第6話「策謀」
「――と、這う這う(ほうほう)の体で逃げ帰ってきたわけです」
傍らに置かれた円筒を示す。
四号甲都近傍の廃墟に潜伏していたユウトは、己の言葉通り、一時間後には咒素を体内に押さえ込み、その地を離れた。
直線距離にして、およそ百五十キロメートル。
だが実質はその三倍に近い。張り巡らされた玄方の警戒網から逃れるべく、ユウトたちは福島経由で大きく迂回しながら十七号甲都へと戻ってきた。
徹底した痕跡の隠蔽。それだけに、帰還までに二日の時間を要していた。
エディに符牒で繋ぎをつけ、こうして再びの橡との対面。部屋にいる人数は五人と同じだが、顔ぶれが少し違っていた。ユウトとネツキ、そして宮内側の二人は変わらない。しかしエディは居らず、代わりに小娘がひとり、宮内の関係者として参加している。
妙な娘だった。
年は十代半ば。側頭部には亜人たる証、渦巻状の角が一対。長くもなく短くもない髪は、少し日に焼けているようで、蝋燭の灯に赤をいっそう強く見せる。
臭う咒素にも、なんとも言えぬ違和感を覚えた。
咒化兵装――恐らくは拳銃――を身に付けているというだけではない。何者か。
席に着いているのは、先と変わらず三人のみ。ユウトたちと向かい合う形で橡。その左に三歩の位置に亜人の娘。護衛官は右。一歩分、以前よりも余計に距離を取っている。
それで凡その立ち位置も分かりはするのだが。
ユウトの報告が終わると、橡はその娘へ視線を遣った。
「心配性ですねー。別に嘘なんて言ってないですよ。私の報告との齟齬も、だいたいは主観で説明できちゃうじゃないですか」
上司へのものとも思えぬ、軽薄な態度。橡の娘へと向ける眼差しも、どこか忌々しさが感じられる。
「それとですね。そろそろ、私のことを紹介してくれてもいいんじゃないでしょうか。ほら、お二人の私を見る眼が怖いです」
にへらと緩んだ笑みを浮かべる。欠片もそんなことは思っていないのは、想像に難くない。
隣を見れば、ネツキが胡乱な眼で娘を見ている。もしかすると、ユウト自身も同じ眼をしているのかもしれない。
「彼女は君たちの、飾らず言ってしまえば、目付け役です。不快に思われるかもしれませんが、私にも立場と言うものがありまして」
橡の声には手中に収めた切り札を、是が非でも手放すまいという、必死さが窺える。
「私、巴みどりって言います」
目付けの娘は対照的だった。
気安くそう口にすると、自身の懐に手を入れる。
秘かにユウトは警戒を強めた。咒素の偏りから見て、そこには拳銃が収められているはずなのだ。
だが抜き出した手に握られていたのは、棒付きキャンディ(ロリポップ)が三つ。
「お近づきの印に、おひとつどうですか」
いったい何を考えているのか。
手を振り不要の意を示すユウトを他所に、ネツキが興味津々といった風で手を伸ばす。
これまでのどこか退屈そうな、気だるげな様子はどこへいったのやら。毒物であろうが、確かにネツキには問題ではないが、あまりの無警戒ぶりにげんなりする。
破顔するみどりにも邪気は見えない。そう演じているのかもしれないとは思うものの、まるで自分が場違いな人間であるようにすら感じる。
みどりは手元に残る二つの内ひとつの包みを剥がし、自身も口に含むと、もうひとつを見て首を傾げる。
「室長もおひとついかがですか」
「私は遠慮しておきます」
掌を前に突き出し拒絶。まあ、当然の反応だろう。
そうですか、と。橡の素気無い応えに軽く肩を落とす。だがそれも一転。
「ネツキさん。気に入ってもらえたなら、他の味もありますよ」
上機嫌なネツキを同士と見たのか、すぐに笑みが取って代わる。
残った最後のひとつをみどりは懐に戻す。
そして再び引き抜かれた手には、自動拳銃が握られていた。視線を動かしもせず、笑顔をネツキに見せたまま四度、無造作に引き金が引かれる。
銃口の先には橡とその護衛官。
着弾の一瞬感じる、咒素の乱れ。それは拳銃とその弾丸からは想像も出来ない威力で、二人の体を内部から破裂させた。
狭い室内だ。咄嗟に咒素による障壁を展開したネツキはいい。反応の遅れたユウトは、頭から血と肉と骨の混合液を被ってしまった。蝋燭の火も消え、室内は闇に閉ざされる。
「へぇ。二種の弾頭による、異なる起源を利用した干渉爆発か。よくやるもんだ」
「あれ、驚くとこそこですか」
何故か落胆するみどり。
ユウトが動じずにいるのは、みどりが拳銃を隠し持っていることを知っていたからだ。その上、これみよがしに取り出して見せたロリポップ。先んじて警戒を煽る真似をしてみせたみどりに、何らかの思惑があると考えるのは当然だ。
