4.平凡な自分と非凡な人々
ルートヴィヒを先頭にしばらく誰も無言で歩いていたが、建物を出たところでふいにジークムントが声を潜めて問いかける。
「母上は本当に心を痛めていらっしゃるのですか?」
「まあ少々は。あの石が海外にでも流失すればそれは我が国にとって大きな損失となる上、それが怪盗ハーゲンという犯罪者によって王宮で盗まれたということが広まれば、王都魔導保安協会、ひいては女王陛下の威信に関わるからね」
「ふうん」
「それにしても頑固な女性だ」
「えっ?」
ルートヴィヒの言葉に、最後尾を歩いていたユリウスはつい聞き返してしまう。
「石を見せて欲しいとお願いしても、『翠の騎士』しか見せてもらえなかったよ」
ユリウスは穏やかに笑ってそう言うが、あれは明らかにお願いではなく命令であった。少し怖い人だと思いながら、ユリウスは曖昧に笑って返すしかない。
「しかしおかしいな」
ジークムントが不意に腕を組む。
「怪盗ハーゲンは、自分でそう名乗っている訳ではないけど、今までの盗みを見る限り義賊だ。盗んだ金貨や宝石を貧しい人間にばら撒いているそうだ。それも、盗んでばら撒いたものは後々回収されないように、盗品だと証明できそうにないものばかり。なのに今回は分けられない上に一見してそれだと分かる大きな宝石だけを盗んで、他の貴重品や金貨には目もくれていない」
「それは……『紫の淑女』を売ってお金に換えるつもりなら」
ユリウスの言葉に、ジークムントは足を止めた。
「そんなことをすれば足が付くかもしれない。あれだけの宝石だぞ。買う方だって危険が大きい。あの抜け目のない怪盗ハーゲンがそんなことをするだろうか」
「あ、そうですね。確かに」
真剣に悩む二人に、ルートヴィヒが苦笑いする。
「犯罪者の考えることなど分からないものだよ。……それにしても、ジーク、あまり自分の護衛を振り回してはいけないよ。彼は今日着任したばかりだと聞いたが」
「兄上、このユリウスは護衛ではなく助手です」
「いえあの、僕は――」
ルートヴィヒは同時に喋りだした弟とその護衛を交互に見る。それから再び歩き出し、別の建物の中へと足を踏み入れながら口を開いた。
「順番に聞こうか。ジーク」
「はい、兄上。彼は助手です」
「何をするための助手かな?」
「私が調査をするためのです」
「調査、それは何の調査?」
「怪盗ハーゲンに盗まれた『紫の淑女』の行方、また怪盗ハーゲンを捕らえるための調査です」
「どうして君がわざわざその調査を?」
要点が上手く引き出される会話をそこまで呆然と聞いていたユリウスは、不意に我に返る。一体自分がジークムントから訳の分からない本の話をされたのは何だったのだと悲しくなった。
ジークムントが一瞬黙り込み、逡巡の様子を見せてから言った。
「私は探偵をしたいのです、兄上」
「はい?」
思いもよらぬジークムントの返答に、ユリウスはつい口を挟んでしまった。
「探偵って、あの、本の探偵ですか!?」
「そう。探偵。『探偵ブルーノの活躍』に出てきた、事件を解決するあの探偵だ」
なるほど、とルートヴィヒは笑顔で振り返る。
「それで助手が必要ということだね。あの本は私も読んだが、助手の立場の男性の回顧録という形で書かれていた」
「そうです兄上、探偵には助手が必要でしょう。それが魔術師で、なおかつ剣も銃も一応使えるとなれば使えないよりは使い勝手がいいでしょう」
「い、一応って……そんな、僕はこれでもこの国最高峰と言われる学校で四年も――」
ユリウスの小さな抗議は、ジークムントの熱弁に圧殺される。
「私はただ探偵をしたいのではありません。対決です。探偵にはその生き様に相応しい宿敵が必要です。私の場合はそれが怪盗ハーゲンだった。だから持てる力の全てをかけて奴を追いかける! 分かったか、助手!」
