第1話「黄泉竈食」
夕刻。ぽつぽつと落ち始めた雨は、今や本降りだった。
外套のフードを目深に下ろし、ユウトとネツキは薄汚いスラムの路地を走る。
辿り着いたのは一軒の酒場。店名はおろか、店であることを示すものは何もない。飾り気のない無骨な扉は、到底客を歓迎しているようには見えない。それでも、ここは酒場だった。
ネツキは躊躇なく扉を押し開け、ドアベルの浮きに浮いた涼やかな音色を脇に、急々と店に入っていく。続く形で、ユウトも薄れゆく余韻に身体を滑り込ませた。
店の中は薄暗い。
当然だ。ここはスラムの外れも外れ。電気が通っているわけがない。
薪ストーブの小窓から覗く炎と、並べられたキャンドルランタンの揺れる小さな炎とが、灯りのすべてだった。
ネツキが外套の留め金を乱暴な手つきで外し、フードを払う。
露になる赤と黒の糸をより合わせた風の、奇異な色味を帯びた髪。ただのヒトにはあり得ない。それはユウトと同じ、いや。ユウトが同じなのか。
両の肩口で緩く絞った二房が、開いた外套の合わせから零れる。
「あぁぁ糞がっ。すっかり降られちまったじゃねぇか」
少女然とした澄んだ声を濁し、ネツキは無遠慮に悪態を漏らした。
長い睫に縁取られた髪と同色の瞳が、半眼に不機嫌を象る。
「あの業突く張りの腐れ爺。支払いの段に及んでごねやがって。片足棺桶に突っ込んでおいて、まだそんなに金が欲しいかよ。貯めこんで何に使う。女でも買うか。はっ、枯れ爺の萎れたガキなんぞ、手前が片付けさせた死体の蛆の湧いたケツにでもおったててろ」
重ねられたのは、毒に塗れた暴言。
幼さの残る柔らかな顔立ちには、あまりにも似つかわしくない。
往来で口にすれば十人が十人、その歪さに何かしらの感情を抱くことだろう。こんな時代のこんな場所でも、少なくとも今はまだ、そう言えるだけの安寧が残されていた。
しかしながらネツキには、そうと言い切れぬ妙な風格があるのも、また事実である。
当初こそ、口汚さにそぐわぬ肉体に辟易もしたユウトが、今やそうでないことの方に違和感を覚えるほど。
元よりヒトの皮をかぶった化け物。なんのことはない。枠に収めようなどと思うから齟齬が生じる。ユウトがネツキの在り方に納得をした。つまりはそういうことなのだろう。
「雨は好きなんじゃなかったか」
外套から腕を抜きつつ、そんな言葉をユウトはネツキに投げる。
「立春のクソ冷たい雨を浴びて、どう感じ入れってんだ」
見上げてくるのは、正気かと言わんばかりの、じとっとした眼差し。
なんとも分かりやすい奴だと思う。が、そんなネツキの素直さを、ユウトは嫌いではなかった。
強者故に偽る必要がなかったのか、はたまた別の理由か。いずれにせよ、性格が素直だからと言って、考えていることまでその通りとは、欠片ほども信じてはいない。
とは言え、瞳に浮かび始めた落胆を疑う気もないのだが。
「違うだろ。そうじゃないだろ。やっぱり、おまえもそっち側かよ。糞っ」
矛先も意味もまるで変わった苛立ち。
「おまえは生きる愉しみを半分は捨ててるぜ」
ネツキが小さく溜息とともに吐き出す。視線は沈み、すでにユウトを見ていない。
わずかに俯いたその前髪を、雫が伝い落ちる。
拗ねた子供のようだとは思うものの、言えば完膚なきまでに負かされるのはユウトの方である。ネツキを喜ばせるだけの言葉を、口にする気は毛頭なかった。
「知ってるさ。ほらよ」
外套から引っ張り出したタオルを、俯いた頭に放る。
「なんだよ」
鬱陶しそうに視線が上がった。
「寒いなら、いらん愚痴を垂れるな」
「あぁ、ちくしょう。そういうことか。今日の酒はこの上なく不味いこと間違いなしだ、糞野郎」
ネツキをやり込めたことで口元が緩むが、それは仕方のないこと。抗議の声を置き去りに、ユウトはいつもの席を目指す。
店内には先客が四人。いずれも見知った顔だった。
