Ⅰ
「一年生、名前順になって、廊下に出なさい!」
よく響く野太い声に起こされ、英幸は跳ね起きて周りを見回す。クラスの中には、まだ数人の生徒が残っていたが、全員が全員、廊下に向かっていた。
「やべっ!」
英幸は立ち上がり、椅子を机の中に入れてから廊下に出る。左右を見回し、自分の並ばなくてはいけない場所を探す。
「すみません。“は”の前後はどこですか!」
叫んでみるが、ほとんどの人は周りの人とのおしゃべりに夢中だったり、無言を決め込んだりしている。何と無常な。
「お前ら、とっとと並べ!」
先生の急かす声と、周りの嘲笑のようなざわめきが、英幸の心を波立たせる。顔が紅潮していくのが分かる。心臓の音が、耳元で聞こえそうになり、パニック寸前だ。
「ここ、じゃないのかな?」
凛とした声が、耳の中に滑り込む。身体中の熱を吹き去るような涼やかな声質に、英幸は息を飲み込んだ。
ゆっくりと振り返り、その人を見る。声だけではなかった。存在そのものが幻のように不鮮明で近寄りがたく、全てを超越したような、人ならざるもののような美しさが、彼にはあった。
少し癖っ気のある髪は、日本人にはあり得ない白い髪だが、瞳の色は黒で、顔付きもあくまで日本人だ。しかし、その整えられた容姿は、神が手塩に手掛けて創り出した、まさに究極の美である。
戸惑っている英幸に、彼は目を細め、優しげに微笑みかけてきた。
「僕は、羽丘 勇気。君は?」
「半田、だけど」
「じゃあ、君は僕の後ろだね」
見掛けや声質とは裏腹に、気安い性格らしい。英幸は安心して彼の後ろに並び、微笑みかけてみるが、羽丘はそれ以上、何も言うことも微笑みかけることもなく、前を向いてしまった。
何となく、勿体無いような気もしたが、先生が眼光を鋭くして始終、睨みを利かせているので、英幸も大人しく従った。
「よし。じゃあ、行くぞ!」
拳を突き上げるようにして、先生は先頭を行く。まるで軍隊の行進のような動きで体育館へと向かった。
英幸のクラスは一組だったので、先頭は誰も居ないが、後ろを振り返ると、文字通り長蛇の列になっている。体育館前まで移動し、入場を待つ。中からブラスバンドか、金管楽器の演奏が始まり、司会進行役の人が声を掛ける。
「一年生、入場」
先生の後に続き、生徒たちが次々に入っていく。英幸は中学校の体育館に驚きを隠さなかった。
まず中学校に入り、一番初めに驚いたことは、クラスの数だ。私立の中学校が10クラスあったのに対し、都立の高等学校はたったの5クラス。しかも一クラス辺りに、たった28人前後という少人数制だ。小学校の時は、広い教室で35人から40人近くの生徒が集まり、黒板から離れていても、黒板の内容を見えるように、教室の天井に5つのスクリーンが設置されているほどだ。
そのせいか、高等学校の体育館と言われても、中学の体育館と差ほど変わらず内心、ガッカリだ。
落胆の色を隠さずに、白け顔で体育館を観察していると、白い小さな塊が体育館の天井の柱の間を横切った。
「! 鳩?」
翼を羽ばたかせて屋根の柱を行き交っているのは、どこをどうみても公園とかでよく見る鳥の鳩だ。英幸は目を擦った後、もう一度見上げてみるが見間違いではない。これでも、視力には自信があるほうだ。
上ばかりに集中しすぎていて、足元が疎かになってしまった。爪先に何かが引っかかり、身体がつんのめる。前で行進していた羽丘は背中から聞こえた小さな悲鳴に気付き、英幸が倒れる手前で、身を引いて振り返り、肩を抱いて支えてくれた。
「ご、ごめん」
「え?」
羽丘の目が見開かれる。何か、おかしな事を言っただろうか。英幸は少し考えてから間違いに至り、身体を支えてくれていた羽丘から離れて、照れ笑いを浮かべた。
「サンキュ。助かった」
こういう時は謝るのではなく、まずはお礼を言うべきところだ。羽丘はポカンと、見開いていた目を細めて、口端を僅かに上げた。
「………………ね」
「は?」
「君って、面白いね」
「? はあ」
どこをどうとってそうなるのか、よく分からなかったが、取り合えず不快には思われていないようだ。英幸は笑って返すと、羽丘は前に向き直って行進をやり直した。羽丘の前の人はすでに椅子の近くまでいってしまっていたが、羽丘は走ることなく、ゆっくりと座席まで歩いていく。
その後の入学式は、特に何の問題もなく終了した。