「ひっ」
鼻先に人差し指を突きつけられ、ユリウスは小さく悲鳴を上げた。
「君は助手としてこの私の活躍を時に間抜けな様で引き立たせ、時に獅子奮迅の働きで助け、記録し、最終的に出版するんだ!」
「ななな何を言って――」
無茶苦茶だ。予想外に無茶苦茶で訳が分からなかった。
「いやあの、僕は……僕は!」
「僕は?」
ジークムントに小首を傾げられ、それでもユリウスの口からは言葉が出なかった。
助手なんかじゃないと宣言して、それで胸を張って僕は護衛だと言えるか。
護衛だと胸を張ってジークムントの後ろを歩ける力量を持ち合わせているのか。
確かに、国内最高峰の魔術師養成機関の、難関と言われる入学試験に合格し、血のにじむような訓練から脱落せず、無事に卒業試験にも合格した。魔術師としては選り抜きかもしれない。
だが、学校の中では平凡だった。努力したところで上には上がいて、ユリウスはその中に埋没し、己の平凡さを心に刻んだ。王族の側に控えるのに相応しいだけのものを持っている人間は他にいるのではないだろうか。
自分は王族の護衛という、至上の誉れを身に受ける価値があるのか。
それだけの資格を持つ優秀な協会員なのか。
そうだとはっきり頷くだけの自信を、ユリウスは持ち合わせなかった。力なく顔を伏せるしかない。
「いえ、何でもないです……」
ふうん、と小さな声が頭の上に降って来る。
(にしても、護衛として全然認められてないなんて)
それは仕方のないこととは言え、はやりユリウスの肩を落とさせた。
(まあ確かに僕は魔術も、剣術始め武術系も、教養も、見た目だってごくごく普通の……とにかく普通の何も特技のない普通の……うん、普通だけどさ)
考えれば考えるほど暗澹たる気分になるユリウスだが、すぐに眉をひそめた。
よくよく考えれば、何をこうもがっかりしているんだ、と。
(認められていないってことは、すぐに解任されて他の部署へ回されるかもしれないってことじゃないか!)
その方がユリウスにとっては好都合である。一度道を逸れそうにはなったが、まだ軌道修正して穏やかで平凡な老後へと続く道のりを歩むことができるではないか。
そう思うと嬉しい――はずなのだが、なぜか気持ちは晴れない。
「一体何なんだ……」
「うん、何か言ったか」
また歩き始めていたジークムントが振り返って見つめてくる。まだその美しい視線に慣れないユリウスは慌てて首を振った。
「そうか。あ、そうだ、私はこれから少し他のことを調査しようと思っているんだ。君はそうだな、兄上にオットー勇敢王の絵を見せてもらうといい。『紫の淑女』と『翠の騎士』を指にしている肖像画がある。見終わったら奥の白百合館に来るんだぞ。では兄上、私はここで。助手をよろしく頼みます」
「ちょっ!」
ユリウスが止める間もなく、ジークムントは角を曲がって去って行ってしまう。恐る恐る振り返ると、ルートヴィヒが聖職者のように清らかな笑みを浮かべていた。
「行こうか」
「あ、は、はい……」
ルートヴィヒはジークムントが姿を消した方に背を向けて歩き出す。その後をついて歩き始め、ユリウスは密かに頭を抱えた。
まさか王太子、いずれは王となりこの国を統べる男に王宮内部を案内させるなんて、自分はいつの間にそんなお偉い身分になってしまったのだろう。何度か公務で学校に来たルートヴィヒを見たことはあったが、その時は雲の上の人だと思っていたというのに、今その人物に一時とは言え面倒を見てもらっている。
(夢、じゃないよなあ)
夢だったらいいんだけど、などと考えながら歩いていると、現実の世界の住人であるルートヴィヒが振り返ることなく声をかけてきた。
「なかなか苦労しているようだね」
「え? あ、はい、そうですね――あ、いいえ、全くそんなことは!」
