第9話「氏族」
みどりは隊を、副官の率いる第一隊、自身の率いる第二隊とに分けた。両隊は国道一四〇号経由で東に抜けた後、関越自動車道に入ると、一路南を目指した。
沈殿した夜の闇を乱さぬ、秘かな行軍。
車列の進む先を照らすのは、仄かな月明かりばかり。
指揮車には先の四人の他は、運転手とその補佐が乗り込んでいるのみ。下査衛も今は副官に預けられ、車中にはない。
鶴ヶ島JCTで第一隊と別れたユウトら第二隊は、首都圏中央連絡自動車道伝いに東へと進路をとる。
世界にセイレイの数だけあると言われる、セイレイの領有指定地。誰が言い出したか、通称セイレイ指定都市。目指す先はその一つ、閑寂の女帝ことホワイトミュートの治める指定都市「ツクバ」だった。
だが間もなく車列は停止する。
車外へと降り立ったユウトの眼前には、月光を湛え妖しく聳える、果ての見えぬ白い壁。
それは閑寂の女帝の領域を意味する、永久に晴れることのない咒素の霧だ。
周囲に漏れ出す咒素の薄さから、霧が閑寂の女帝の完全な制御下にあることが分かる。この霧すべてが、閑寂の女帝そのものだと言っていい。
「なあ、本当に行くのか」
道中遠回しに不満を漏らしていたネツキが、ここに来て明確に否定の意思を示した。
「話があるならここでもいいじゃねえか。みどりは知ってるんだろ。セイレイはセイレイでも、あれは星の方。ミカの一族だ」
聞き慣れない単語。だからすぐに気づいた。
そしてそれは、みどりの応えによって裏付けられる。
「意外ですね。サエを滅ぼしたネツキさんでも、同胞は怖いですか」
同胞。今まで黙してきたネツキの過去。
その一端を共通の文脈として交わされる、ネツキとみどりの会話。そこにユウトは釈然としない思いを抱いていた。
「煽りなら、もっと上手い文句を考えるんだな」
「そんなんじゃないですよ。そうだ。これあげますから、一緒に行きましょう」
しまりのない笑みを浮かべ、どこからともなく取り出したロリポップを、みどりはネツキの手に握らせる。そしてそのまま腕を取ると、霧へと向けて一歩を踏み出した。
ネツキの苛立ちが形を取るように、収めていた咒素が辺りに散る。
漂う起源の臭い。同道のため近くに来ていた亜人二人が、たまらず後退さる。
それを責めることはできまい。ネツキは試したのではないのだ。正真正銘、眷属すら慄く壊疽の呪い。亜人の身には重過ぎる。
車内から注がれる視線にも、緊張の色が滲む。
そんな中、みどりはネツキの腕を離さなかった。苦痛も表に出さず、困ったなと。少し眉尻を下げただけ。
それは瞠目に値するものだ。
一瞬。ネツキの瞳がユウトを映した。
小さな舌打ちの音。咒素に与えられていた意味が掻き消える。
「短い命、進んで散らすか。ニンゲン」
「それで信じてもらえるなら、安いものじゃないですか」
「糞が。いい根性してるぜ」
声に混じるのは感嘆と諦念。他の連中も、似たような手口でたらし込んだのだろう。
だが、こういう人間は信用してみたくもなる。ユウトもまた、たらし込まれた人間の一人になるのだろうか。
ふらり、と。みどりの身体が傾いだ。力なく解けた指先が空を掴む。
亜人たちが支えに入ろうと動くが、それより早くネツキの手が伸びていた。
「ったく。気を抜くのが早すぎるんじゃねえか」
先ほどとは逆。ネツキがみどりの腕を掴み、引き寄せたのだ。
そして地に伏すことを免れたみどりは今、ネツキの腕の中で酷く咳き込んでいた。
「わたしはまだ、何も答えちゃいないってのによ」
馬鹿にするような語調だが、声は柔らかい。
まったく。それでは答えているのと変わらない。
「それで。ここから先、どうするんだ。そんなんで大丈夫なのか」
背丈の差もあって、みどりはもう殆ど膝を着くような格好だった。ネツキが支えなければ、今にもへたり込んでしまうだろう。
「えへへー」
返ってくるのは緩んだ、と言うよりは、憔悴しきった笑み。
ただのヒトであれば間違いなく死んでいた。亜人で尖兵として抗咒の処置を受けているとは言え、数年分の時間は刈り取られたに違いない。意識を保っているだけでも、尋常ではない精神力と賞賛すべきだとは思うのだが。
「なあユウト。この糞ガキ、後先考えてないだけなんじゃねえのか」
「奇遇だな。俺もちょうど同じ答えに辿り着いたところだ」
とは言え、みどりはここで足を止めはしないだろう。止めるような奴が、命の先払いで信用を買おうなんて酔狂な真似、できようはずもない。
◆◆◆
案の定、計画に変更はなく、ユウトたち五人はツクバを目指し霧の中へと踏み入った。
