軍に所属していた藤宮には、彼の全身から殺気が放たれているのを痛いほど感じられていた。

 女性が男に気づき、小さく悲鳴を漏らす。立ち上がり、少女を庇うように前に進み出た彼女を、男は嘲るように見つめた。

 間が悪いことに、自分の目の前で面倒な事態が起きようとしている。関わり合いになれば、自分もただではすまないかもしれない。

 何も見なかったことにして立ち去る。それが最も安全で、かつ堅実な選択肢であるはずだった。


「よせ」

 だが藤宮は声を上げ、男を呼び止めた。怪訝な顔で振り向き、スーツの男性は藤宮を凝視する。

「何です、あなたは」

「俺が誰かなんてどうでもいいし、俺もお前が誰かなんて知りたくもねえ。でも、一つだけ言わせてくれ。理由がどうあれ、女性に手を上げるのは男として最低だぜ」

 堂々たる気迫で言い放ち、彼女らと男の間に割って入った。


 藤宮は、どちらかというとクズの部類に入る。命令に従っただけとはいえ和泉蓮を散々いたぶったりしてきたし、お世辞にも聖人君子とは言えない人格の持ち主だろう。けれども、彼には揺るぎない信念がある。自分が正しいと信じた目的のために、能力者としての力を振るう。弱い者が強い者に虐げられようとしているのを見て、素通りできるはずがなかった。仮にも彼は軍人で、力なき者たちを守るために戦ってきたのだから。


「邪魔をするのであれば、民間人とて容赦はしない」

 不幸にも、男は藤宮とは真逆の考えの持ち主らしかった。目がぎらぎらとした光で満ち、戦いに飢えた瞳が藤宮を睨む。

「『能力解放』」

 男がコマンドを唱え、同心円状に衝撃波が飛ぶ。藤宮は反射的に腕で顔を庇い、砂埃から目を守った。


(まさか、こいつも能力者だったとはな。特殊部隊の仲間にこんなのがいたとは聞いてねえが……)

 視界が明瞭になると、そこには背中から猛禽類の翼の伸びた獣人が立っていた。けれども、その他の身体的特徴はおおよそ鳥類とはかけ離れている。茶色い毛に包まれた筋肉質な肉体を誇る能力者は、威嚇するように吠えた。ようやく騒ぎに気づいた親子連れたちが、我先にと公園から逃げていく。辺りはちょっとしたパニックに陥っていた。


「逃げるんだ」

 藤宮は首だけで後ろを向き、女性に囁いた。恐怖におののいている彼女は、こくこくと頷くばかりであった。少女の手を取り、駆け出そうとする。

 ふと思いついて、藤宮はポケットに片手を突っ込んだ。取り出した紙片を女の手に握らせると、彼女は戸惑ったようにこちらを見上げた。

「市街地は軍の監視下に置かれていて、安全とはいえない。ここに書いてある場所に向かえ。そこなら、あんたたちを守ってくれる人がいるはずだ」

 軍で働いた経験が、こんなところで活きるとは思いもよらなかった。女性は無我夢中でもう一度首を縦に振ると、少女と共に走り出した。


「待て」

「させるかよ」

 彼女らを追おうとした男の進路を阻むように、藤宮が立ちふさがる。

「『能力解放』!」

 普通なら人目につく場所で能力を使うことは禁じられているが、軍を辞めた今となってはどうでもいいことだ。一瞬にして狼型の獣戦士へと変身を遂げた彼は、挑むように男を見据えた。灰色の毛並みが風になびく。男はしばし苛立たしげに藤宮を見つめ、どうしてくれようかと考えているようだった。


