Ⅱ
教室に戻り、簡単なHRを行って、その日の学校は終わった。自己紹介や、学校見学は明日、行う予定で、教科書もその時に配られる。
先生が教室から出て行くと、教室中に話し声が生まれた。大半の生徒たちはいつの間に作ったのか、既にいくつかのグループに分かれていた。同じクラスになったマサも、すでに女子同士のグループを作っている。特に話し掛ける必要も無いのと、友人のいない英幸は背負い鞄を片手に、早々に席を立った。
「待って」
「?」
呼び止められたので、振り返ると、羽丘が片手を上げて手招きをしている。
「何?」
「君の名前、まだ聞いていなかったからさ」
そのために呼び止めたのか。どうせ、明日の自己紹介のときに分かることなのに。英幸は手の平で首筋を撫でて、目を反らす。
「英幸。半田 英幸」
「ひでゆき。ひでとゆきは、この字?」
羽丘は、手の平よりも少し大きいサイズのメモ帳を取り出して、いくつかの候補の漢字を連ねていく。
「あ、それとこれ」
「英国の英に、幸福の幸か……」
羽丘の口が、かの形で止まる。何かを思案しているのだろうか。それよりも、もう帰ってもいいのだろうかと、英幸は教室のドアを何度か盗み見する。
「よし!」
羽丘は両手でメモ帳を、パタンと音を立てて閉じると、人差し指を立ててニッコリと笑みを模った。
「じゃあ、君の事はエイと呼ぶことにするよ」
「は?」
どこからそのあだ名が出てくるのだ。
「僕の事は、ユウって呼んでくれ。羽丘だと、他人行儀だからね」
「は、はぁ」
「ふふふ。こんなに楽しい人に出会えるなんて、ついているなあ。1年間、よろしくね」
差し出された手を、英幸は気押しされるように握り返した。不思議なのは、存在だけじゃない。中身も十分に、不思議だ。手を握ったことで満足したのか、ユウは鞄を手で持ち、教室を出る。
「また、明日」
「ああ、うん。また、な」
エイはユウにつられて、手を振り替えした。
嵐が過ぎ去ったかのような静寂が生まれ、エイは自然と溜息を吐く。中学まで、あまり親しい中の人間がいなかったので、こういう時の反応に少し戸惑う。胸の中で、体育館で飛んでいた鳩の羽毛が風に揺られて舞っているかの様なこそばゆさがあるが、嫌な感じはしない。
「エイ……か」
短い呼び名だが、嫌いではない。だが、自分的には英幸という名前が嫌いではなかったので、少し残念だ。
エイは鞄を背負い直して、教室を出た。廊下に出ても、残っている生徒はほとんどおらず、ほぼ無人の廊下を、エイは歩いた。
1年生は校舎の四階ということで、廊下からの眺めはかなりいい。1学年、上に上がっていくごとに、教室は下に下がるプロセスらしい。
「つまり、3年が終わったら、追い出されるってことか」
まだ始まって間もない中学校生活だが、終わりの事を考えてしまうのは、ついこの間まで、追い出される側にいたせいだろうか。
「先輩。俺、ここに来たよ」
胸の上に拳を置き、窓の外を仰ぐ。空は快晴で、雲もあまりない。
エイは自分の中でのスタートラインに立てた気がした。