皆、慣れたもので、ネツキの騒々しさにも眉ひとつ動かさず、各々の幸福を噛み締めている。店の親父が洗い物の手を止め、頭巾の下の厳つい顔に渋面を刻んではいるが、これもいつものこと。
日没もまだだと言うのに、ひとりは早くも潰れていた。テーブルに突っ伏したまま、気持ちよさそうに寝息を立てている。普段しているフードは外れ、露になったのは一対の角――亜人。
それは、幽世の大気(咒素)により変異した、ヒトの形のひとつだった。繁殖能力を失い、微少ながら咒素を垂れ流すようになった、穢れ壊れた器。
忌み嫌われ、迫害されるのが当たり前。殺されても文句のひとつも言えやしない。
だが、酔客たちの誰一人として、それを指摘する様子はない。
彼らもまた亜人なのだ。
つまるところこの店は、亜人たちの店だった。知るべき者たちは知っているし、知らなくていい者たちが知る必要はない。看板も何もないのは、そうした理由からであろう。
ユウトたちは、知らなくていい側の者たちだった。
そんな二人がこの店を利用するのには、やはり相応の理由がある。中でもとりわけ重要な位置を占めているのが、扱っている食材の質であった。
ユウトはカウンターの端、裏口の見える席に腰を下ろす。
「なあ坊主。いまさら来るなーなんて話を蒸し返す気はないが、せめてあのバカのアレはどうにかならんのか」
席に着くなり声を潜めた親父が、客に向けるには失礼極まりない言葉を口にする。
それでいて入り口をちらちら横目で窺っているのは、親父もネツキには散々な目に合わされてきているからだ。
元々強引に居座っている身なので、その辺り、店主と客との関係とは多分にズレている。
「そういうイキモノだと思えば、気にもならなくなるさ」
これ以上ない回答だろうに、親父の渋面は深まるばかり。
手櫛で髪を整え歩いてくるネツキの姿を視界の端に見て、ユウトは話題を切り替える。
「あとな、いい加減に坊主はやめてくれ」
「二十一だか二だか知らんが、まとめて坊主で十分だ」
「なんの話してんだ」
ネツキにしてみれば言ってみたというだけだろう。隣の椅子に外套を掛け、座る席から手の届く範囲でストーブに近づけている。
「こいつがまだまだガキだって話だよ」
だが、切り替える話題を間違えた。ユウトはそのこと悟る。
「そりゃいい。ユウトがガキだって証明をさせたら、わたしに敵う奴はいないぜ」
親父の先の言葉もどこへいったのやら。日頃の鬱憤を晴らすべく盛り上がりを見せる二人。ユウトを玩具にすることで、二人の間に今限りの連帯感が生まれていた。飛び交う言葉の中には耳が痛くなるものもあるが、概ね言いがかりだ。
胸の内で溜息を零し、頬杖をついて視線を窓の外へと移す。
見えるのは、雨に煙る灰色の町並み。背の低い家々の屋根の上に、影になった甲都の壁が見える。
十七号甲都外区スラム。
かつて高崎と呼ばれた市域東部に広がる、選ばれなかった者たちの町。
あれからもう三年が過ぎていた。幾つもの町を巡ったが、見える世界は変わらない。果たしてそれは良いことなのか。日一日と焦燥が降り積もる。
ことりと音に振り返れば、卓上に陶器の杯が置かれていた。ネツキが気を利かせたのだろう。
ユウトは杯を手に取ると、湧き出す懸念を酒ごと一息に飲み干した。
後に黄泉竈食と称される病の、その第一例が確認されたのは西暦二〇二三年十一月、この日本でのことだった。
発症すると体表に近い部分から肉が腐り始め、やがて骨をも溶かし患者に死をもたらす奇病。腐った肉はその皮膚に、近似性を持つ奇妙な紋様を描いた。
治療法はなく、発症すれば確実に死に至る。そしてなお悪いことに、この病は伝染するのだ。故に人はこれを屍紋と呼び忌避した。病にかかったその時に、既にその者は死んだのだと言い聞かせるように。
同様の症状を示す患者が世界各国で確認され始め、その人数と規模は瞬く間に拡大する。
だがこれは、この病のひとつの側面に過ぎない。
黄泉竈食はヒトを変質させる。亜人とてその形のひとつ。世に犇く魑魅魍魎の多くもまた、かつてはヒトと呼ばれたモノたちであった。
