第0話「終わりの始まり」
沈みゆく日輪の流した紅血が、漆黒と濃紺に呑まれてゆく。
夜が訪れようとしていた。
ひたひたと。それはあたかも、黄泉から這い出した亡者が闇を象り、人々の傍らまでにじり寄る様を思わせる。
晩秋の冷気を孕んだ風が、野山を駆け抜ける。茂る茅の穂先を波が奔り、木々の梢を掻き鳴らしてはわずかに残った葉を散らす。
だが、そんな風雅として語られた音色にすらも、今やヒトは、おぞましき魑魅の吐息を夢想せずにはいられなかった。
動乱から始まった二十一世紀も、捧げられた膨大な血に支えられ、連綿と続くヒトの歴史と寸分違わず歩みを続け、そして二十の年を数えた。なれば、明くる十の年も同じように価値のない悲劇を重ねるものと、誰もがそう心の奥底では考えていた。
だが現は、蒙昧に肥大したヒトというイキモノを嘲弄する。重ねられた時すらも、その陰に秘された理を前に意味などないと、たやすくヒトを見放した。
それから五十あまりの年を重ねたこの時世。かつては振り払った闇にヒトは追いつかれ、今まさに飲み込まれんとしている。
大きく開かれた頤から滴り落ちた唾液が頬を濡らし、そうしてようやくヒトは知るのだった。自らを食い殺そうとしているものの正体が、自らが置き去りにした過去に他ならないことを。
それは隠だった。ヒトの眼に見えぬ、姿かたちを持たぬ怨念であった。時の彼方に忘れ去られし、否。埋没させられし祝福されざるモノ達の呪詛であった。
現世と幽世との狭間、綻びから染み出た咒素。異界の大気は、ただ在るというだけでヒトという種を蝕み、黄泉の住人へと引き込もうとする。
在りし日の隆盛は失われ、ただ栄華の残骸にすがり、ヒトは生きていた。
人家の明かりは、この日の本のことごとくから姿を消して久しい。
月の光を受け、化け物どもの奇声が山々をこだまし、わずか大地に取り残された人々の、心の臓を握り締める。
夜が訪れる。人ならざるものの謳歌する、そんな夜が訪れるのだ。
凶鳥の尾を引くような鳴き声が空を抜け、さらなる妖の声を誘う。姦しく、しかし秘かな狂騒が耳を賑やかしては、常と変わらず人々の夜寝をかき乱す。
だが、今夜はその様相もどこか違って見えた。
月影は厚く垂れ込めた雲間へと怯えるように身を隠し、大地を我がもの顔で跋扈する漆黒も、どこか余所々々しさが窺える。
古の時代、出雲の国と伯伎の国の名で呼ばれしふたつの県の、その堺。比婆の名を冠し山を内に抱き、環状に築かれた防壁により、外界と隔てられた土地がある。
三号甲都「ヤスギ」――それは人類に残された、数少ない楽土の名である。
丑三つ時にさしかかろうという刻限。その鋼とコンクリートに覆われた、人類の聖域が燃えていた。
比婆山の南西、都市の天蓋――外殻構造の一部が、なにかの冗談のように内へと崩れ落ち、胎に抱えた焔を外界へと覗かせている。
大火災であった。
歪に波打つ雲底を朱に染め、炎は轟々と吹き荒ぶ。
それは母たる伊邪那美を死に至らしめ、そして伊邪那岐に屠られた火之迦具土の、除かれることない怨嗟を思わせる。
その炎は、地下深奥にまで及んでいた。
コンクリート剥き出しの無機質な床、壁面が、唐突に岩壁へと変わる。その堺に少年がひとり、燃え盛る炎を前に佇んでいた。
いや、確かに数刻前までは少年であっただろう。だが彼は少年であることをやめた。人間であることをやめた。
人間ではない彼は、もはや少年などではありはしない。彼は修羅だ。男の修羅だ。
修羅の身には無数の傷が刻まれていた。全身に穿たれた銃創。溢れ出すのは、焔を映してなお暗い。とても血潮とは思えぬ、不吉に赤黒いどろりとした液状のなにか。
