第2話「セイレイ」
「臭うな。尻の締りが悪い連中だ」
ユウトとネツキは今、スラム東区外縁のそのまた外れを歩いていた。
錆びて穴だらけのトタンを打つ雨の音が、いやに響く。
道のそこここにこびりついた汚物が、雨で溶け、道の窪みに濁った水溜りをいくつも作っていた。
過去の度重なるスラムの人口増加で、無秩序に膨張した区域。最も新しいはずこの辺りは、地獄の一丁目と揶揄される西区にも増して荒廃している。近年の人口減少に伴い放棄された空き家が、それを一層際立たせていた。
すべてが間に合わせと妥協。居つく者たちは生き方すら中途半端で、治安はすこぶる悪い。
だが、目的地を目の前にネツキが嗅ぎ取った臭いは、彼らのものではあり得ない。
「数は」
「尖兵ばかり十一」
ネツキの咒素に対する感覚は、亜人にも増して鋭い。未だ奴らには気取られていまい。
「となれば、十二か十三か……。お前はそのままヒトを演じていてくれ」
そう小声で言って、ユウトは今まで完全に断っていた咒素を大気に滲ませる。
手札は伏せておくに越したことはない。ユウトは咒素を隠蔽しきれないし、ネツキも単なる人間の相棒。今、そういうことになった。
「……情報屋の奴、しくじったな」
気づけばそんな言葉を口にしていた。
欺瞞だ。ただそうあればと言う願望。
「へっ、甘いことを言うようになったもんだな。すっかり腑抜けたかよ。わたしに力を求めたあの頃のユウトはどこへ行っちまったんだ。是非とも教えて欲しいぜ」
ネツキは舌先で皮肉を転がし嗤う。悲しげに、愉しげに。それでいて、ユウトの方は見ようともしない。
分かっているのだ。ユウトに自覚があることを。分かっていて、言っている。噛み殺した反駁も、隠し切れぬしかめ面も、ネツキには見るまでもないのだろう。
ネツキの嫌味にユウトは何も言えない。常の軽口とは違う。言える筈がないのだ。
未だ契約を果たしていないのは、ユウトの方なのだから。
◆◆◆
指定された建物の一室。そこには情報屋の他に、二人の男の姿があった。
部屋の入り口で足を止めたユウトは、中央に据えられた卓の上、灯された蝋燭の炎越しに彼らを見る。
うそ臭い笑みを貼り付けたひとりは卓の奥で椅子に座り、もうひとりはその背後で影のように佇んでいる。
身なりは共にスラム流。くたびれた感がよく出てはいるが、似合ってはいない。立ち居振る舞いが上品過ぎるのだ。十中八九、内地の人間であろう。
対面にはご丁寧にも椅子が二脚並んでいる。
「お早いお着きじゃないか、ユート。オレの愛の詰まったメッセージ、正しく汲んでくれたようでなによりだ」
ここにユウトたちを呼び寄せた張本人はと言えば、炎から離れた壁際で、ネグロイド特有の黒い面に、白い歯を覗かせていた。
ユウトが意識的に咒素の及ぶ範囲を絞っているため、この場の誰もが、その身に纏う死臭には気づいてはいない。
「しかし残念だが、愛の語らいはまたの機会があったらにしようや。見ての通り、今日はオマエに客が来ているからな」
エディはそう言って、悪びれた様子もなく男達を示す。
「幾らで売れたんだよ」
とはネツキの言。小さく鼻を鳴らしたのは、エディに向けてのものか、それともユウトに向けてのものか。
どちらでもいいとユウトは思った。ヒトであることを捨て、ヒトを捨てたのはユウトの方が先なのだ。そんなヒトを頼ったのがそもそもの間違い。言わば、これは必然。今更、何故と問う価値もない。
「聞いてやるな。ああ、取り分は九一でいい」
にやりとエディには笑みを返し、卓へと向けて重い一歩を踏み出す。常にも増して陰鬱な気分は、しかしその一端とて表には見せない。
「時に裏切り裏切られ、それもまたヒトの世の華ってか」
油断なく腰を下ろすユウトの隣で、ネツキも椅子を引いた。
謀られこそしたが、これは好機でもあった。
ユウトをただ殺すのが目的であれば、この場に罠を仕掛けておくのが容易い。まして内地の人間が直々に赴くなど。
リスクに見合う何かがそこにはある筈。
そして相手は仮にも交渉役。何も知らないではお話にならない。
当然、必要以上の情報を与えられていない可能性はある。だが、目当ての酒をこの男達が持っていないと断言するのは、早急に過ぎるというもの。
