7.護衛失格
ユリウスたちが王宮から出るのは容易であった。
王族であるジークムントとその護衛であるユリウスには、ジークムントの言葉どおり、何の通行制限もかかっていないからだ。
昼前に王宮に来た時同様、馬車に乗っていればそれだけで門を通過することができる。
だが、馬車の窓から門を通る人間を検査しているのがすぐ側に見えた。貴族やその従者らしき人物、通いの使用人や出入りの商人らしき人々が門の内と外、両方に行列を作って検査を待っている。多くの馬車が門の外で、やはり列を作って待機していた。
王宮に入る時は突然連れてこられた混乱のせいで気付かなかっただけで、その時も同じような光景が繰り広げられていたのだろうとユリウスは思った。
検査の内容も馬車の中からよく見える。荷物の中はもちろん、男は上着を脱がされて体を触って調べられているようだ。女性ばかりが並んでいる列もあるが、そこは女性の協会員が検査をしている。
検査される側もだが、する側の協会警備部員もげんなりとした顔つきである。その理由はすぐにユリウスにも分かった。
「うわ、本当に一人一人に魔術をかけて検査してるんですね」
荷物を調べている警備部員の横でもう一人が詠唱して、貴族らしい男の足の下に小さな白色の魔導紋を展開していた。
「『紫の淑女』の反応を魔術で調べているそうだ。私には分からないが、相当大変なのか。皆ひどい顔をしている」
「魔術を使えない方には想像しにくいみたいですけど、あの程度の小さな魔術でもちょっとは疲れるんです。それを毎日何百人にもかけるとなったら、何人で交代してもかなり厳しいと思います。数日したらこの検査自体できなくなるかも……」
ふうん、とジークムントが腕を組んだ。
「侯爵夫人にその情報が入らなければいいが。いや、逆に」
言うや否や、ジークムントは馬車を停止させる。それから窓から顔を出し、警備部の魔術師たちに叫んだ。
「おーい! ちょっと!」
彼の呼びかけに気付いて駆け寄ってきたのは四十代程度の警備部員だった。警備部の中でもそれなりの地位にいるのだろう、直接検査をするのではなくそれを見回って監督をしている様子だった。
「君、頼みがあるんだが」
「はい、何なりと」
馬車の扉を開け、ジークムントは上体を折って馬車の下に立つ警備部員の顔に自身の顔を近付け、何事か耳打ちする。
「それは一体……」
耳打ちを続けていたジークムントが体を起こすと、一瞬考えるように黙り込んだ男だったが、疲れを浮かべていた瞳に何か別の色をにじませた。
「かしこまりました」
男は胸に手を当て、貴族らしい振る舞いでお辞儀をしてから馬車を離れた。ジークムントが御者に合図をしながら扉を閉めれば、ややあって再び馬車が動き始める。
ユリウスは首を傾げた。
「一体何を……?」
「まあ明日になれば分かるかもしれない」
それから二人を乗せた馬車は、夕日の赤く柔らかな光へと向かってゆっくりと石畳の街を行く。
車内には穏やかな空気が流れているが、二人の間に会話はない。
交わされる言葉がないからこそ平穏なのかもしれない。それは、口を開けばジークムントがおかしなことを言い出すからだとか、自身が声を裏返すからだとか、そういうことではないとユリウスは思う。
無理に口を利かずともよい空気が生まれたような気がするのだ。
今日初めて言葉を交わしたのではなく、まるで以前から互いを深く知っていたかのような馴染んだ雰囲気が、二人を乗せた馬車に暖かな色合いの光と共に満ちた。
だが、突如差し込んだ影がユリウスの顔に闇を落とす。
(でも僕は)
瞬間、思い出された記憶に心臓が跳ね上がった。
(怪盗ハーゲンから殿下を守れなかったじゃないか。本当に殺されていたかもしれない。なのに、護衛失格なのに、こんな風にくつろいだりして……)
膝の上に置いた両の拳に、知らず知らずのうちに力が篭る。視線を感じて顔を上げれば、つい今まで窓の外を眺めていたはずのジークムントがユリウスの顔を真正面から見据えていた。
しかし、薔薇の花弁を思わせる鮮やかな唇は微動だにしなかった。
「………………」
蒼く澄んだ視線に心を探られているようで落ち着かない。
(だめだ……)
ユリウスは気付かないうちに、拳にこれ以上ないというほど力を込めていた。
(そうだ、やっぱり僕みたいな見た目も実力も全然だめですぐに声のひっくり返るおどおどした奴が、第二王子で怪盗ハーゲンにも一目置かれてこんな綺麗で変わり者ででも話を聞いている限り賢いかもしれない人の護衛なんて、そんなことあっていい訳ないだろ……!)