それはぶよぶよと蠢き糸を引きながら足元へと滴り落ちると、コンクリートを蝕み赤黒の水溜りへと変えてゆく。
紅が揺らめき、熱が修羅の頬を炙る。
嗅覚を刺激するのは、ヒトの血と肉が焦げる、嫌悪を感じずにはいられぬ臭い。
だが、そんな異臭も霞む臭気が、修羅の周りには満ちていた。嗅覚を介して伝わるものではない。全身の穴と言う穴から入り込み、脳髄に直接染み渡るかのような臭気。
今にも皮膚を内側から食い破り、滂沱と蛆が溢れ出てくる、そんな光景を否が応にも想像させる。
それは死臭であった。
見るものが見れば気づけただろう。壊疽の穢れを纏ったそれこそが、修羅の垂れ流す咒素の起源。そのものであることに。
石材の罅割れる音に続き、轟音がコンクリートの通路を満たす。腐敗と熱で脆くなった通路の天井部が、三度の崩落を招いたのだ。
先の二回に同じく、崩落で生じた穴から炎が降り注ぐ。コンクリート断面から覗く耐火性の炭素繊維と重合素材が、あろうことか容易く新たな炎の苗床となった。
いよいよ火勢は激しさを増す。
無造作に転がる死体も、壁際に並べられた機材も、今や炎に包まれている。
だがその舌先は修羅の身には及ばない。無策に近づいてはすぐさま引くことを繰り返すその様は、怯えを覚えた獣を思わせる。
そう。修羅を中心に広がる濃密な、指向性を持たない咒素に、その起源の持つ禍々しい性質に、炎までもが怯えているのだ。
炎は修羅から逃げるように、洞窟の際へと手を伸ばす。
紅に照らされた天然の岩壁には、人の手が加えられていた。色づけされた緋の紋様。文字とも図形ともつかぬ、十重二十重の意味を与えられた呪紋。しかし元は鮮やかな緋色をしていたそれらの大部分が、今は赤黒に変色していた。
ちりちりと、塗料に滲む咒素の起源を、修羅の起源が犯しているのだ。
洞窟の補強に使われている木材は、炎に包まれんとしている。洞窟最奥の祭壇に火が回るまで、さしたる時間もかかるまい。
ここに至り修羅が動いた。右足を一歩引き、背後を振り返ったのだ。
修羅の眼に映る祭壇は、すでに赤く染まっていた。だがそれは、断じて炎の照り返しなどではない。液体、イキモノの鮮血である。
赤の中央には死体があった。無残に胸を引き裂かれた、サエと呼ばれたモノの無惨で哀れな骸があった。
修羅の右手に握られた槍の穂先にも似た黒刃から、雫がその足元に華を散らす。修羅の体から零れ落ちた黒とは違う、鮮やかな赤い華。
真新しいその紅血は微かに咒素を帯び、黒に染まることに拒絶の意を示していた。
それは、サエと呼ばれたモノから漏れ出した、咒素の残骸に等しい。無惨な屍が、修羅の手によって作り出されたものである証左だ。
だが、修羅の意識に、それへと向けられる感情は微塵もない。
擦り切れた魂が見据えるのは、この場ではないどこか。永久にその手の届くことがなくなった、此岸の日々。
修羅には何もなかった。
修羅になったから何もかもを失い、何もかもを失うために修羅になった。
だから、地上へと戻るための道が炎によって閉ざされようと、修羅には心底どうでもよかった。
ならば、刹那その瞳によぎった苦悩はなんであろうか。滲んだ懊悩の色はなんであろうか。
何もかもを失った修羅であったが、彼が彼である限り、過去だけは彼を手放しはしない。
初めから分かりきった後悔だった。
今や名を呼ぶことすらも許されぬ少女を救うため、力を求め、そして修羅となることを選んだのだ。求めた力は彼の手の内にあり、そして彼は修羅として為すべきことを果たした。
サエを殺し尽くした今、少女は約束された絶望から解放されたのだ。
だと言うのに、後悔など。化生に指差しで笑われる。