「それで」
男に言葉を発する暇を与えず、ユウトが口火を切る。
「わざわざ内地の方が出向いてまで、我々がどうなることを、あなた方は望まれるのでしょうか」
慇懃無礼を体現するかのように、面には普段まずお目にかかれない柔和な笑み。隣でネツキが「おお」と小さく驚いているが、聞かなかったことにする。
対する男は、心底困ったと言わんばかりに眉尻を下げた。
「いやはや、こんなやり方では警戒されるもごもっともですが。もう少し肩の力を抜いてお話ししませんか。そうですね、まずは」
そうして懐から取り出したのは二枚のカード、名詞だった。
「私、宮内庁六課第三情報調査室室長の橡道孝と申します」
「宮内……」
ユウトに一層の警戒と、それに倍加する疑念が生じる。
二〇七八年現在、この国に旧来の意味における政府はもはや存在しない。辛うじて対外的な日本の顔としての機能を残してはいるものの、政治は各々の甲都に委ねられ、十九、二十世紀的近代国家としての様相は失われて久しい。
だが国家が国家の体を為していないのは、何も日本に限られたことではない。
三十六年前、大戦があった。
それは人類史に記録された、ヒトとヒトとの如何なる戦いとも違う。
なぜならばヒトが相対したモノ、それがヒトではなかったからだ。
文明の朽ち果てた残骸に、哀れにもしがみ付く人類に引導を渡さんとしたのは、神話や伝承に出てくるような、見るもおぞましい化け物だった。
そのモノたちは、出会ったその時からヒトの敵であった。ヒトが、彼のモノたちの敵であった。
戦端は中東で開かれ、やがて聖戦と定められた戦いへと突入する。
だが、彼のモノたちは正真正銘の化け物だった。
科学では証明のできぬ超常の業の前に、人類は劣勢を極める。エルサレムが陥落し、第九次十字軍が結成され戦域へと投入されたが、それでもなお戦局は好転しない。やむなく人類はその指を核のスイッチへと伸ばした。
辛くも人類はその手に勝利を掴み取る。が、それは果たして勝利と呼べたものだろうか。
人類はただ一度の戦いで、あまりにも多くのものを失い過ぎた。
十億あった人口は三億にまで激減し、ユーラシア大陸のその三割は、ヒトの立ち入ることの叶わぬ魔境へと姿を変えた。
だが何よりもその勝利を空疎なものとしていたのは、始まりの四柱とされるモノの、その一柱を討ち果たしたに過ぎないと言う、残酷な現実の存在だった。
甲都と言う殻に篭ることで、黄泉竈食の恐怖から免れ、未来への希望を繋いだかに見えた二〇四二年。咒素の蔓延という厄禍が、ヒトの世の終焉の先触れでしかなかったことを、ヒトは知ることとなったのだ。
当世、ヒトは地球上における絶対の君臨者ではない。その地位は、今やセイレイと畏怖を交え呼び表される、彼のモノたちの手の内にあった。
今日、現世には五十を越えるセイレイが存在すると考えられている。
正確な数は分からない。知る術が失われているからだ。
世界の多くでは、そうして増え続けるセイレイの活動圏から逃れることで、辛うじてヒトは生存を許されている。張り巡らされた情報通信網は至る所で寸断され、ヒトと物の交流も絶え絶えであった。
日本でも、孤立する甲都は年々増加の一途を辿っている。
こんな状況下であっても日本が社会を維持することが出来ているのは、偏に伊隅財団の存在と、関東から東北の東部にかけてを領地とする、始まりの四柱の一柱、閑寂の女帝の威光があるからだろう。
国内には大小合わせて三十あまりの甲都が残されている。これらの建造のすべてに、伊隅は関与してきた。甲都は伊隅と大日本建設、そして何かしらの企業によって建造されることが多い。各甲都の基本方針は出資した企業が決定する、それが現代政治の基本となっていた。
だが伊隅の影響力は計り知れない。各甲都には協会と呼ばれる伊隅の下部組織が監督役として置かれ、伊隅総体として社会の方向性を定めている。
言ってしまえば伊隅こそが、政府に代わり現代の日本を動かしているのである。
なぜ伊隅財団がそこまでの力を得たのか。それは簡単だ。その中核を為しているのが、セイレイと咒素について最も多くを知る玄方であるからだ。
