10 裏切り
突き出された右と左の拳がぶつかり合い、強い振動が両者の体を揺らす。僅かに競り負けた澤田は、衝撃で数歩後退した。
(覚醒したばかりにしては、相当な強さだ)
内心驚きつつ、相手の方を見やる。蓮は彼から数メートル離れた位置に立っており、地面を蹴り、こちらに向かって突進してきた。
百獣の王と謳われるライオンに由来する力を持つターゲット、和泉蓮は、近接戦闘において高い能力を発揮する。討伐隊に入隊して訓練を受けることで体が鍛えられ、彼が本来持っていた力がさらに強まったということか。
しかし、澤田とて長年に渡り戦闘訓練を受けている。能力に目覚めたばかりのひよっこに、勝ちを譲る気はなかった。
蓮の放った右フックを、澤田が上体を後ろに反らして避ける。カウンターで左脚を蹴り上げ、蓮の腹部を狙った。
後ろに跳んでそれを躱すと、蓮は再度澤田に飛びかかった。両手から伸びる太く鋭い爪を振りかざし、熊の姿をした獣人の顔面を切り裂こうとする。
頭部を守ろうと、澤田が腕をクロスさせて上に構える。厚い筋組織に覆われたそれを引き裂くのは、たとえ大型のチェーンソーを使っても骨が折れたかもしれない。
だが、蓮はその動きを予測していた。左手を前に出すフェイントで相手を牽制し、爪で襲いかかると思わせる。澤田が両手で防御姿勢をとり胴体ががら空きになった隙に、蓮は空中で身を捻って体の向きを変えた。回転の勢いを加えた膝蹴りを胸に叩き込むと、澤田は小さく呻き声を上げて後ずさった。
「やるな」
すぐに体勢を立て直し、澤田が呟く。
「俺一人では手こずったかもしれない」
蓮は追撃を加えるべく機会を窺っていたが、その言葉の意味するところを察して冷静さを取り戻した。仲間を連れ戻さなければという使命感に突き動かされるあまり、周りを見失いかけていたのだ。
さっと辺りを見回すと、軍服を着た数十名の男女が徐々に蓮たちの方へ近づいてきていた。佐伯の身柄を軍に引き渡し終えたのか、その中には藤宮と松木の姿もある。アサルトライフルで武装した彼らは、一斉に銃口を蓮の方へ向けた。スパイダーではなく、人間を効率的に殺すための武器だ。射撃時に大きな反動を受けることなく、スムーズに標的を仕留められる。
悔しいが、多勢に無勢だ。このまま戦闘を続行すれば、自分に勝ち目はない。そもそも、たった一人で敵のテリトリーに踏み込むこと自体無謀だったのかもしれない。
蓮は唇を強く噛み、軍人たちに背を向けた。そして高く跳躍し、軍のビルを囲っている塀を飛び越えた。
ついさっきまで彼が立っていたところに銃弾が撃ち込まれ、アスファルトを穿つ。
(やっぱり、俺一人の力じゃどうにもならない。一旦引いて、班長たちに相談すべきだ)
変身を解いて元の姿に戻ると、蓮は佐伯を追って今来た道を全速力で駆けた。幸い追手は諦めたようだったが、撤退には苦い屈服の味が伴った。
コインパーキングに停められた車の前で、第十八班は集合していた。どうにか全員に無線で連絡することに成功した蓮は、状況を説明して皆に集まってもらうことにしたのだ。
「そうか、そんなことが……連絡に気づくのが遅くなって、すまなかった」
岸田は本当に申し訳なさそうな顔で、そう言った。なお、彼が酒を飲みながらホステスらと遊んでいたことは、今や周知の事実となっている。蓮が軽く問い詰めてみたところ岸田自ら白状し、森川と井上から白い目を向けられたものだ。
とはいえ後の祭りなので、とやかく言わないことにした。それに、カラオケを楽しんでいた彼女たちも同罪である。問題は、これからどうするかだ。
「和泉の話によれば、佐伯がいる場所は中規模以上の政府軍の拠点だ。俺たち四人で突破できるような代物じゃない。ひとまずキャンプ地に戻って、お偉方の意見を聞くしかないだろう。幸か不幸か、買い出しは終わっているようだしな」
岸田の決定に納得がいかなかったのは、蓮だけではないらしい。森川は不服そうに頬を膨らませているし、井上も自分たちの無力さを感じて目を伏せているように見える。
かといって、他に方策があるわけでもない。四人はほとんど会話を交わさないまま車に乗り込み、街を後にした。