急いで取り繕ったものの、ルートヴィヒの小さな笑い声を聞いてユリウスは顔が熱くなる。
「すみま……いえ、申し訳ございません!」
「そう硬くなることはないよ。王族と言っても君をとって食ったり、いきなり斬首刑にできるはずもない。気楽に行けばいい。とは言え、着任初日からそれは難しいかな」
ユリウスが返事をする前に、ルートヴィヒの足が止まる。
「さあ、着いた」
そう言いながらルートヴィヒが扉を開けて踏み入った長廊下には、歴代国王の肖像画が壁にぎっしりと詰まってかけられている。
所々に置かれた椅子や小さな卓は、この歩くだけでも長い時間のかかる廊下を、一々絵を鑑賞しながら進むとなれば必要不可欠なものだろう。
「勇敢王はこれだね」
年代が新しい方の扉から入ったらしく、廊下をほとんど進む間もなく目的の絵の前に辿り着いた。
絵の中の男は厳しい顔つきの、体格のよい五十代程度の男性である。頬に大きな傷があり、鋭い眼光で見るものを威圧するその様は、王と言うよりは歴戦の勇士だ。
「あ、この指輪がさっきの」
彼の左手中指と薬指に、それぞれ紫と翠の石が光っている。勇敢王の手に収まるそれらは、まるで先程見た本物のように輝いていた。
「……絵に描かれていても、とても綺麗ですね」
感嘆を漏らすユリウスに、ルートヴィヒが頷いてみせる。
「色がよく再現されている。絵具がよいのもあるだろうが、画家の技術も素晴らしいのだろうね。五月の草原を行く騎士の瞳のように儚い色だ」
そう言ってルートヴィヒは『翠の騎士』を指す。
「こちらは憂いを秘めた淑女の見上げる宵闇の色だね」
続いて『紫の淑女』を見つめる。
はっきり言って歯の浮くような台詞だが、若く美しく、何より次代の王としての存在感を持つ人間が口にすると、様になってしまうものなのだ。ユリウスが同じことを言えば、他人に怪訝な顔をさせてしまうだけだろう。
「あの、殿下は絵にお詳しいのですか?」
「いいや、全く。高名な画家の作品は一通り見たが、詳しく学んだことはないよ」
「そうなのですか、とても美しい表現をされるのでお詳しいのかと」
「美しいかどうかはともかく、表現は感性の問題だろうね。私はそういう、何と言うのか、少しばかり特異な捉え方をするところがあるようだ。自分ではそうは思わないが……それに、私よりも弟の方が余程変わっていると思うのだが、どうだろう」
「え、それは――」
突然の問いかけに、ユリウスは意味もなく胸の前で手を振って一歩下がる。
「いえ、殿下も、あ、ルートヴィヒ殿下もジークムント殿下もその、やはり特別な感性をお持ちで、人間誰しも個性というものがあるのですが、殿下方の場合、それは良い方向性のもので」
はははと、ルートヴィヒが声をあげて笑った。
「無理に褒めることはないよ。君は嘘がつけないようだ。あと、君はこういう絵を見るのが好きなのかな。いい顔をしている」
「絵は……好きというほどではないんですが、その、僕はどちらかというと穏やかなものが好きなので」
「穏やかなもの」
「はい、人と争ったり腹の内を読みあったりというのが苦手で、のんびりしていることの方が好きなので……学校でも運動部なんかには入らないで、新聞部で記事を書いていました。あ、でも、下手で全く評価はされなかったんですが」
「ああ、協会教育部の学校新聞か。あれはこの王宮でもなかなか人気のある読み物だね。……なるほど、そういうことか」
納得したようにルートヴィヒは何度か頷いた。
「しかし、だとすると君はジークの護衛という職務はあまり有難くないと感じているのでは。ここは人間関係が複雑だし、実際がどうであれ名誉な職務だと言われ、やっかみを受けることもある」
「………………」
肯定はできず、しかし否定すればあからさまに嘘だと分かってしまう。結果ユリウスは言葉を口に出せなくなってしまう。