元凶はすべて咒素にある。蔓延した咒素が、ヒトという種を滅びの淵へと追い込んだ。
起こりは、境壊と呼ばれる事件。
古の時代に築かれ、玄方により連綿と受け継がれてきた、現世と幽世とを隔てる結界――査衛。
二〇二三年十月末日、そこに小さな穿孔が生じた。自然発生的なものではない。幽世の側から穿たれた穴隙。
千とも万ともつかぬ年月。鎖され続けた道は通じ、咒素が現へと溢れ出す。
科学の力の及ばぬ死神に、人類はその歴史の終焉を予感したという。
だがヒトは存外しぶとく、また諦めも悪かった。この日本では、そうして築かれたのがあの壁。玄方の言う下査衛だ。
ユウトが二杯目を空にする頃には、酔客たちの手によって雨戸は下ろされ、今はその威容を窺うことはできない。
宵闇に滲む灯は、妖を誘う。
それは、かつてヒトであったが故の希求か。獣の餌を求める本能か。
こと山に近いスラム西地区(この辺り)は、犠牲者の数が頭ひとつ抜きん出ている。いや、そのためにこそ、ここ西地区は残されていると言うべきか。住人は生かされているのだ。
町は間もなく眠りにつく。夜はヒトの生きる時間ではなかった。
「お山の様子は」
「相変わらずさ。嫌な感じだ。魑魅魍魎の息遣いは感じられるのに、怖いくらい静かだ」
「お互い、仕事が減って楽ができるな」
眉間に皺の寄った親父に、軽く口の端を上げてみせる。
「言っていろ。……こういうときに限って、大物が紛れ込む」
静かに語る口ぶりには、確かな緊張感が窺えた。
空席ばかりの店内を横目で見やる。夜の哨戒組はとうに出払った後と言うわけだ。
このスラムには亜人の居場所があった。
それがスラムで最も危険な一帯であるとは言え、黄泉竈食の保菌者に等しい亜人が、曲りなりともヒトとして扱われる場所が残されていた。いやそれどころか、その生活はスラムの中でも上等な部類に入る。
理由はただひとつ。彼らが魑魅魍魎に対して鼻が利くからだ。
亜人の頭部に、象徴的に存在する角。それは単に皮膚が硬化したなどという代物ではない。亜人にとって角とは、咒素を読む感覚器であった。
黄泉竈食は伝染する。それは黄泉竈食となったモノが咒素を帯びているからだ。
屍紋がそうであり、亜人がそうであるように、魑魅魍魎もまた咒素を帯びている。
亜人は化け物どもを殺すことで居場所を得ていた。妖異の発する咒素を嗅ぎ取り、追い詰め、狩ることこそ、彼らがヒトである証となった。
ヒトであったモノを殺し、ヒトを語る。ヒトであることへの並々ならぬ執着が、彼らをこの地に留めている。
歪んでいると嗤うことは、ユウトには出来ない。それはユウトがヒトを騙っていることとは、また別の話。
ちらりと傍らに視線を遣る。そんな話には興味がないとでも言わんばかり、ネツキは舐めるように酒を飲んでいた。
「ま、それがあんたらのお役目だ。精々気張ってくれ。なにかあれば力になるぞ」
もし大物、それこそ咒素を意のままに操る正真正銘の化け物が現れれば、亜人もヒトも大勢死ぬだろう。そうなれば、望むと望むまいとユウトたちの仕事は増える。
「縁起でもないことを言うな。誰が掃除屋なんぞの世話に」
「葬儀屋だ」
短く訂正の言葉を挟む。最早お約束のやり取り。
「お前が葬式を挙げたなんて話は、ついぞ聞いたことがないなあ」
「生憎と、信心深い客にはてんで縁がなくてね」
実態は親父が口にした言葉そのものだ。転がる死体を片付け、町をキレイに保つ。
こんなご時勢だ。死体なんて掃いて捨てるほど出る。放置すれば、町は咒素でもなく魑魅魍魎でもなく、疫病によって沈むだろう。
多くは町を取り仕切る辻風が、その下っ端に処理を任せている。が、中には彼らでは対処しきれない案件も混じっていた。
その最たるものが、黄泉竈食の絡む死体であろう。
ユウトたちは、そうした正道ではない骸の始末を担うことで日銭を稼いでいた。正道ではない、それは表に出せない死体、今はまだ生きている死体の処理も含まれる。中には、十七号甲都での仕事すらあった。
