プロローグ:再臨
それは夜闇に紛れぬほどの力を持った、巨大な黒だった。
巨体は夜との境界線が見えない真の黒。一目みただけではその全容は把握できないが、羽ばたく翼の節々と鋭利な爪牙の白い輝きが、遥かな頭上から足元の弱者共を睨めつける双眸の赤が、その生物の強大さを万の言葉よりも雄大に表していた。
その偉大な生き物の名は、ドラゴン。
これが城下町の広場で行われている演劇でなければ、姫と国王の隣で舞台を観覧していた瑛士も腰を抜かしていたかもしれない。
その日は国をあげての祭りだった。
しかし建国や豊穣を祭り上げるわけではない。
二百年の昔、ヤの国がヤーシャの国として成り上がった時代。
この国を襲ったドラゴンに関わる祝いの日であった。
ドラゴンが求めるものはただ一つ。
力?
そんなものは生まれた時から持っている。
誉れ?
ただ息吹を吐き出すだけで崇められる彼こそが名望そのものに他ならない。
では、富だろうか?
まさしく。ドラゴンはそれを求めて生きる生物だった。
価値あるものをひたすらに蒐集する。
金銀財宝ことごとく。
あまねく美男美女を。
形にならぬ力と空想の威信を、己のそれらと等しい程に巨大に現すことにこそ喜びを感じるのが竜という生物の習性。
山奥で数十年ぶりに眠りから覚めた竜は、下界の変化を知った。
群雄割拠といえば聞こえは良いが、ひとつにまとまることの出来ない無能な人間どもの集団達。
その中で、ひとつ頭の抜けた存在があるという。
「そう、貴様らだ。ヤーシャの国の王よ」
魔法を使って拡声された低く重い声が、竜の口元から放たれる。
瑛士の右横には現代のヤーシャ王が天蓋を外した馬車の座席に座ってそれを観覧しているのだが、舞台の上には初代ヤーシャ王を演じる演者が、いさましくドラゴンに剣を向けていた。
このまま勇ましくドラゴンに立ち向かうのかと思いきや、彼はドラゴンの爪で深い傷を負ってしまう。
「次なる満月の晩に、身を清めた姫を我に捧げよ。逆らえばこの国が、今の貴様のように引き裂かれ、灰燼に帰すと知れ」
今どきゲームやアニメでも聞かないベタなセリフだなぁ、と瑛士は苦笑いを浮かべるが、舞台と広場の雰囲気は緊張に張り詰めている。
子供たちはともかく、毎年祭りで見ているはずの大人達の緊張感も、かなりのものだ。
瑛士はゆったりとリラックスしながら観客の様子も含めて演劇を楽しんでいたのだが、姫からかけられた一言で広場の誰よりも緊張に固まることになる。
「エンジ様。そろそろ出番ですよ」
そう。彼はこの後、一人の演者としてこの舞台に参加しなければならないのだ。
王に代わり、竜を討った魔法技師の役として。
そして二百年の隔世を経て、再び異世界より召喚された今代の魔法技師のお披露目として。
「ほ、本当に大丈夫なんですか?」
「大丈夫です。セリフは演者がやってくれますから。エンジ様は、立ち上がって、竜の口から放たれる火の玉を消すシーンで、魔導具を使って頂けるだけで良いのです」
ホントかなぁ、という軽口は緊張で引き絞られた胃が抑えこんでしまい、言葉にならなかった。
だが、そんなことを話している間に舞台の上では物語が進んでいく。
姫に竜退治と王の敵討を誓い、いざ竜と対峙せん。
とはいえそこは演劇。竜の吐き出す炎は伝承とは比べ物にならないほど小さく、バレーボールほどの火球を風や水で消すのが例年の舞台とのことだ。
前口上が終わる。
魔法で作られたライトが、天を仰ぐドラゴンと、馬車の上で立ち上がった瑛士に向けられた。
空に向けて吼えるドラゴンの口元に小さな火の玉が出来る。
あの程度か、案外大したこと無いな……そんな風に思っていた瑛士だったが、異変はこの時既に起こっていた。
「おい。誰ぞいるか」
慌てた声で王が馬車の側に侍る兵を呼んだ。
どうしたんだろう、と一瞬だけよそ見をしてから正面へ視線へ戻す。
そこには直径数メートルにも及ぶ巨大な豪炎の球があった。
「あの演者共を捕らえろ!!」
王の号令に兵士たちが近づこうとするが、広場をうめつくすほどの民衆のせいで走りだすことも出来ない。
民衆は広場でのんきにその火玉を見上げている。
この後の惨状を思うヤーシャ王は大いに焦っていたのだが、同じく危険を理解した瑛士の質問は間抜けにもほどがあるものだった。
「ヤーシャ王。あれは本物のドラゴンじゃないですよね?」
「当たり前だろう!あれはテロリストか暗殺者の魔法だ!!」
それならば。
「約束通りに。お任せ下さい、ヤーシャ王」
先ほどまで演劇に緊張していた男とはまるで別人のような、強い意思が言葉に込められていた。
「いいだろう。やってみせろ、エンジ」
逃げろ、という号令は発されなかった。
広場全てを惨場とさせるに十分な火球が振りかぶられる。
全員の注目を集めた今生の魔法技師エンジが、左手の人差し指に嵌めた指輪を炎に向ける。
『オブジェクト破壊処理、起動』
かつて魔法技師を異世界より召喚して成長した国、ヤーシャ。
魔法技師は魔導具を作り、国を発展させた。しかし魔法の技術は誰にも伝えず世を去った。
国力は衰え、魔導具の国は斜陽の時代を迎えていた。
しかして彼の国は再び魔法技師を召喚した。
大陸に名を馳せ、頓に二度目は歴史に残る黄金期を迎えることとなる。
栄光の日々は、彼が唇を震わせたこの瞬間から始まった。