班員が一人欠けた車内は、ぽっかりと空洞が空いてしまったようだった。虚無から隙間風が吹き込んできて、皆の心を寒々としたものにした。
「君の班の隊員が、軍の施設に?」
報告を受けて、曽我部は眉をひそめた。テーブルを挟み、彼と対峙して座った岸田は、神妙な面持ちで頷いた。
「はい。何故彼がそんなことをしたのかは、全く分かりませんが」
「佐伯雅也君、だったか」
デスクからファイルを取り出し、曽我部はパラパラとページをめくった。やがて該当の箇所に行きつき、ページを繰る手を止める。
「経歴を見る限りでは、彼が政府軍側に与する動機はない。むしろ、私たちに加わる理由の方がずっと多い―佐伯君の両親は、スパイダー絡みの事件で亡くなられているようだ。もっとも、記載内容が正しければの話だがね」
そう言うと書類から視線を微かに上げ、曽我部は人の悪い笑みを浮かべた。和泉蓮が自身の過去を偽っていたことを、暗に指しているのだろう。岸田は気づかないふりで通した。
「彼が何を考えているのかは分からないが、私としては政府軍とむやみに対立することは避けたい。いくら班員を救出するという大義名分があっても、戦力面で勝る相手に喧嘩を売るような真似は回避しなければならないのだよ」
しかし表情を変えずに続けた曽我部に、さすがの岸田も異を唱えずにはいられなかった。
「ですが佐伯が尋問され、我々の情報を喋らされるということも考えられます。最悪の事態を避けるには、多少のリスクを冒してでも彼を助け出すべきかと考えます」
「多少のリスク? いや、違う。多少どころではない」
曽我部は首を振った。
「君も、政府軍の特殊部隊と戦ったことがあるだろう。彼らの強さは尋常ではない。それに加え、軍はより人数の多い通常部隊も各地に配属している。特殊部隊に対抗するのでさえぎりぎりであるのに、さらに大勢の軍人を敵に回してどう戦えと言うのかね」
言葉に詰まった岸田に、曽我部は畳み掛けるように言った。
「一人の人間の命を救うためにそれよりずっと多くの人間の命を危険に晒すなど、愚か者のやることだ。第一、新入りの彼がさほど重要な情報を握っているとは思えんよ。尋問を受けたとしても問題なかろう。佐伯君は自ら望んで施設に足を踏み入れたのだし、自業自得ともいえる」
取り付く島もないとは、まさにこのことである。がっくりと項垂れて、岸田はテントから出た。
なかなか眠れなくて、蓮は何度も寝返りを打った。正確には、寝袋の中でもぞもぞと動いた。
落ち込んだ様子で帰ってきた岸田によれば、佐伯を救出する作戦は許可されなかったらしい。政府軍と一戦交えるだけのリスクを冒してまで実行する意味がない、と判断されたそうだ。
確かに、曾我部の考えは正論なのかもしれない。だが、大切な仲間の行方が知れなくなっているのに何もしないというのは人道的にどうなのか。考えているうちにもやもやとしてきて、目が冴えてしまう。
瞼を薄く開けると、隣に並ぶ空っぽの寝袋がやけに寂しかった。佐伯は今、どこで何をしているのだろうか。まさか、本当に政府軍に寝返るつもりなのか。
「蓮君、起きとる?」
出し抜けに外から声を掛けられて、蓮は驚いて跳び上がりそうになった。
「森川、おどかすなよ」
「ごめんごめん、許してや」
するり、と猫のような身のこなしで、森川は音もたてずにテントの中に入り込んだ。悪戯っぽい笑みを浮かべた彼女を、蓮は若干の戸惑いを感じつつ迎えた。寝袋から抜け出し、向かい合って座る。手元に置いてあったランプの灯りを点けると、お互いの顔がぼんやり見えるくらいの明るさにはなった。
「佐伯君がいなくなっちゃって、蓮君が寂しがってないかなって思ったんよ」
からかうような口調に一瞬合点がいきかけたが、妙な感じもする。本当にそれだけの理由で、夜中にわざわざ異性のところまで忍んでくるだろうか。いかがわしい妄想を頭から振り払い、蓮は答えた。
「そりゃ、もちろん寂しいよ。急なことだから訳が分からなくて」
「そうよねえ」
森川はしばし考え、ふふっと笑った。
「じゃあ、うちが寂しさを埋めてあげる」