「私は、彼女たちを捕らえるよう命令を受けているんです。君も同じ能力者なら、分かるのではないですか。邪魔をしないでいただきたい」

 意外にも、相手の態度は紳士的だった。なるべく争いたくはない、とのニュアンスを言葉の端々から滲ませている。もちろん、素直に応じる藤宮ではなかったが。

「命令を受けているだと?特殊部隊はもう解散したのにか?」

 それを聞き、男は瞬きを何度かした。彼の回答は、藤宮の意表を突くものだった。

「何か勘違いをされているようですが、私は軍の指揮系統には所属していません」


「何……? だったら、お前はどこの派閥に属してるんだ。何の目的で彼女たちを狙う」

 軍に所属していない能力者がいるなど、聞いたことがない。藤宮には、彼の正体についてさっぱり見当がつかなかった。


「それ以上はお答えしかねます」

 不意に、男の眼に殺気がみなぎった。翼を大きく広げ、太い脚で大地を蹴り飛ばす。

「これ以上は話しても無駄でしょう。あなたは同じ能力者であっても、所詮は旧世代。私と分かり合えるはずもない」


 物凄い勢いで突進してきた男を、藤宮は横に跳んで辛うじて躱した。翼の生み出した推進力が爆発的なエネルギーとなり、松木が得意とするタックル攻撃以上の破壊力を生み出している。まともに喰らえば致命傷になっていただろう。しかし息を荒げながらも、藤宮は闘志を失わなかった。体勢を立て直し、怯むことなく叫ぶ。

「何をわけの分からないことを言ってやがる。旧世代だが何だが知らねえが、あの人たちを傷つけることは俺が許さない!」

 両者は一歩も譲らず、したがって衝突は避けられなかった。


 男は立ち止まらず、さらにもう一度地面を蹴った。体が地面から浮き上がり、飛翔する。まともに藤宮の相手をするよりも、ターゲットの追跡を優先したいらしい。舐められているように感じて、藤宮は苛ついた。

「逃がすか」

 視界に入ったジャングルジムに駆け上り、それを踏み台代わりに大きく跳躍する。高く跳び挙がった藤宮は、能力者の男の右足にしがみついた。そして顎を開いて牙を剥き出しにし、大腿部に容赦なく噛みついた。


「ぐうっ」

 鮮血が噴き出て、痛みに呻いた男が姿勢を崩す。飛行する軌道が不安定になり、ゆっくりと落下するパラシュートのようにふらふらと上空を漂った。藤宮がさらに深く牙を突き立てると、男の唸り声はますます大きくなる。藤宮を振り落とそうと足を前後に振っているが、食い込んだ鋭い歯と爪はそう簡単には外れない。


 やはり自分の読みは当たっていたらしい、と藤宮は心の内でほくそ笑んだ。この男は、鳥類の力を持つ能力者。おそらくは飛行能力に特化した、追跡向きの個体だろう。筋力だけを見れば、狼の能力を使える自分より劣るはずだ。いくら飛行能力が高くとも、地面に引き摺り下ろして接近戦に持ち込めば十分に勝機はある。


「仕方ない。そろそろ本気を出させてもらいますよ」

 しかし、男はさほど動じた様子もなく、明日の天気の話でもするかのようなのんびりとした口調で言った。やけに冷たい風が吹いた気がして、藤宮の全身の毛が泡立った。

「能力者同士で争うのが有益な選択肢だとは思えません。ですが、あなたがどうしても私の任務を妨害したいのなら……全力で排除するのみです」


 刹那、喰らいついている脚部に凄まじい力が満ちるのを感じた。腹部に強い衝撃が走り、体がくの字に折れ曲がる。無理矢理に足から引きはがされた藤宮は、ビルの外壁に思い切り叩きつけられた。割れた窓ガラスの破片を全身に浴びながら落下し、アスファルトに激突する。

 何が起こったのか分からないまま、ただ激痛だけを感じていた。居合わせた通行人たちが藤宮を見て悲鳴を上げ、青ざめた顔で一目散に逃げていく。たちまち人気のなくなった歩道に、彼は力なく倒れていた。自分の体の下に、真紅の血だまりが形成されつつあるのが分かる。口の中は血の味でいっぱいで、牙を何本か折られている。腹部からは耐えがたい痛みが押し寄せてきていて、内臓を潰されたかもしれないと思う。