故に驚きより疑念。更には疑念より憤懣が勝った。ネツキはなにやら感心しているようだが、知ったことではない。
「あー、でもでも。私の眼に狂いはなかったってことですよね。私、やりましたよ。御屋形さまっ」
ころころと感情を転じるみどりに一歩詰め寄る。
「……おい」
はい、と。みどりが首を傾げる気配。
先の爆発で窓の目張りが敗れ、差し込む月光に、闇に慣れた眼がその姿を映す。
みどりはユウト以上の血塗れの面に、無邪気な笑みを貼り付けていた。
ああ、こちら側の人間なのかと。それだけでユウトは納得してしまう。頭の螺子をどこかに置き忘れた人間。珍しくもない。そして得てしてそういう輩には、理を説くことは意味を成さない。
怒りも、気づけば蝋燭の火と同じように、容易く消え去っていた。
そして疑問が再燃する。
情報提供者の死亡。真っ先に疑うべきは玄方だろう。しかしそうであるとすれば、ユウトを押さえる役にはアキミが選ばれるはず。
なれば政争か。宮内も一枚岩ではないとなると、雲行きは怪しい。ましてこういう手合いを重用している陣営。きな臭さも一入だ。
厄介な事態に巻き込まれた。そのことに気が重くなる。
「いや。これから俺たちはどうなるのかと思ってね」
「それなんですけど。あ、来たみたいです」
みどりに言われてようやく、咒素の流れの変化に気づく。
特異点が二つ、この場に近づきつつあった。尖兵だろうが、嗅いだことのないパターン。
ネツキに目配せをするも、首を横に振って返される。
これはいよいよ臭う。
◆◆◆
やってきた二人組は、現地迷彩のよく似合う、言ってしまえば粗野な風貌の男たちだった。
「待たせちまいましたかね」
肩の力を抜き適度に隙を晒す様は、この界隈によく馴染む。抗咒処置が与える咒素への反作用も、これまで見た尖兵に比べると遥かに抑えられている。亜人でもなければ気づけやしないだろう。
尖兵による特殊部隊。それも対人、いや。対尖兵を想定した非常に練度の高い部隊だ。数年で組織されたものとも思えない。
「時間通りですよ。順調に進んでるみたいですね」
「恙なく。玄方の眼はすべて潰したし、影への置き換えもばっちりでさ」
玄方の眼。その言葉に合点がいく。
眼とは間諜のことだ。二人の話を信じるのであれば、橡も玄方の回し者だった、ということなのだろう。
アキミが契約者であったこと。連れていた四体の眷属。そして奇襲の失敗。
状況証拠としては些か弱いが、橡のみどりへと向ける視線に棘があったのも確か。目付け。その役割がユウトの監視だけに止まらないとすれば。
「それは重畳です。それで、どれくらい稼げそうなんですか」
「露見まで三十は堅いそうですよ。襲撃予定地点からここまでと合わせると、六十そこそこになりますか」
もうひとりが応える。
やり取りから察するに、力関係は二人よりもみどりが上。本当に何者なのか。目付けという肩書きすら、仮のものであるように思える。
「なら、服は取り替えたほうがよさそうかな」
気持ち悪いから。そんな文脈で言っているのではないことは、ユウトにも分かった。
目立つのだ、この格好は。それに痕跡を消すにも苦労する。
「いやいや、そこは最初から手間かからないようにやりましょうよ」
「自分が率先して手を汚すようにって、教わりましたから」
「それを物理的にって意味では捉えないでしょう、普通」
首を傾げるみどりは、何のことですかというよりも、何でですかと言っているように、ユウトには見えた。
馬鹿でも愚かでもない。それはここまでのみどりの言動から明らかだ。惚けた人となりも、或いはすべてが演技なのかもしれない。寧ろそうであった方がまだ組し易い。
凡そ物事を感覚で成し遂げる手合いほど、性質の悪いものはないのだ。
「大丈夫だとは思うんですが、始末だけはしっかりお願いします。くれぐれも、気をつけてくださいね」
そうこうしている間にみどりたちの話は終わり、矛先がユウトたちへと向く。
「お二人も、もう家には戻れないと思うので、どうしても手放せないものとかあったら、取りに戻ってもらって構わないですよ」
状況はだいたい掴めた。
玄方の謀を未然に防いだ宮内御一行は、その事実を知った玄方が、怒り心頭でこの地へとやってくる前に、姿を眩まそうと言うのだ。
「いいのか、眼を離しちまって。逃げちまうかもしれねえぞ」
腑に落ちないのは、みどりの妙な信頼だった。だがそれも、用意していたかのような回答に、完膚なきまでに理解させられる。
「あれ、いいんですか。報酬なしのただ働きになっちゃいますけど」
隣でネツキが呆れている。
ユウトとしてはもう、みどりの言葉がその効果を知った上で口にされたものであると、願う他なかった。