真意を問う暇もなかった。ささっと蓮の横に擦り寄った彼女は、寝巻の袖をぎゅっと掴んで離さない。たちまち蓮は赤くなってしまった。父に私生活を厳しく管理されて健全に育った彼は、この手のことには疎いのだ。
「お、おい」
「なんてね、冗談よ」
ぱっと体を離し、森川が可笑しそうに笑った。
前々から思ってはいたのだが、どうも自分は彼女に軽く見られているような気がしてならない。時折こうやっていじられたり、やや上から目線で説教じみたことを言われたりする。姉と弟のような関係性といえば分かりやすいだろうか。この辺で一つ仕返しをしてやるのも面白いかもしれない、とふと思った。
ほんの数秒だけ真顔になり、ぼそっと言う。
「あんまりふざけてると、本当に押し倒すぞ」
全くのハッタリである。しかし、森川には効果抜群だったようだ。絶句した彼女はたちまち頬を真っ赤に染め、あたふたして後ずさった。背中にテントの壁が当たり、それ以上下がれなくなる。悪ノリした蓮が少しだけ近づいてみせると、森川は何かを観念したようにぺたんと座り込んだ。
「ううっ……ごめんなさいっ」
目の縁にうっすらと涙を浮かばせている彼女を見て、さすがにふざけすぎたかと蓮は反省した。
「やるわけないだろ。嘘だよ、嘘」
森川は目をぱちくりさせ、次の瞬間さらに赤面して喚いた。細い腕で体を抱えるようにして、羞恥の表情を露わにしている。
「れ、蓮君の馬鹿! あほ! 変態! ……もう少しで信じてまうところやったやん」
「てか、さっき信じてたよな」
「…蓮君って意地悪なん?」
むうっと頬を膨らませた彼女は、何ともいじらしかった。平謝りに謝ると、森川はようやく機嫌を直したらしい。咳払いを一つし、口を開いた。まだ顔は火照ったままだ。
「話を戻すんやけど、佐伯君が何で軍の施設に向かってたのか心当たりはない?」
そうか、と蓮の脳内で閃くものがあった。彼女が今夜押しかけてきたのは、他愛のないお喋りをするためでも、無論蓮をからかうためでもない。佐伯の身を案じ、今回の事件の背景を探るためだ。最も彼の側にいて、なおかつ接点の多かった自分なら、何か知っているのではないかと思ったのだろう。
だからこそ、森川の期待を裏切るようで申し訳なかった。佐伯に配慮して詳細は省き、要点のみを話す。
「ごめん、実を言うと俺にも全然分からなくて。あいつは過去に色々あって、誰よりもスパイダーを憎んでるはずなんだ。なのにどうして軍に味方したのか、思い当たる節がない」
「そっかー」
ちょっぴり残念そうに微笑んで、森川は誰も使っていない寝袋に目をやった。
「佐伯君、どうしてしまったんやろ」
その眼差しは紛れもなく、本気で誰かを心配し思いやっている人のものだった。
蓮は改めて、自分たちが強い絆で結ばれていることを実感した。もし佐伯が軍に移籍したとしたら、きっと班員の誰も彼を撃つことはできないに違いない。
なお、その頃テントに残された井上は、森川がなかなか戻ってこないのでそわそわしていた。もしや何かいかがわしいことが進行中なのではと思うと、一人で寝ることもできない。
(大丈夫だよね。佐伯君も綾音ちゃんも、いつか必ず帰ってくるから)
自分に言い聞かせるようにして、無理矢理に目を閉じる。その数分後には、森川は戻ってきていた。
佐伯の失踪から二週間が経った。
その後彼がどこで何をしているのかは、いまだにはっきりとしていない。鬱々とした気分で訓練に励む日々が、単調に過ぎていった。皆、なんとか空気を明るくしようと努めているが、どこか空回りしている風でもあった。
その日の岸田も、いつもに増してやる気がなさそうであった。
「すぐに出発するぞ」
テントの入り口の隙間から朝日が差し込んできた頃、蓮は彼に声を掛けられて跳ね起きた。寝巻のまま外に出て、尋ねる。
「スパイダーですか?」
「ああ。小型のが一匹、街に降りてこようとしてる。以前から目撃情報が相次いでいた賞金首だから、凶暴性は高いだろうな。地上で暴れられる前に倒すぞ」
賞金首ということはすなわち、人類への脅威として駆除せざるを得ないと政府軍が認めた個体だということだ。つまり、今回の討伐対象は既に犠牲者を出している。どうやら事態は一刻を争うらしい。