多少の違いがあるとすれば、荷物を背負うはずのみどりが、荷物としてユウトに抱えられていることくらいだろう。扱いのぞんざいさに不平を漏らしたのも一度きりで、それからはユウトの肩に担がれ、大人しく体を休めている。なお、本来みどりの背負うはずだった荷物は、ネツキが背に積み上げている。
ランタンを手に、首都圏中央連絡自動車道を道なりに進む。
霧の中は、外で見た濃さに比して明るい。ありとあらゆる音と電波を遮る白の壁は、けれど月の光を淡く透かし、この世のものとも思えぬ奇観を生み出している。
とは言え霧は霧。月明かり程度では、見える距離にも限度がある。
そんな視界を遮る霧も、ネツキの周りにだけは切れ端ほども見ることが出来ない。ネツキの通ったあとからは、閑寂の女帝に起源を持つ咒素が失われていた。打ち消したと言うより、食い荒らしたと言う表現が近い。
それを為しているのは、ネツキの身に纏った、己の起源を具象化させた衣。
日本的な造形だ。但し、一五〇〇年以上も前の、だが。
気になって調べたことがある。推察も含むが、今も残る言葉で言えば下から順に白の単、萱草色の下袴、濃紺の裙、同色で袖のない合わせの胴衣、白い裾の短い小袖、赤と黒の糸で織った小忌衣。履物は下沓に下駄といったところか。合わせは左衽で、装飾といえば刺繍と紐飾り程度。
小忌衣には白で意匠が施されている他、朱華色の縁取りがなされ、そこに暗赤色でネツキの起源を示す紋様が描かれている。
これまでにその姿を眼にしたのは二回。いずれも眷属との衝突に際してだ。
具象衣とでも称すべきか。極小の領地に等しいそれは、本来の姿に戻らぬ折の、ネツキの戦装束だった。
領域への侵入も、とうに気づかれているだろう。しかし閑寂の女帝にそれらしい動きは見られない。それが少し、薄気味悪くもある。
霧に入ってからこちら、咒素を介した知覚はまともに機能していない。亜人たちはユウトとは知覚方法が少し違うようだが、感覚を閉ざされているのは同じらしく、時折響く魑魅魍魎の鳴声に身を堅くしては、神経質に辺りへ視線を這わせていた。
「ネツキさん、少しこちらに寄ってもらえないですか」
長らく静かにしていたみどりが、小さく声を上げた。背中でじたばたしているが、腕でも振っているのだろう。
「んぁ。寄っちまっていいのか」
「えっと。起源は少し弱めてください」
そのまま一歩距離を詰めたネツキに、みどりは待ったをかける。
「図々しい奴だよな、みどりって」
渋々咒素を絞りながら、ネツキが傍らに並んだ。それでも常より距離が遠いのは、みどりの体を慮ってのことだろう。それが気遣いだけからくるものかと聞かれれば、頷くこともできないが。
みどりの身体が満足に動く方が、後々自分達に都合が良い可能性が高い。そんな判断がそこにはある。並んだ折のネツキの目配せが、そのことを証明していた。
「今の内に、この国の現状について話しておきますね」
そんな軽い切り出しで、限られた人間しか知ることのないこの国の実情を、みどりは語り始める。
「現在日本は、というよりは宮内は、と言った方がより正確かもしれませんが、あるセイレイと対立関係にあります。その相手は、北欧に指定地を持つ、アルバスを共通の源流とする四氏族です」
「アルバスのイラエト、か」
それはユウトの独り言であったが、言葉を切ったみどりのその後を継ぐように、ネツキが気乗りしない口調で付け加える。
「イラエトってのは奴の名であると同時に、氏族そのものの名でもある。セイレイに於ける氏族は、一個のセイレイを主とし、その起源を分け与えた眷族を従とする集団だ。多くはこの下に、そうだな……ハチ目の虫に見られるような労働階級、を伴う」
適当な表現が思いつかなかったのだろう。後半やや疑問符が並んでいた。
これまでユウトが遭遇した眷属の実力から鑑みて、玄方で区分されていた、使い魔から兵卒にかけてを労働階級と言っているのだと思われる。
使い魔とは実体を持たない意識体で、既存の生物に入り込みその肉体を使役する。憑依霊という概念がより近いかもしれない。一方で兵卒とは、実体を持つ眷族未満のモノの総称だ。かつての大戦の際に区分けが進められたため、この呼称が今でも用いられているが、中にはまるで戦いに向かない個体も存在する。
なんにせよ、セイレイが四柱に眷属が二桁か三桁か。一国で相対するには、あまりにも絶望的な数だ。
「国内で確認されているのがイラエトだけなのは、私たちとしては助かっています」
災渦の惨状を知って助かっているとは、また大きく出たものだ。聞く限りでは、正面からぶつかる以上に厄介そうな相手だと言うのに。
