Ⅴ
家に着くと、エイは彼をリビングまで連れて行き、ソファーに座らせた。幸い、まだサキは帰って来ていないようなので、余計な詮索をする者はいない。
エイは自分の部屋に戻り、旅行用の簡易な応急セットを持ってリビングに戻った。応急セットの中から、絆創膏と消毒液を出して、ガーゼに消毒液を浸して彼の頬に当てる。
歯を喰いしばって痛みを我慢しているのか、少し頬が硬い。切り傷の所には絆創膏を上から貼り、内出血を起こしている所には風邪の時に額に貼る冷えピタをつけた。
「取りあえず、これでいいか。少し休んでいけよ。飲み物、出すからさ」
彼は何も言わず、視線を一点に向けている。エイは彼の向けている視線の先を見たが、向かいの1人用のソファーか壁しかない。ただボーっとしているだけなのかもしれない。
エイはリビングを出て台所に向かった。スチール製の鍋に水を入れて、火をつけて湯を沸かす。
どこかの国旗の絵柄が付いたマグカップを棚から二つ出して、缶に入ったココアの粉をスプーン二杯分入れて、お湯が沸騰するのを待つ。数分も待たずに沸騰したお湯をマグカップに3分の1注ぎ、コップに対して中身が適量になるまで牛乳をたっぷり入れる。
これで完成だ。
エイはマグカップを持ってリビングに戻ると、彼は最後に見た時と同じようにソファーに座ったままボーっとしていた。
エイは彼の目の前にマグカップを突き出した。
「ほい」
「…………」
「俺の大好きなメーカーのココアだ。疲れた時とか、落ち込んでいるときに飲むと、気が静まるから重宝してるんだ」
以前、サキが無断で、このココアを飲んでいた時は、母親を巻き込んでの大喧嘩へと発展したものだ。日本は裕福な国なはずなのに、何故か食べ物の事になると、人が変わるように暴れ出すのが不思議だ。
彼は一瞬だけ目を丸くさせた後、マグカップを受け取って口にした。
エイも自分のマグカップに口を付けて少し飲む。お湯は沸騰させていたが、牛乳は冷たいものだったので、舌は火傷しなかった。だが、微妙に熱い。
エイはチラリと彼を見てみると、舌を出して眉を顰めている。
「あ。不味かった?」
彼は首を左右に振り、目を伏せた。
「……火傷、した」
「この程度で?」
彼は唇を少し尖らせながら、小さく頷いた。その姿に、エイは思わず吹き出してしまう。
強情な彼でも、苦手なことがあるのかと思うと意外で不思議な感じだ。一頻り笑うと、エイは大きな溜息を鼻から出して、彼の左斜め前のソファーに腰を下ろした。
沈黙がリビングに流れる。
「……苦手なものが無い人間なんていない」
「?」
彼はマグカップの中身を、喉を鳴らして飲んで胃に流した。
「克服するのも、しないのも人次第と言うわけだ。僕は時間さえあれば熱いのだって大丈夫だから」
その言葉でようやく、彼が猫舌で言い訳をしていることが分かった。別に言い訳なんてしなくてもいいのにと、思ってしまう。
「そっか。そういえば、名前、聞いてなかったな。俺は半田 英幸だ。お前は?」
「南雲。南雲 玲二。同じクラスだよ」
「え?」
南雲はジッと睨むような目付きでこちらを見つめている。エイは乾いた声しか出せず、視線を巡らせてクラスメイトたちの事を思い出してみたが、よくよく考えてみれば、ユウとマサ――と、別のクラスだがアルト――以外の同級生とは、まだ話したことが無い。
それに授業も始まったばかりで、何かを共同で行うような授業内容はまだやっていないし、ほとんどの生徒たちが小学校からの繰り上がりのために、すでにグループを作っている人たちが多くて輪に入れず、結果、同じ境遇であろうユウと話す機会が多かった。
だが、そんな言い訳をしても無駄な事だ。エイは肩をガックリと下げて項垂れた。
「……悪い」
「別に」
南雲は一言で終わらせると、そっぽを向いた。まるで傷付いていますよと言葉ではなく態度で示しているかのように巧妙な手口だ。
エイは罪悪感の刃に背中を突っつかれながらも、息を深く吐いて天井を見上げた。リビングに入る際、電気を付けていなかったので、少し薄暗いが、今はそれがいい。