友のことが気がかりなのはやまやまだが、今は人命救助が最優先だ。蓮は急いで準備を整え、仲間たちと共にトレーラーに乗り込んで出撃した。
気づまりな沈黙の中、第十八班は仕切りで区画された車内の隅に座っていた。クッションに腰を下ろし、ライフルの手入れ等をして時間を持て余す。
銃身を布で拭いていると、岸田が立ち上がり車両前方へ歩き出した。班長同士での打ち合わせがあるのだろう。
監視の目がなくなった瞬間、森川が見るからに嬉しそうな顔をした。銃を床に置き、大きく伸びをする。
「今日の相手には賞金が懸かっとるみたいやね。腕が鳴るわ」
普段の彼女らしくない物言いだった。これはあくまで、人の命を守るための真剣な戦いなのだ。賞金はその結果手に入る副産物的なものに過ぎない。いくら家計を支える立場だからといって、さすがに不謹慎なように思えた。
しかし、発言をスルーするわけにもいかない。どう反応すべきか蓮が躊躇していると、井上が森川の迷彩服の袖をちょいちょいと引っ張った。慮るような眼差しで、静かに言う。
「綾音、無理しなくてもいいよ」
いつ頃からか、二人は互いを呼び捨てにするようになっていた。打ち解けた証拠だろう。しかし、この時の彼女の台詞には若干の冷たさが付随していた。
「えっ?」
きょとんとして問い返され、井上は緊張した面持ちでなおも続ける。
「佐伯君がいなくなってから、班のムードメーカーとして頑張ってるのはすごいと思う。けど、何だか私、側で見てて辛いの。たまには、自分の気持ちに素直になってみてもいいんじゃないかなって」
「……何なん、それ」
張り詰めた空気を震わせるように、森川が絞り出した。不穏な気配が漂う。
「渚は何も分かってない。あれ以来、うちがどれだけ皆のためを思って振る舞ってきたか知らないやろ。人の苦労も気遣いも知らんのに、適当なこと言うのはやめてほしいんやけど」
一気にまくし立てた森川に気圧され、井上の華奢な身体がびくっと震えた。このままでは喧嘩に発展しそうな勢いだ。さすがにまずい、と蓮は思った。
「二人とも、落ち着いてくれ」
まあまあ、と間に割って入ると、森川は我に返ったようだった。
「ごめん、うち、カッとなって……」
出し抜けに腰を上げ、天井から吊るされた薄いカーテンをくぐって通路の方へ小走りに向かう。俯いていて、その表情は読み取れなかった。
残された井上は、今にも泣き崩れてしまいそうな様子だった。
「ごめんなさい。私が余計なことを言ったから」
嗚咽交じりに言う彼女の背を、蓮は優しくさすってやった。逆に言えば、それくらいしかできることが思いつかなかった。何と言葉をかけるべきか、咄嗟には正解が分からなかったのだ。
「私、デリカシーないのかな。私が駄目だから、今まで学校でもいじめられたのかな」
「それは違う」
否定は反射的なものだった。そこには何の根拠も伴わず、蓮は自らが口にした台詞の薄っぺらさに嫌気がさした。事実、蓮は彼女の過去をごく大雑把にしか知らない。
「……もう私、消えてしまいたい」
それでも、井上を励ますためにできることをやるだけだ。消え入りそうな声で言った彼女の肩を、蓮は目を覚まさせようとするように掴んだ。井上がはっと顔を上げる。
「そんなこと言うなよ。井上のいるべき場所は他でもない、この討伐隊だろ。今はちょっとぎくしゃくしてるけど、いつかまた前みたいに笑い合えるようになるさ」
「そうだよね……ネガティブなこと言っちゃってごめん。あとで、綾音に謝っておくから」
白く細い指で目元を拭う仕草をしてから、彼女は儚い笑顔をつくった。
ああそうか、と蓮は気づいた。無理をしているのは、何も森川だけではない。井上も自分も、それに岸田だって多かれ少なかれ陽気に振る舞おうと努めているのだ。
井上には楽観的な意見を言ったものの、自分自身、第十八班が以前のような関係に戻れるかどうかは正直分からなかった。佐伯は誰よりも熱心に訓練に取り組み、班員を引っ張るリーダー的存在だった。口数が少なく愛想も悪いが、彼を心の中で尊敬していない者はいなかったに違いない。
その彼が欠けた今、第十八班は歯車の数が決定的に足りない機械装置のようだった。