 あの男は空いた左足を使って、右足に喰らいついていた自分を蹴り飛ばしたのだ。その威力は想像を絶するほどのものであり、肉の奥深くまで刺さっていたはずの藤宮の牙と爪を衝撃で引きはがした。

 藤宮がようやく状況を把握したとき、男は彼の目の前に降り立った。翼を畳み、筋肉の発達した両脚でアスファルトを踏みしめ、横たわる藤宮を笑って見下ろす。

「もし私にそなわっている力が鷹の飛行能力のみであったのなら、だいぶ手こずっていたでしょう。残念ながら、私は馬に由来する脚力も持ち合わせている。普通の人間の頭蓋骨程度なら、一撃で粉砕できるキック力をね」


「……馬鹿な。二つの動物の能力を、同時に宿しているだと⁉」

 息も絶え絶えに言った藤宮に、男は嗜虐的な笑みを見せた。

「そう、それこそが旧世代と新世代の力の差。私たち第二世代の能力者は、複数の生物の力を組み合わせて使用することができる」 

 そして左足を振り上げ、無抵抗な藤宮の脇腹を強く蹴った。悶えながら歩道を転がる狼の獣人に、スーツ姿の男は憐みのこもった視線を向けて問うた。

「あの二人はどこへ逃げたんです。答えるのなら、命だけは助けてあげましょう」


「どうせ、答えても口封じに殺すんだろ」

 肩で息をし、口から溢れる生温かい血をしきりに手で拭いながら、藤宮はごく小さな声で答えた。残された力を振り絞って上体を起こし、男を睨みつける。

「俺は少なくとも、武装した兵士としかやり合ったことがねえ。だがあんたは、丸腰の女子供を襲っている。それは俺たちの流儀に反する。どんな理由があって彼女たちを付け狙っているのかは知らないが、あんたのやろうとしていることに協力するわけにはいかねえな」


「……残念です。もう少し、懸命な返答を期待していたのですが」

 男は大げさにため息をついた。次の瞬間、革靴の踵が歩道をとん、と軽く蹴る音がした。

 朦朧とし始めた意識の中、藤宮は咄嗟に腕で頭を庇おうとした。


『残念ながら、私は馬に由来する脚力も持ち合わせている。普通の人間の頭蓋骨程度なら、一撃で粉砕できるキック力をね』


 それは、先刻のこの台詞が脳裏をよぎったからに他ならない。

(俺に残された力はほんの僅かだ。こいつを倒して、生きてこの場を離れるのはほとんど不可能と言っていい。だったら、せめて一秒でも長く時間を稼いでやる。致命傷を避けて少しでも奴を引き止めて、あの親子が逃げ延びる時間を……)

 彼の思考は、ゴキン、という嫌な音で中断された。否、終了された。静まり返った街に、乾いた笑い声が反響する。


「愚かな。さっきのは単なるたとえですよ。頭部を狙うより、もっと確実に獲物を仕留める方法があります」

 男が勢いよく繰り出した右足は、藤宮の首筋にめり込んでいた。首の骨が砕かれ、間もなく呼吸が止まる。崩れ落ちた藤宮には目もくれず、男は足を下ろすと胸ポケットから携帯端末を取り出した。


「もしもし、私です。目標を追跡中、軍に所属していた能力者の邪魔が入りました。……ええ、見失いました。申し訳ありません。……はい、捜索対象のエリアを広げ、引き続き探します。できればヘルプを呼んでいただけるとありがたいです。……はい、それでは」

 事務的な連絡を終えると、男はさっさと通話を終了した。端末をポケットに戻し、うつ伏せに倒れた藤宮を一瞥する。

「最期にこのペガサスと戦えたことを、少しは光栄に思って下さいね」


 反応がないのを訝しみ、体を屈める。顔を覗き込み、脈をとった。

「おや、もう死んでしまいましたか。死体の処理が面倒ですね」

 歌うように言って、ペガサスと名乗った男は立ち上がると、どこかへと歩いて行った。


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