昨日に引き続き、今日も自己嫌悪をしてしまった。悪い事は何1つしていないのに、気が付いたら後悔ばかり。こんなに物事を考えるようになったのは、中学に入ってからかもしれない。
毎日、学校のある日は4時間近く勉強をして、家族との会話も成績の事のみ。妹とは多少、別の会話もあったが、少なくともエイの方では興味関心は無かった。
それが中学の時、吹奏楽に入ってから一変した。あの人との毎日がエイの全てだ。あの人がいたからエイは変われた。他のものに興味を持つようになった。あの人が………。
「俺は、変わってない……のか?」
自分の声が妙に遠くから聞こえる。天井から絨毯へと視界を動かし、自分の指先を見つめた。
エイが曲がれと思うだけで曲がる指。何も考えなければ止まったままの指。命令が無ければ動くことができない自分は、動物ではなく静物だ。考えが無ければ何もしない。何かしようと動けば、考えが動きを中断させる。その場から一歩も動けない。あの日々と何1つ変わっていないのだ。
「人は、簡単に変われるものじゃない」
「え?」
顔を上げると、ボーっと部屋の中を見ていた南雲が、こちらを向いていた。前髪が掛かり片目しか見えない瞳には、それでも失わない強い光が見える。
「特に思春期の中にいる僕たちは、すでに性格の構成が決定化されてしまっている。これを変えるには、自分の中に鉄よりも硬い信念の筋が無くては成しえないだろうね」
カップに口を付けて、ココアを啜る。口の中に、少し粉っぽいチョコとまろやかな牛乳が混ざり合う甘みが広がった。ややチョコの方が多いらしく、口の中にベトっとした舌触りが残った。
「でも、俺は変えたいと思って」
「意固地になって物事を考えても、曲線にしか進めない。まっすぐに歩いているつもりで、気が付いたら曲がりくねって元の位置に逆戻りすることが多いよ」
言葉を遮られ、二の次を紡げなくなる。南雲の言葉はいちいちエイの癇に障った。
「じゃあ、どうすればいいんだよ!」
テーブルを叩き、声を荒げて立ち上がっても、南雲は構わずココアを飲み続けている。何事にも無関心な態度に、これほど怒りを煽る効果があるとは思いもしなかった。エイは握り拳を震わせて、眉間に皺を寄せた。
「俺は、あの人に出会って、少しは変われた。もっと、あの人の隣に立っていたいと思うのに、あの人は俺を置いて先に進んで行ってしまう。だったら、もっと速く俺自身も変わらなくちゃいけないんだ。こんな所で躓いている暇は無いんだよ!」
身体中の血液が沸騰したかのように熱い。特に頬など、赤くなっていることだろう。運動もしていないのに、自分の呼吸音が耳元で聞こえるのが不思議だ。掻いてもいない汗を拭うように、手の甲で顎を擦り、深く息を吐いて気持ちを落ち着かせた。
「あの人って誰?」
南雲の冷淡な物言いに、エイは冷水を投げかけられたような身震いを起こした。膝を曲げてソファーに倒れるように座り、俯いた。今まで、誰一人として話したことのないあの人の事を、クラスメイトに話してもいいのだろうか。家族すらあの人の存在を教えた事がないのに。
あの人が、エイにとっての人生の分岐点であり、あの人の存在こそが、エイの心の支えだ。簡単に話したくは無い。でも、それではエイが今、悩んでいることへの解決策は何も生まれないだろう。
嫌な沈黙が流れる中、南雲は下唇についたココアの残り汁を舐めて、コップをテーブルに置くと、鞄と学ランを肩に掛けて立ち上がった。
「別に話したくないのならそれでいい」
簡単に礼を言うと、南雲は入り口に向かって歩き出した。多少、休んだおかげか、足取りに怪しいところは無い。先ほどまでの酔っ払い歩きが嘘のようである。
南雲はリビングのドアノブを掴むと、振り向かずに語りかけてきた。
「自分を変える一番の近道は、人との関わりの中にあるものだよ」
「……っ!」
「ココア、ご馳走様」
南雲はエイに一瞥もくれないまま、リビングのドアを押して出て行った。1人になったリビングで、エイはただ玄関のドアが開閉するのを耳で聞くことしかできなかった。