いたたまれなくなったユリウスは目を伏せ、ジークムントから逃げた。
(殿下だって、僕のこと使えない奴だって思ったはずだ)
追ってくるものはない。声も視線も、投げかけられるものはなかった。
それから二人は別の方向を見たまま、離宮に着くまで一度も口を開かなかった。
おかえりなさいませ、と二人を離宮の玄関にて出迎えたのは白髪のかくしゃくとした老人であった。
格好を見るに、おそらくジークムントの家令か執事と言ったところだろう。上品そうな顔立ちにこれ以上ないというほどの笑みを浮かべている。
その背筋はさすが第二王子の使用人らしくきちんと伸びているが、相当な歳に見える。七十を過ぎているかもしれないとユリウスは思った。
「ジークムント様、こちらの方がユリウス様ですね」
「そうだ。荷物は?」
「お部屋に運ばせていただきました」
ジークムントは背中で手を握って、いかにも貴族の主人めいた様子で玄関に入り、奥の階段へ向かう。その背後をユリウス、使用人の順で追って三人は階段を昇った。
ジークムントは二人に自己紹介のため立ち止まる時間を与えるつもりはないらしい。ユリウスは階段を昇りながら付いてくる老人に挨拶をした。
「あ、あの、初めまして、ユリウス・シェリングです」
「シュテファン・バイアーと申します。ジークムント様の家令という名の便利屋で、この大変使用人の少ないお屋敷の諸事を一手に引き受けさせていただいております」
この老人もなかなか一筋縄ではいかないようだ。ユリウスはちらりとジークムントの背中を見上げたが、そこからは何も読み取れない。シュテファンの言動はいつもどおり、ということなのだろう。
「荷物を解いたら適当に屋敷の案内をしてやれ」
ジークムントの言葉に、シュテファンはにこやかに承諾の返事をする。
「ただその前に、肩の汚れた制服はお召し変えください」
階段を昇りきって少し廊下を行ったところでジークムントが足を止め、そこにある扉を開く。中に入って窓辺まで進むと、扉の前で突っ立っていたユリウスを手招きした。
「助手、入らないか。君の部屋だぞ」
「え、ええっ?」
ユリウスは廊下から部屋の中を見回した。落ち着いた色合いで構成されたてはいるが、とても広く高級感に溢れる部屋であった。
薄い灰色がかった水色の壁紙には、大きな植物の柄がまるで刺繍のように光沢でもって浮かび上がっており、同じ色の手触りのよさそうな布地で覆われた寝台や長椅子も物静かに体を横たえている。
その他の置かれた家具や調度品は使い古された様子で、ユリウスよりもずっと長い年月を生きているものばかりだろうが、質が良く、手入れの行き届いていていることが明らかだ。
白磁の花瓶には切ったばかりらしい新鮮な花が活けられて、芳しい香りで部屋を満たそうとしている。
とにかく、自分には不釣合いな部屋だとユリウスは思った。
「いや、殿下、この部屋は」
「気に入らないのか。悪くない内装だと思うが」
「いえあの、もっとこう……使用人みたいな部屋は……」
ユリウスの言葉を笑顔で、しかしぴしゃりと跳ねつけたのはシュテファンである。
「ユリウス様、使用人みたいな部屋とやらにあなた様をお通しする訳には参りません。あなた様はジークムント様の護衛であり、同時にこの家にとってはお客様です」
「で、でも僕は女王陛下の個人的な魔術師集団である協会に所属していて……」
だから王家の使用人のようなものなので、とは言わせてもらえない。
「女王陛下の使用人だとして、ジークムント様の使用人ではいらっしゃらないのです」
「そんなことは問題ではない」
ジークムントが腕を組んでユリウスに向かって来る。何をされるのかと若干身構えたが、彼はただユリウスの脇を通って廊下に出、少し向こう、左隣にある扉を開けて中に入ってしまった。
「え……?」
「さあ、お召し替えになって、荷物を解きましょう」
シュテファンに促され、ユリウスは仕方なく部屋に足を踏み入れた。と、その時突然部屋の左奥にあった扉が開いてジークムントが顔を覗かせる。にやにやと、何だかいたずら小僧のような笑い方をしていた。
「うわ、殿下!」
「いいか助手、この扉は私の部屋と繋がっている。何か事件が起こったらすぐにこの扉を叩くんだ!」
「――殿下の部屋?」
お隣はジークムント様の寝室でございます、とのシュテファンの言葉がどこか遠くから聞こえてくるように感じられる。
「そ、そんなこと、僕なんかが隣の部屋って、いけませんそんな……!」
「何を寝ぼけたことを言ってるんだ。事件はいつどこで起こるか分からない。それがこの離宮で、就寝中だったとしてもだ。そんな時に探偵の傍らに助手がいなければ困るだろう」
めまいを感じ、ユリウスは手のひらで顔を覆った。ジークムントにとっては、そういうことが問題であるらしい。
(そんな、まさか殿下の隣の部屋で寝起きするなんて……)
ありえない。
まさか自分の身にそんなことが起ころうとは、昨晩寮の寝台に入った時には思いもしなかったことだ。護衛に任命されることも、護衛でなく助手だと言われることも、離宮のジークムントの寝室の隣に豪華な私室を与えられることも。
(だめだ、これ以上何かあったら僕の頭が爆発する!)