「それで。そのイラエトが玄方の契約者の力の元になっているのは、つまるところそういうこと、なんだろ」
手を組んだのか取り込まれたのか。その違いはあれど、結果は似たようなものだ。玄方がイラエトに利用されていることに変わりはない。利用しているという可能性は、みどりの語った現状が否定に等しい。
だが肝心の部分がまだ話には出てきていない。なぜ、そうなったのか。
「やっぱり、実際に見てもらって正解だったみたいですね」
足が止まる。やけに手際がいいと思っていたのだ。
「全部お前の仕込みか」
「へえ。ホントいい根性してるぜ」
すぐ側までやってきたネツキが、みどりを半眼で睨む。
「ネツキさん。近い、近いです」
逃げるようにもがいているが、ろくに力が入っていない。本気じゃない、というのもあるのだろうが、虚実半々といったところか。
ともあれ、減らず口を叩けるのは余裕の出てきた証ではある。勿論。それにも限度というものはある。
「私が嬉々としてそんな計画を提案したと思っているんですかっ」
「ああ」「違うのか」
先を争うかのような肯定。
どうしてか、満面の笑みを湛えたみどりしか、頭には浮かばない。
「いやまあ、そうなんですけど。だって仕方ないじゃないですか。あの時点では、二人が本当にそうなのかも分からなかったし。そうだったとして、実力がどの程度かって問題もあるわけで。使い魔と入れ替わってる人たちも炙り出さなきゃいけなかったんです。それがぜんぶいっしょくたに解決できちゃうんですよ。よくやった私って、思っちゃうのは、別に悪いことじゃないと思いますっ」
別に早口と言うわけではない。ただ、言葉を挟む暇もなく、みどりは言いたいことを言い切る。我が強いと言うか、押しが強いと言うか。
これで有能でなかったら、本当に腹立たしいだけの小娘だ。
しかし、残念ながらみどりは有能だ。
弁明がてらに好き勝手言っているが、何れもみどりの立場であれば、必要とされる判断だろう。加えて監視者としての身分を保証させた上での殺害。これにはみどりが宮内の役割を継承する流れを、より潤滑にさせている。現にユウトはみどりが宮内の人間であるという可能性を、かなりの割合で保持し続けていた。
橡の殺害に至る過程、それこそアキミとの再会は、ユウトの危機感を煽るのにこの上ない働きをした。そして同時に、後のない手に出た玄方の焦りすら、状況から嗅ぎ取らせようとしている。
精鋭部隊を纏めるに足る器だ。直接の指揮は副官に任せていると言っていたが、戦略・戦術単位と、戦闘単位を適材適所として分担しているのだろう。それが更に隊の信頼を高める、と。抜け目のなさが末恐ろしい。将来、それはもう怖い女になることだろう。
そんなことを考えていたからか。
「それに。こうなった原因はユウトさんにあるんですよ」
不意の言葉に反応が遅れる。
「別に責めてるんじゃないです。あーでもやっぱり責めておこうかな。後先考えない誰かさんのお陰で、予定を大幅に前倒ししなくちゃならなくなったわけだし」
「なにを……」
みどりは何か重大なことを話そうとしている。そんな予感があった。
「三年前です。現世と幽世とを隔てる結界の、最後の要が失われました。ヒトにとっての希望って言い換えてもいいですね。でも、サエを頼みとしていたのは、ヒトだけじゃなかった」
この会話の流れで、必要としている存在なんて、ひとつしか思い当たらない。セイレイだ。
玄方に根を張ったイラエト。その理由がサエにあるのだとすれば。筋は通る。
だがそこには触れず、話は更に根源的な領域へと踏み込んでいく。
「カミとセイレイは元々同じモノだったんです。現世から幽世に放逐されたモノの生き残り。それがセイレイと呼ばれるモノの正体です。だからセイレイはカミを怖れ、恨み現世への帰還を望んでました。けど帰り着いた現世には、カミなんてものはもうサエを残すだけで、その残り滓みたいなヒトばかりが蠢いている。そのヒトも、幽世から漏れ出した咒素で、手を下すまでもなくご覧の有様です」
残念ながらカミは実在する。玄方に所属し、その眼でサエに蝕まれる少女を見てきたユウトには、否定できるものではない。それはネツキから力を与えられ、滅ぼした時も変わらなかった。漠然とした理解があった。或いはネツキの認識が、ユウトの認識に影響を及ぼしていたのかもしれない。
そして今も、理性は馬鹿なと一蹴する一方で、どこか感情は納得しているのだった。
「疑問には思いませんか。ヒトはどうしてセイレイに滅ぼされていないのかって。彼らにとってヒトはもう、優先すべき対象ではなくなっちゃったんです」