「そうか、まあ、そうだろう。それに王宮の人間関係はともかくとしても、ジークの面倒を見られる者などいないと、貴族たち、使用人や協会員ですら思っているくらいだからね。進んでやりたがる人間など最近はいないものだ」
ルートヴィヒは口元に笑みを浮かべてはいるが、少し力のない口調だ。
「だが、あれでいてジークは神経が細くてね。繊細なところがあるし、とても優しい子だよ。まあ、人一倍わがままで変わり者ではあるが」
意外な話だ。卒業式から連れ出されて数時間、ジークムントから繊細さも優しさも全く感じなかったユリウスからすれば信じがたい人物評である。
だが、血の繋がった兄がそう言うのだから、身内の欲目にしたところで、多少はそういう繊細なところもあるのかもしれない。
まだ何も言えないでいると、ルートヴィヒがユリウスの肩にそっと手を置いた。
「大変かもしれないけれど、私は君に期待しているよ。今までどんな護衛とも上手く行かないで、その度に癇癪を起こして、泣いて護衛などつけないで欲しいと母上にしつこく頼んでいたジークが、自ら君を選んだのだから」
「え?」
「ルートヴィヒ様」
声のした方を振り向けば、すぐ後ろの扉からユリウスと同じ黒く裾の長い制服を着た青年が入ってくるところだった。
青年は銀に近い色の髪を揺らし、細い足でルートヴィヒの側に寄った。儚げな、どちらかと言うと女性的な美しさを持つ青年である。ジークムントやルートヴィヒも整った顔立ちをしていると思っていたユリウスだったが、この銀髪の青年とても比べ物にはならない。
神話の中の登場人物だと紹介されたところで、そうですかと誰しもがすんなり信じてしまいそうな美貌である。
「こちらにいらしたのですね。長くお戻りにならないので、心配申し上げました」
紡ぐ声もけして小さくはないはずだが、青年の容姿同様、細く物静かな印象を与える。
「すまないね。ジークの新しい護衛と会ったものだから。ユリウスだ。ユリウス、彼は私の護衛、オスカー」
「オスカー・アーレンスと申します、以後お見知りおきを」
差し出された人形のような白い手を震えながら握れば、優しく握りこまれて鼻の頭に汗をかく。微笑む青の瞳に見つめられ、緊張で声が裏返ってしまう。
「ひっ、あ、あ、アーレンス様、はじめまして! ユリウス・シェリングです、あの、よろしくお願いします!」
「オスカーとお呼びください。慣れない王宮で緊張なさっているのですね。困ったことがあれば、どうぞいつでも声をかけてください」
「う、あ、はい、ありがとうございます……」
ユリウスがしどろもどろながらもようやく、自分とはとても同じ世界に存在しているとは思えない美貌の青年に返事をすれば、満足したようにルートヴィヒが頷き、廊下のもう一端の扉を指した。
「ジークとの待ち合わせは白百合館だったね。あの扉を出てすぐ右に曲がると、奥の庭へ出られる。そこから道なりに行けば白い外壁の建物が見える。そこが白百合館だ。人気はないかもしれないが誰かしらはいるだろうから、もしジークがまだ来ていなくとも訪ねて名乗れば待たせてもらえるだろう」
「はい、ありがとうございます」
「では、また」
オスカーを伴って扉を出て行くルートヴィヒの背中を見送り、ユリウスも反対側へと歩き出した。ルートヴィヒの丁寧な道案内に、自分の主人もこれほど親切に説明してくれたらどれだけよかっただろうと思うのだが、すぐに考えを改めた。
「いや、助手なんか冗談じゃない!」
何が主人だ。探偵だの助手だの特別なことを求めて、どうせすぐ勝手に僕の平凡さに失望して解任するに決まってるじゃないか。そうだ、僕なんか――
ユリウスは怒りにも似た感情を抱きながら、しかし長い廊下をジークムントとの待ち合わせ場所目指して歩き始めた。