ユリウスが頭を抱えるのを見て、シュテファンが笑みを浮かべたまま、二度手を打った。
「さあ、早く荷物を解いてしまいましょう」
ユリウスが着替え、シュテファンという手伝いと共に、教育部の寮から誰かしらが運んできてくれたらしい荷物を解いている間、ジークムントはうろうろと歩き回ってユリウスの私服に一々けちをつけたり、教育部でユリウスが使っていた拳銃と歩兵銃を構えて遊んでみたりと、二人の邪魔ばかりをして過ごしていた。その後、屋敷を一通り見て回る間、ジークムントは黙って後ろからついてくるだけであった。
逆に晩餐の間は彼が一人で喋り、ユリウスはほとんど相槌を打っているばかりだった。
もちろんジークムントの話す内容が珍しい犬の種類についてだとか薔薇によくある病だとか、そんな訳の分からない、どう返事をして良いかユリウスには判断のつかないものばかりだったからだというのも、また、出てくる食事が小前菜から最後の甘味までどれも舌がとろけるような美味であり、ユリウスの気分を妙にそわそわとさせてしまったというのも、彼があまり口を利けなかった理由ではある。
だが、それ以上に彼を無口にさせた理由があった。
(……これ以上何かある前に言わないと)
護衛の任を解いてください、と。その機会を窺っていたのだ。
自分の実力も見た目も性格も振舞いも、何もかもがジークムントを取り巻くものにそぐわない。僕が殿下の護衛なんて、やっぱりだめだ。
食後の珈琲を飲んで気分を落ち着け、膝の上で拳を握り締めるとユリウスは口を開いた。
「あ、あの、殿下」
「今日は疲れた。もう寝る。助手、君も早く寝るんだ。明日は今日より疲れるぞ」
彼の言葉はあっという間に弾き返されてしまった。小さな食卓の向かいで、ジークムントは空になったカップを置き、席を立ち上がって出て行く。
まるでユリウスの言葉から逃れるようにそそくさと。
「………………」
ユリウスはその背中に呼びかけることもできず、静かになった食卓で一人うなだれる。
(何で僕はこうなんだ……)
その思いは夜着に着替えて寝台にもぐりこんでも彼の心を占めていた。
ユリウスは長い回廊を一人で歩いていた。
一定間隔で置かれた誰のものとも知れない胸像の目から逃れるように、白と黒の正方形が互い違いに並ぶ床に視線を落として進む。
彼は王族の護衛のみに許される、黒い燕尾の裾をした制服を着ていた。その飾著や首のスカーフに感じる窮屈さにうんざりしながらも、回廊の奥にある白い両開きの扉を目指す。
左手に見える庭園には東屋があり、その前に人影がある。貴族の令嬢が数人集まり、談笑しているようだ。ユリウスは足を止めて彼女らの声に耳を傾けた。
「オスカー様ってとても素敵なお方ね」
「本当。あんなにお美しい殿方、他にはいらっしゃらないわ」
「王太子であらせられるルートヴィヒ様に相応しい護衛ね」
「誰かとは大違いですわ」
扇で口元を隠し、くすくすと笑いあった令嬢たちは、突然視線をユリウスへと向けた。
「…………!」
今まで楽しげにオスカーを誉めそやしていたのとは打って変わって、彼女らがユリウスに向けるのは侮蔑の目つきである。
いたたまれず顔を逸らし、ユリウスは再び奥の扉へと足を進める。
右手すぐ前方にある回廊の分かれ道の角で、数人の男達が談笑している。協会の制服を着た若者たちだ。そちらへと真っ直ぐに歩きながらユリウスは彼らの声に耳を傾けた。
「フランツ様はとても有能な方だな」
「本当に。あんなにやり手の協会員は、他にはいらっしゃらない」
「王配殿下に相応しい護衛だ」
「誰かとは大違いだな」
お互いの言葉に頷きあった協会員たちは、突然視線をユリウスに向けた。
「…………!」
今まで楽しげにフランツを誉めそやしていたのとは打って変わって、彼らがユリウスに向けるのは侮蔑の目つきである。
いたたまれず顔を逸らし、ユリウスは奥の扉めがけて走り出した。
(僕だって、好きで平凡なんじゃない!)