「それはつまり。セイレイには、ヒトにも増して優先すべき相手がいるってことだよな」
ユウトが視線を向けた先はネツキだった。みどりの顔は背中で見えないのだから、そうもなろう。一瞬嫌な顔をされるも、小さく溜息をついて口を開く。
「セイレイの歴史は闘争の歴史だ。咒素は追放されたモノたちにとっても、死をもたらす恐怖そのものだった。そんな中、己の起源を残すため異なる起源を食らい、知識を己がものとし、セイレイは絶望的な可能性から未来を掴み取ってきた。カミという脅威を失った今、セイレイの敵となるのは、同じセイレイだったってわけだ」
「セイレイは大きくふたつの派閥に分けられます。単一の起源を複数の個体で共有する、ミカの氏族と、分化した起源そのものを個体とする、それ以外の氏族です。そして幽世の勢力図は、その個体数と反比例するように、ミカの氏族側に大きく傾いています」
またミカの氏族か。
気づかれぬようにネツキを窺うと、既にそっぽを向いていて、我関せずの態度。
「セイレイの多くはこの状況を打開しようと試みているみたいですけど、群れであるミカの氏族に、個の集団に過ぎずまた猜疑心の強い他のセイレイたちでは、そもそも相手になりません。けどそんなセイレイたちにも、ミカの氏族を追い落とす千載一遇の機会が訪れたんです」
みどりもそんなネツキの様子には気づいているだろうが、気にせず言葉を続ける。
「ミカの氏族はその強大さ故に、現世へと渡るのに膨大な咒素を必要とします。かの災渦ですら、その起源の大半を切り捨てて顕現していたと言えば、その意味するところは分かってもらえますよね」
仮にミカの氏族がヒトに関心を持たなかったとしても、セイレイたちとの闘争の余波だけで、文明と呼べるものはこの地上から姿を消すことになるだろう。それくらいは想像に易い。
「当時に比べ、現世の咒素も増えました。けどそれは、ミカの氏族を顕現させるには到底足りない」
「事態の長期化に、結界の維持を必要としているってことか」
「はい。先んじてこちらの咒素を掌握することで、ミカの氏族を迎え撃つ、磐石の態勢を整えたいのだと思います」
「なるほどな。そしてサエを滅ぼした俺は、そいつらにとっての最大の誤算。また将来的にも脅威であり続ける、か」
だが現実はみどりの話とは少し異なった道を進んでいる。気づいていないわけでもあるまい。玄方はただ利用されているだけではない、ということなのだろうか。或いはアキミが。
そんな甘い望みを抱いた己をユウトは鼻で笑う。
「直接力を行使してこないのは、閑寂の女帝がこの国に居座っているからです」
「お前は結界を希望と言ったな。なら何故、その維持を望むイラエトではなく、破壊を望む閑寂の女帝と手を組む」
「本来、ミカの氏族を顕現させるには、この世界の咒素は薄すぎるんです。けど現に白静はこちらに存在しています。それが理由、とでも言えばいいですかね」
ネツキもまたミカの氏族だと、みどりは言っていた。そしてそのことを、ネツキは語りたがらない。
みどりが群れと称し、起源を共有すると言うミカの氏族。それなのに、ネツキと閑寂の女帝の起源は、ネツキとイラエト以上にまるで別物だ。
語られていない事実は、語られたそれに比して遥かに多い。
「ユウトさんが玄方を離れたのは、当代の依巫を救いたかったから、なんですよね」
眉間に皺が寄る。
ユウトに身の上話をした覚えはないし、今はあまり触れたくないことでもあった。
「アキミとの会話を聞いていたのか」
「玄方の契約者との、ですか。まさかですよ。聞き取れるような距離に居たら、気づかれちゃってますよ。エディさんへの依頼内容と、諸々からの推察です」
至極真っ当な答えに驚くと共に、エディは後で絞めておこうと堅く心に決める。
それにしてもとユウトは思う。相変わらずみどりの情報の出し方は嫌らしい。今の内になどと切り出しておいて、その実、ユウトが求めていた情報をかなりの量、絡めてきている。
エディに求めていた情報はあらかた出揃い、次の段階に踏み込もうとしていた。閑寂の女帝に会って伝える、など、本気で考えてはいなかったのだろう。ここまで伝えたところで、ユウトは、そしてネツキも、今更引き返したりしないと分かっているのだ。また同時に、これはユウトたちへの信頼の押し売りでもある。
どこまで考えてやっているのか。
左胸の辺りで揺れている尻を、モッズコート越しに叩く。
「ひゃぁ。ななな、なにするんですかっ」
「いや。なんだか腹が立って」
「え。えぇぇっ」
みどりの叫びが、白み始めた空に響いた。




