Ⅲ
「ただいまー」
返事をする者がいないと分かっていても、つい口にするのは幼い頃からの習慣のせいだろう。脱いだ靴を下駄箱にしまい、靴下のまま廊下を行く。
途中、台所に寄り棚からガラスのコップを取り出し、冷蔵庫からは麦茶を出してコップに注ぎ、一気に飲み干した。
「ふうぅぅぅ……。疲れた」
コップを流し台に置き、身体を反転させて流し台に凭れながら天井を仰いだ。今日は入学式だけで、特別な事は何一つしていないはずなのに、身体全体に蓄積する疲労感は何なのだろうか。
「部活。入った方がいいのかな、でもなぁ」
中学校時代は、私立の学校だったこともあり、その数は実に20に近く、同好会も含めると実際は30前後はあった気がする。
その中でエイが所属していたのは、吹奏楽部。楽器はトランペットだ。
何故、そこに入りその楽器を選んだのか。思い出すだけで胸を中心に身体が熱くなる。
「あれが、俺の人生の別れ目なんだよな……」
「な~に、一人でアンニョアしてるの? 兄さんは」
「うぉう!」
思わず、両腕を上げて飛び下がり変な奇声を上げてしまった。驚かせた当人は、その自覚が無く、変な行動を取ったエイを半眼で見上げて呆れ返っている。
「何してんの?」
「お、お前なぁ。帰ってきたら、ただいまくらい言えよ」
「だって、兄さんが先に帰ってるとは思わなかったんだもん」
自分は悪くない。言葉の中に意味を込めて、無い胸を張るサキに、エイは溜息を吐くことしかできなかった。彼女の説教は母親に任せるしかない。
エイはもう一杯、麦茶を飲もうと、流し台に手を伸ばしたが、何も掴めなかった。
「あれ?」
振り返り流し台を見ると、そこには水桶用のタライしかない。
「どうし……てええぇぇぇぇっ!」
左右を見回して目に入ったのが、美味しそうにコップに麦茶を入れ直して飲んでいるサキの姿だった。
「ん。美味い!」
「美味い、じゃねえよ! それ、まだ洗ってねえし!」
「まあ、細かいことは気にしない方がいいよ」
「いや、気にしろよ!」
いくら兄妹とはいえ、一応エイも年頃だ。色々な面々で、中学の頃とは違う感性を持ち始めているというのに、対するサキの方は、まだそう言った感性が備わっていないのか、自分が何をしていたのか分かっていない様子だ。
普通、中学生くらいから、異性に対する感情が芽生えてもおかしくないはずなのに、サキは色々な面で遅れている。
エイはなんとも言えぬ気持ちを溜め息と共に深く吐き出して、気持ちを落ち着かせた。
「つうかさ、お前が自分のコップを出していれば、こんな思いしなくて良かったんじゃねえか」
サキは拳から親指を立てた状態で、エイに突き出す。
「ドンマイ」
「ドンマイ、じゃねえ!」
羞恥からか怒りからかは分からないが、エイは顔を真っ赤にさせて怒鳴ると、サキは慌てた様子で、流し台にコップを置き、犬並みのスピードで台所の扉を開け放ち、顔だけを出す。
「それじゃあ!」
触らぬ神に祟り無し。と言うサキの考えはエイには見通しだ。階段を駆け上がる音を聞きながら、開けっ放しの扉を見て、エイは鼻から深く息を吐き出してガックリと肩を落とした。使い終わったコップを洗って、逆さにして干しておく。流し台の淵に掛かっている白いタオルで手を拭き、エイは二階にある自室へと向かった。