努力したってかなわないことはある。勉強しても訓練しても追いつけないものはある。だったら別に普通でいいじゃないか。無理に必死にならなくたって、僕には僕のいるべき場所があって、本当は護衛なんてそれ相応の優秀な人が就くべき仕事なんだから――
すぐに辿りついた白い扉を勢いに任せて開け放ち、主人になったばかりの人物を呼ぶ。
「殿下、ジークムント殿下!」
「助手!」
重い暗闇の垂れ込めた部屋の奥から、ジークムントの悲鳴にも似た声が響いた。しかし扉を開けているにもかかわらず部屋の中は月のない夜のようで、どこに彼がいるのか見えない。焦りばかりがユリウスを責め立てる。
「殿下、どちらに――」
一歩踏み出し、手探りで彼を探そうとするものの、何一つ手に触れるものもなく、ユリウスはよたよたと闇の中を惑うしかない。
「殿下!」
呼びかけに応える声はない。どうすればいいのか、混乱するユリウスの耳元で誰かが囁き始めた。
「第二十二の炎の馬車がその道行きを示し我らの瞳を開かん」
魔術の詠唱だ。それが終わった瞬間、部屋のあちこちで蝋燭に灯がともる。明るく照らす光の中、振り返れば銀糸の髪の青年がユリウスのすぐ後ろに立っていた。
「オスカーさん!」
しかし美貌の青年はユリウスに視線もくれず、腰に佩いていた剣を抜く。何をするつもりなのかと、走り出したオスカーの姿を目で追えば、彼の向かう先には高い天井から吊るされた人影があった。
ジークムントだ。闇の中から下りてきた一本の縄で縛られ、ユリウスの身長よりも高い場所に爪先を垂らしている。
そしてその下に黒い影が立っている。影は顔に仮面をつけていた。オスカーは剣を片手にその影、怪盗ハーゲンに突進し、一撃でその心臓を突いた。ハーゲンは悲鳴を上げることすらせず、大量の黒い薔薇の花弁となって舞散り、消え去った。
「殿下!」
吊るされたジークムントへ走り寄ろうとしたユリウスの背後で、再び声がする。
「どけ」
息を飲み体をよじりながら振り返れば、フランツがジークムントへ向けて長い歩兵銃を構えている。
「フランツさん!」
彼が躊躇うことなく引金を引いたその刹那、ジークムントを吊るしていた縄が千切れた。
「あ――」
ユリウスが動くより早く、落下するジークムントを抱きとめたのはオスカーとフランツの二人だった。彼らに支えられ床にしっかりと足をついたジークムントはほっとしたように息を吐く。
「殿下、お怪我は!」
ようやく側へと駆け寄ったユリウスに底冷えする蒼い瞳を向け、ジークムントが言い放った。
「役立たず」
「え」
美しい眉を寄せ、大きな目に濃い蔑みを浮かべている。
「何一つ大したことのない君を護衛になど選ぶのではなかった。もういい。怪盗ハーゲンから私を守れないような役立たずに用はない」
ユリウスは銃で心臓を撃ち抜かれたような衝撃に、一瞬言葉を失う。そんなことは当然分かっていたことだ。僕は殿下に相応しくないと、何度も思ったことだ。
それでも彼の口からはっきりと役立たずと告げられ、ユリウスの膝が震える。急速に乾く喉を意識しながら、何とか声を絞り出した。
「で、殿下、僕は」
ジークムントはユリウスの言葉を振り払うように踵を返し、闇の中へと歩き出す。
「ま……待ってください殿下、殿下!」
手を伸ばしても、叫んでも、ジークムントは振り返らない。
「殿下……!」
「おい」
肩を揺さぶられる衝撃に、詰まっていた呼吸が再開される――とユリウスは感じた。目を見開けば、すぐ近くに呼んでいたはずの人物の顔があった。
「でん、か?」
「目が覚めたか助手」
ユリウスを観察するように、ジークムントがじっと見つめている。周囲に視線を走らせれば、ユリウスは淡い月光の差し込む薄暗い部屋の中、自分が寝台に横たわっていることを知った。