ゆっくりと、修羅の見つめるその先で、祭壇へと火がまわる。幾多のヒトの歴史と、醜い希望と、そして愚かな欲望を糧にして、炎が燃える。
それは世界に対する修羅の、怨讐を映しているかのようにも思える。
ふと、足音が聞こえた。ともすれば、焼ける大気にかき消されそうになるその音は、だが確かにこの場所へと近づきつつあった。この状況下にあって乱れぬ歩調。よほど訓練された兵士か、そうでなければ融通の利かない阿呆に違いない。
後者には、修羅も心当たりがあった。
何者か。その問いはすぐさま明らかとなる。
炎の壁の向こう側で、足音はぴたりと止まり、修羅はゆっくりとそちらへ振り返る。
ゆらめく紅の帳を挟み修羅に対峙するのは、修羅の想像と違えない、彼の過去と深い縁を持つ、友であった少年。
腰に差した打刀は、破邪の秘文を彫りこんだ業物級。手にするのは、ヒトに向けるには過剰とも言える大型の自動式拳銃。
それは邪を滅する都市の守手、衛士たるその証。
ならば、少年の眼前に佇む修羅は、今や討ち果たすべき人類の怨敵に相違なかった。
だと言うのに、敵を屠るべきその腕は、不様にも身体の脇に垂れ落ちていた。
常の彼が持つ意志の強い面差し、未来を見据える瞳は、わずかに残る幼さに埋もれて、ただ少年らしいあどけなさの上に唖然とした表情を乗せている。
修羅は黙したまま、幽鬼の炯眼に瞬きの一間ほどの寂しさを映し、友を見据える。
自失は束の間に終わった。修羅の背後の惨状が、驚愕に揺れる少年の眼を焼いていた。愚直さで心を固めた彼は、彼の友へと詰問の言葉を口にする。
「どうやって、なんてことは聞かない。これで全てのヒトが死に絶えると決まったのだとしても、今はいい。だが何故だ」
込められているのは懐疑と、それに勝る弾劾。
「これまでのサエの苦しみはどうなる。そうやって、君はまたサエを悲しませるのか。どうなんだ。答えろ、ユウト!」
ユウト、と。再び名を得た修羅は、果たして少年の憤りが届いているのか、くつくつと喉の奥を震わせた。
「くくっ、サエ……サエか。そうだな、サエだ。っくはは」
それは、次第にひりつくような絶笑へと変わる。形容しがたいほどの自虐を含む響き。咒素を含んだ破滅的な笑声が、焼きつき焦げ澱んだ空気を裂く。
この場を目指す複数の息遣いが、咒素に乗り漂った。
感じ取ったのだろう、少年の銃把を握る手に力が篭る。灯る意思が、縁という名の錘を提げた銃口をじりじりと押し上げ、そしてついにその射線上に友を、ユウトを捉えた。
右の掌で顔を覆い、収まり切らぬ笑いに身を折るユウトへと、少年は最後の問いを叫ぶ。
「今一度問う。どうして君はここに居る。どうして、君はサエの隣に居ない」
ユウトの嘲笑が掻き消えた。掌が顔から剥がれ、ぶらりと垂れ下がる。
「あいつのことをサエと呼ぶな」
酷く乾いた声だった。
罅割れ、かすれ、朽ち果てた感情の残滓で形作った言葉。徒事と悟った諦念。
しかしユウトの瞳の中の炎は、声とは裏腹に爛々と灯っていた。
靴音の群れが耳朶に触れる。
相手は抗咒素強化歩兵(尖兵)であろう。今のユウトには荷が重い数だ。そしてそれは、当人が最もよく理解していた。
「……アキミ」
友だった者の名を呼ぶ。
ただ一言、伝えておかねばならないことがあった。
「玄方の奴らを信用するな」
言い切るより早く、ユウトの頭上で咒素が収束する。それは赤と黒の奔流となり、天井へと殺到。雑多な構成素材を一緒くたに溶融した。
わずかに溶け切らぬ固体の混じった赤と黒の流体が、ユウトとアキミの間にどろりと、吐瀉物のごとく二度三度と降り注ぐ。
そうして濁流が収まった時には、既にその場からユウトの姿は消えていたのであった。