実質の行政権を玄方に奪われた政府ではあったが、未だ機能を残す二つの省庁が、内閣府からも独立した政治機構として存続を果たしていた。防衛省と宮内庁である。
前者は国土を包括する防衛組織として、後者は国内外の象徴として、政府に代わる外交装置の役割を担いながら、伊隅とは異なる指針を持って国の在り方に関わっている。
そのような背景を持つため、玄方と防衛府、宮内府は折り合いが悪いと、ユウトはかつて玄方に居た折に聞き及んでいた。
ユウトの命を狙っているのは、あくまでも玄方である。この件に関して言えば、宮内府(国)が出てくる理由がない、筈であった。
ちらりとエディに視線をやる。
「おいおい。オレのユートへの愛がニセモノだなんて、いつ誰が言ったんだよ」
苦労して作った笑みに皹が入る。隣からはこれ見よがしな舌打ち。
してやられた苛立ちはあるものの、これは紛うことなき好機。ユウトはネツキの機嫌が本格的に悪くなる前にと、話を聞く態勢に入る。
「あなたの言わんとしていることは分かりましたよ。しかしそれは無理な相談でしょう。俺にと言う時点で、その話が穏やかなものである筈もないんですから」
ユウトが関心を示したことで、ネツキは怒りの矛を収める気になってくれたらしい。
「それもそうですね」
橡と名乗った男はひとつ小さく頷いて、いえ寧ろ物騒なお話と言うべきでしょうと前置きをすると。
「今日はですね、君たち二人に依頼があって来たんです」
などと、ユウトの不審を更に深める言葉を口にする。
「……俺たち二人、と言いましたか」
「はい、その通りです。契約者と」
そこで橡は視線をユウトからネツキへと移す。
「その力の供与者であるセイレイの、お二人にしかお任せすることの出来ない依頼です」
「こいつがセイレイとは、また随分と大きく出たものですね」
内心の動揺を押し隠し、ユウトは呆れの成分を多めに配合した笑いを浮かべる。
橡の想像は違わず、ネツキはセイレイであった。
本人は領地を持たないはぐれを自称しているが、ユウトはその言葉を信じてはいない。だがそれでも、ネツキは紛れもなくセイレイだった。
このことはエディにも伝えてはいない。ではどの様にして、そんなユウトの疑問に答えるかのように、橡が口を開く。
「ヤスギでの一件は、私どもも『耳』から聞き及んでいるのです。カミであるサエを滅することの出来る力、それはヒトのものではあり得ません。どれほど強大な力を得た魑魅魍魎であろうと及びもしない。それを可能とするのは唯一、カミと等しい力を持つセイレイだけというわけです」
神話や伝承に多少なりとも事実が含まれるのであれば、宮内もまたその事実を知る立場にあるではないだろうか。
境壊以降、歴史の表舞台に唐突に姿を現した玄方。その在り方はあまりにも歪だった。
彼の組織の存在を、ひた隠しにしてきた者たちがいる。それこそが宮内なのではないか。
今にして思えば、ただの外交装置に過ぎない宮内への、玄方の異様な警戒。それがそうした過去に基づくものなのだとしたら。
「飛躍が過ぎるのではありませんか」
「私どもとしましては、そういうこともある、と考えていますよ」
玄方とは別の意味で、知られてはならない者たちに、所在を知られてしまった。ユウトには、そんな気がしてならなかった。
「乏しい論拠です」
力のない声だった。これではまるで、肯定しているのに等しい。
橡はユウトの応えに満足したように、一際笑みを深める。
「報酬は情報になります。概略を以って前金と代え、後金としてお渡しする情報が君にとって有益なものである、証とさせていただきたいと思っています」
そうして告げられた依頼の内容を、ユウトは承諾した。
選択権などなかった。
しかしあったところで、ユウトの選択は変わらなかったであろう。ようやく得られた少女の今への手掛かり。それをユウトは手放すわけにはいかない。
打ち合わせが終わる頃には、空は白み始めていた。
夕刻から降り続いていた雨もいつの間にやら上がり、仰ぎ見た東雲の残り雲の合間からは、消えかけた星の瞬きを見ることができた。
泥んでいた時が今確かに進み始めたことを、ユウトは強く感じるのだった。