Ⅵ
「行ってきます」
昨日と同じように玄関先で声を掛けてから、エイは家を出る。昨夜はあのまま寝てしまったので、エイは朝一でお風呂に入らなくはいけなかった。普段では考えられない時間帯に起きたが、お風呂に入り気持ち的にはさっぱりしている。毎朝、女子がシャワーに入りたがるのにも頷けた。
かといって、それを毎日続けるほど、エイは人目を気にはしていない。やはり、風呂は1日1回入れば十分だと思っている。それも、夕方か夜がベストだ。身体が垢塗れのまま、ベットに入るなど、あまりやりたくない経験だ。
信号を渡り、大通りを歩いていると、ふと視界の端――通学路から離れた路地――に、普通の通学風景に似つかないものが目に入り、足を止める。
複数の生徒が、1人の生徒を囲い、何か話し掛けている。全員、自分と同じ学ランを着ているので、同じ学校の生徒だと分かったが、何か変だ。
(普通に登校しているだけ、何だよな?)
1人の生徒は黒髪を肩まで無造作に伸ばし、眼鏡が似合いそうな物静かな少年で、周りにいる生徒たちは、少年の雰囲気とは似ても似つかないようなチャラけた服装の少年たちだ。
学ランの前は肌けさせて、金色のネックレスを下げワイシャツをだらしなくズボンから半分だけ出している。あれが今流行の着崩しというものなのだろうか。はっきり言ってダサい。
エイは違和感の元が、そこにあるのに気付き、生徒たちを鋭く見据えた。
物静かな生徒はただひたすら本を読み、チャラけた周りの生徒たちは楽しげに笑っている。否、楽しげではなく嘲笑だ。本を読んでいる生徒が表情一つ変えないでいると、周りにいた生徒の1人が、別の生徒に顎をしゃくって見せる。
(マズイ!)
そう思ったと同時に、エイはほぼ反射的に動いていた。鞄が自分の手から擦り落ちたが、それを拾っている暇は無い。地面を強く蹴り、エイは複数の生徒と本を読んでいる生徒の間に割って入り、拳を喰らった。
「うばっ!」
「……あ」
「は?」
左頬を殴られ、エイは地面に尻餅をつく。殴った生徒は呆然とし、我関せずとしていた周りの生徒たちからも注目を浴びた。
「いってぇ……。最近、よく殴られるなあ」
昨日のマサの事もあり、運のボルテージが下がってきているのかもしれないと少し非現実的な事を考える。運など、という曖昧なものを信じていては、人間成長しない。本当にできる人間は運ではなく、実力で己を高めていくものだから。
エイは頬を擦りながら、軽口を利いて痛みを知られないようにした。やはり女の子と違い、男子の力はかなり強い。昨日はすぐに痛みが引いたのに、今は顎や歯茎まで痛みを波紋のように顔中に広がっている。口元を手の平で隠し、指先で流れ出そうになる涙を擦って落とした。
「何だ、お前」
「偽善者が」
興が冷めたのか複数の生徒たちは口々に吐き捨てて、その場を去っていった。集まっていた視線の数々も減り、エイはホッと溜息を吐き、胸を撫で下ろしながら苦笑した。
(偽善か……)
自分もそう呼ばれるようになったかと思うと感慨ものだ。1年前までは、我関せずといった野次馬の1人だった自分が、まさか輪の中心に入る事になるなど、夢にも思わなかったことだ。そのせいか偽善と悪態を吐かれても、不思議と心地良い想いしか残らず、エイは自分の手を握ったり開いたりして、今の感覚を忘れないように胸に刻みつけた。
先ほどまで絡まれていた物静かな生徒は本からチラリとエイの方を見たが、すぐに視線を戻し、何事も無かったかのように歩き出した。
「ちょっと、待ちなさいよ!」
聞き覚えのある声が、本を読んでいる生徒の足を止めた。
「マサ!」
マサは、エイが落とした鞄を持ってズカズカと音を立てて、本を読んでいる生徒の前に立ち、人差し指で彼を指した。
「英君は、アンタを助けたのよ! お礼くらい、言いなさいよ!」
本を読んでいる生徒は、本から顔を上げてマサの顔を見ると、次に首を傾げた。
「……どうして?」
「どうしてって、助けてもらったらお礼を言うのが筋ってものじゃないの!」
「助けてなんて、言っていない」
「なっ!」
「それに君、うるさい。騒がしい人や、うるさい人は嫌いだし、何よりも」
再び本に視線を落とし、はっきりとした口調で言い切った。
「僕に関わらないで」
マサはあんぐりと口を開き、物静かだった生徒の背中を見送った。
「あ、あの……。マサ?」
恐る恐る腕を伸ばしてみるが、その直後にマサの怒りが爆発した。
「何なのよ! あの、根暗人間は! 人に助けてもらっときながら、助けてって言っていない? 人をうるさい呼ばわり? 挙句の果てには関わるな? マジ、ふざけんじゃねえ!」
「……あぁ、マサ。取りあえず落ち着いて」
捲くし立てるように暴走するマサを、エイは口端を引き攣らせながら、肩を叩いて宥めた。
人は本当に見掛けによらない。
黙っていれば、マサはモデルのような顔と体格を持つ文字通りの美少女だ。それが口を開けば、その辺にいる女子中学生と変わらない言動で、女子の口からは聞きたくも無い荒々しい言葉を吐いたりする少女になる。
エイからすれば、女性とは元気で明るく優しさに満ち溢れたものだ。
(……まあ、マサも、元気すぎるほど元気で、うるさ過ぎるほど明るくて、他人に手を貸してあげる優しさはあるけど)
並ぶ言葉が酷似していても、エイの中の理想の女性像と微妙に食い違う。言うだけ言って、すっきりしたのか、マサは深く息を吐き出して項垂れた。
「そろそろ、行かない?」
「……ん」
「それと、昨日は悪かったな」
「え?」
「何か、知らない内に怒らせちゃったみたいだから」
エイは後頭部を撫でながら空笑いすると、マサの顔が一瞬の内に赤くなり、顔を背けられてしまった。謝って許してもらえるというのは甘すぎたのだろうか。
「えっと、マサ?」
「……私も、悪かった。その、八つ当たりだから、気にしないで」
「ああ。分かった、気にしない。だから、今年もよろしくな」
同じクラスになったからには、仲良くしていたいと思うのが心情だ。エイの想いが届いたのか、マサはバッと身を翻して、満面の笑みを向けてくれた。
「うん。よろしくね」
マサが手を差し出してくれたことに、エイは心の底からホッと息を吐いて笑みを返した。