覗き込んでいるジークムントは白い夜着である。部屋の奥の、隣室に続く扉が開いていた。そこから入ってきたらしい。
「……夢?」
今しがた自分が体験した出来事が夢だったと気付き、ユリウスは上体を起こす。うなされたせいで、せっかくの肌触りの良い夜着が汗だくである。
しかしユリウスにとってそれは大した問題ではなかった。とにかく今の出来事が、ジークムントに突きつけられた言葉が、現実でなかったことに安堵を感じるばかりだ。
「殿下、どうしてここに」
「うなされる大声が隣にまで聞こえてきた。殿下殿下と叫んでいたぞ」
静かな口調で答えた後、ジークムントは逡巡するように唇を開けたり閉じたりを繰り返す。
しばらくそうしてから、闇に紛れて消えてしまいそうな小さな声でユリウスに問いかけた。
「お前は私が嫌いなのか」
その言葉の意味が分からず、月光を受けて薄く輝くジークムントの顔を見つめるしかできない。すると彼が再び口を開いた。
「迷惑か」
「えっ」
ユリウスの驚きの篭った声が引金になったように、ジークムントは渋い顔を背けてしまう。
「もういい。寝る」
そのまま彼は開けっ放しの扉へと向かい、隣室に入って扉を閉めてしまった。呆然とそれを見ていたユリウスはようやく我に返り、寝台から飛び降りた。
「あの、殿下!」
扉の前で声をかけてみても返事はない。扉を叩き、声を張り上げる。
「あ、殿下、あの、僕は――」
「うるさい、寝られない!」
「す、みません……!」
ジークムントの腹立たしげな返答に、ユリウスは扉に触れていた手を離し、後ろへと下がった。
「………………」
しばらくそこで待っても、それ以上ジークムントから、怒りを込めたものにしろ彼らしい意味の分からないものにしろ、何の声も返ってくることはなかった。
ユリウスは数分立ち尽くした末、王族の寝室に押し入ることも、再び声をかけることもできないと判断し、とぼとぼと寝台へと戻った。
(嫌いなのか、って……)
なぜそんなことを訊くのだろう。
(僕のことを、どうせ護衛もできない奴だと思ってるのに、何でそんなこと)
ユリウスはぼんやりと考えながら、いつの間にか深い眠りの海に沈んでいった。
翌朝、ユリウスはシュテファンの声で目覚めた。身支度を整え、運ばれてきた案の定豪華な朝食をあまり食べ物を欲していない胃に無理矢理詰め込み、剣帯に愛用の剣と拳銃を装着して部屋を出る。
隣の部屋、ジークムントの寝室からは何の音も聞こえない。まだ眠っていてはいけないからと声はかけず、しかし部屋に戻る気にもなれず、ユリウスは階下へと降りて玄関前に佇んだ。
屋敷の中はひどく静まり返っており、それが逆に落ち着かない。歳のいった女中や使用人が時折姿を見せるが、皆物静かな振る舞いでユリウスに挨拶をするだけで、誰も彼のひどく疲れた顔を指摘しなかった。
「助手! どこだ!」
永遠にも感じられた静寂を打ち破ったのは階上から響く喇叭のように明朗なジークムントの声であった。助手、助手、と大声を張り上げて呼んでいる。急いで立ち上がり、階段を駆け上ると私室の前でジークムントが腰に手を当てて立っていた。
昨日の軍服風のものから打って変わって、銀糸の刺繍が施された青い華やかな上着である。一見して上流階級の、その中でも上流に属する世間知らずのお坊ちゃまという風だ。見目が良すぎるせいで、逆にどこか頭が悪そうに見える。
「あ、おはようございます、殿下、あの昨晩は」
「これを持て」
「えっ?」
ジークムントがにこにこと笑みながら指す彼の足元には、大きな旅行鞄と食事を入れるための蓋付きのかごが置かれている。それをユリウスが持ち上げるのを確認すると、ジークムントは胸を張って廊下を歩き出した。