だがそれはすべて、ユウトにとって目的を果たすための手段に過ぎない。
カラ、と。中途半端にドアベルが鳴った。
酔客たちがばらばらに、ひとつの目的のために何気なさを装い身体を動かす。
そんな中、親父がゆっくりと視線をそちらへ移した。
「入るにせよ入らないにせよ、いつまでも扉を開けたままにされては困るな」
大方、予想だにしない音がして、足が竦んだのだろう。親父に倣い入り口を見遣る。
丁度、言葉に尻を叩かれたみすぼらしいガキが、足元にぽたぽたと雨滴を散らしながら、店内へと足を踏み出したところだった。
おっかなびっくりな視線が、何かを探すように親父からカウンターへ、ネツキからユウトへと辿り、そこでぴたりと止まる。どうやらガキの用事があるのは、ここの連中ではないらしい。
亜人たちの手が銃把から離れる気配をユウトは感じ取る。
見覚えの無い顔だった。そもそも、ユウトに用のあるガキなんて、見覚えのある顔であることの方が珍しいが。
割り切ったのか、ガキは小走りで駆け寄ってくると、懐から取り出した紙片を突きつけてきた。言葉はない。どころか、息すらしていない。
胡乱げに睨むと、ひっと喉の奥で悲鳴を漏らし、慌てて空いている手で口元を押さえた。
ここがどういう場所なのか、どうやら知っているようだ。隠しもしない反応には、いっそ清々しさすら覚える。
そんなことをしていると、紙片が隣の席から伸びた細腕にひったくられた。
「ガキで遊ぶな。小僧、これでお前は仕事を果たした。酒が不味くなる、とっとと去ね」
ほっとした表情を見せたのも束の間。ガキは逃げるように店を出て行った。
「で、何て書いてある」
何事もなかったように杯を傾ける。
実際、気に留めるほどのことでもない。ここの連中のこともそうだし、送り主にしても見当がついている。
「いらないならその目玉、穿り出すぞ」
捨てるように放られた紙片を、ユウトはそちらを見もせずに掴み取る。
四つ折にされたそれを開けば、そこには思いも寄らぬ文言が記されていた。
『お前の探していた酒が見つかった』
刹那、息をすることすら忘れる。
目聡くその事に気づいたのだろう、ネツキが身を寄せ手元を覗き込んできた。そして内容を確認すると、顔を半分だけ向け微かに眼を細めた。
それは喜びを分かち合うようにも、これから待つ不幸を期待するようでもあった。
酒とは暗喩だ。
いつだったか、もうひと月以上も前の話になる。求めていた情報を手に入れる目処が立った。情報屋がそう口にしていたのを思い出す。
脳裏を掠めるのはひとりの少女の顔。
あれから三年。何も変わらない世に、己の行ったことの意味をユウトは問い続けてきた。少女を待つ不幸の幾許かを、除いてやることができたのだろうかと。
しかし玄方を飛び出し、甲都を飛び出したユウトには、少女はあまりにも遠い存在だった。彼女の今の、その一端たりとも知ることの叶わぬ日々。
それが、間もなく終わる。
「親父、金はここに置いておくぞ」
品書きの五倍近い額をカウンターに置き、ユウトは席を立つ。
紙片には酒の一文の他に、場所を示す数字だけが書いてあった。時間の指定はない。それは即ち、今から来いと言うことだ。
「なんだ、今日はやけに早いな」
「野暮用ができた」
外套に腕を通しながら、いつもの仕事の調子でそれだけを言う。
「こんな夜だ。掃除屋がされる側に回らんようにな」
皮肉にも似た気遣いに軽く手を挙げ応えると、既に扉に手を掛けたネツキを追う。
外は相変わらずの雨。
ネツキが闇そのものであるような分厚い雲を見上げ、ため息を漏らす。それからユウトを振り返ると、意地の悪い笑みを口に象った。
「願わくは、それが新たな悪夢の始まりであらんことを、なんてな」
ユウトは軽く肩をすくめフードを目深に下ろすと、降りしきる雨の中、垂れ込める闇へと駆け出した。