2.侯爵夫人の宝石
二章
馬車の揺れが、硬直した体にひどく響く。
ユリウスはまともに呼吸すらできない緊張感に包まれ、体を強張らせて馬車の中、硬い石のように沈黙を守っていた。
そうしなければいけないという気持ちもあったし、突然の思いもよらぬ出来事によって引き起こされた混乱から、これは夢なのではないかという疑いも持っていたからだ。
(でも、夢じゃない……)
行き先も告げずユリウスを運ぶ馬車の律動も、豪奢な造りの車内に充満する何とも言えない芳しい香りも、正面に座って窓外を流れる景色を眺めているジークムントの鮮やかな金髪も、夢にしてはあまりにも現実感を帯びている。
いっそ夢であった方がよかったのに――そう思わないでもない。思えば思うほど、まだ沈黙の中でいずれ目が覚めるのを待っていたい気分になる。
だが、いつまでも黙っている訳にはいかない。
間違いは正さなければいけないのだ。
そう、今後王都魔導保安協会に所属する者として、王都の保安に従事する正義の僕として、女王陛下の手足として、間違ったことをそのままにしておいてはいけない。
(よし、頑張るんだユリウス! 行け、お前ならやれる!)
心の中でこっそりと自身を鼓舞した。
意を決し、美しくしかし訳の分からない謎の生き物に声をかける。
「あ、の……」
ジークムントはユリウスに視線を向けると、目を細める。
「うっ」
思わず変な声が出た。ジークムントのあまりの美しさに、同性ながら緊張してしまう。やっぱり王族と自分のような凡人は違うのだ!
「どうしたんだ、変な声を出して。馬車にでも酔ったのか?」
小首を傾げながら訊ねる声も玲瓏な響きで、逆にユリウスの耳を強張らせた。
「あ、は、いや、あの!」
卒業式で詰め寄られ、しどろもどろだった教師のことを思い出す。うん、当然こうなるよな、と。やっとの思いで問いかけに答えた。
「よ、酔ってはいません!」
「そうか。ならばよかった。私は専ら馬車で移動するから、酔う体質だと悲惨なことになるところだった」
明るいジークムントの口調にも、ユリウスは絶望に似た響きを感じる。彼の言葉には、ユリウスも彼と一緒に今後馬車で移動する機会が多々あるという意味が含まれているからだ。
喉が渇くのを感じながら、ユリウスは恐る恐る口を開く。
「あ、いえ、あの――嘘ですよね」
「嘘?」
澄んだ蒼い瞳が、不思議そうに瞬く。
「僕が護衛って、殿下の護衛って、嘘ですよ、ね」
念を押すように言ってみても、ジークムントはきょとんとした顔をするばかりだ。
「嘘? どうして?」
「いや、どうしてって……だって僕は、僕はその……成績も中の中で、見た目もそんなにいい訳ではないし、第二王子殿下の護衛に相応しいような人間じゃないですから――」
「嘘ではない。君は僕の護衛だ」
はっきりとそう告げ、ジークムントは咳払いをする。
「おっと間違えた、君は僕の助手だ!」
「え、あの、助手って」
本当に意味が分からない。なぜ自分が偉大なる女王陛下の第二子ジークムント殿下の護衛に、いや、助手とやらに選ばれたのか、ユリウスには見当もつかないのだ。
十七歳まで生きてきて、こんなにも混乱する状況に陥ったことのない彼には、この状況の打開策というものが全く思いつかない。彼が頭を悩ませているうちに、ジークムントが隣に置いていた白い扁平な箱の上から封筒を一通取り上げ、中から紙を出した。
「ふうん、確かに君は中の中、平均的な成績だな。ほとんどの教科が五段階評価のうちのちょうど真ん中だ。いや、逆によくこれだけ器用に真ん中ばかり取れるな」
「…………すみません」
指摘され、ユリウスは俯いた。中の中、平凡で穏やかな人生こそが素晴らしいと思っていた彼だが、それでも改めて自身がそういう人間であることを指摘されると何だか悪いことをしているような気分になってしまう。
「何を謝る必要がある。成績が平凡であろうと、別に私の助手を務める上で問題はない」
「えっ、あ、はい、すみません!」
ついまた謝ってしまった。が、今度はジークムントは何も言わない。
「あの、殿下、ところで……どうして僕が殿下の護衛に選ばれたんですか?」
こういう物の言い方はよくないぞ、とユリウスの心の底でもう一人の自分が叫んでいる。なぜなら、ジークムント殿下の護衛だと自分で認めてしまっている言い方だからだ。
今からでもいいから、護衛なんていうのは何かの間違いだった、雑用は雑用でも君は王都端っこの出張所の雑用係だ! なんて、言ってくれないだろうか――とジークムントを見つめるのだが、そのユリウスの期待は裏切られた。
ジークムントは胸に手を当て、役者のように大げさな身振りをつけた口調でユリウスの発言を訂正する。
「護衛ではなくて助手。君は、私の、助手」
「うっ、すみません、その……では、どうして僕が助手に選ばれたんですか?」
きっと何か勘違いからこんなことになってしまったのだ。だから、選ばれた理由を聞いてよく話し合えば、すぐに自分は護衛の任を解かれて平凡な日常へと帰ることができるはずだ。ユリウスはそんな希望を捨てられずにいる。
「私は流行り物にはあまり興味がないんだ」
「は?」
ジークムントの艶やかな唇から発せられたのは、問いかけの答えとは程遠いものだった。ユリウスが投げかけた疑問の声は彼の耳には届かないのか、ジークムントの口からは更に意味の分からない言葉が流れ出てくる。
「ただあの本を手にしたのは偶然だった。流行っているから読んだのではない。しかし逆に、読んでみて流行っている理由がよく理解できた。途轍もなく面白かった。月並みな表現だけど」
「はあ」
「大変な感銘を受けた。この世にこんなにもすばらしい小説が存在するとは思いもしなかったんだ」
そこで唐突にジークムントが口を噤んでしまったので、ユリウスは困惑する。
「どういう小説ですか?」
「君も読んだことはあるんじゃないか。『探偵ブルーノの活躍』だ」
確かにユリウスも読んだことがあった。
内容は、ブルーノという青年が美しい未亡人の元へ届いた殺人予告を調べていくうちに友人と共に思いもよらぬ事件に巻き込まれ、最終的に無事解決するという冒険譚だ。
主人公が探偵なる作者の空想上の職業を営む目新しさや、展開の息をつかせぬめまぐるしさに、あっという間に王都で大流行した小説である。が、正直に言えば、感銘を受ける程に素晴らしい、つまり高尚な作品だとはユリウスには思えなかった。
「…………ええと、その小説が一体どういう」
「ああ、もう王都に入る」
ジークムントはユリウスの問いかけに答えず、窓の外、間近に迫った高い城壁を指差している。
ユリウスがついさっきまで平穏を満喫していた学校は、王都を出て少しばかり西へ行った場所にある。王都は外周を石造りの高い城壁に囲まれ、いくつかある厳重な門からでないと出入りが適わないのだ。
ユリウスの乗った馬車が向かっているのは貴族や一部の聖職者など高位の者にのみ通行を許された王都北西部の門であるようだ。
王都の警備は厳重である。出入りの目的や身分によっては、数時間も待たされて審査を受けなければならない。いくら王族とは言え、通行には一度馬車を止めて確認を受けなければならないのだろう。
しかし馬車は速度を大幅に緩めたものの、止まることなく分厚い城壁の下に設えられた門を通過していく。
ユリウスは驚きながら、窓の外で敬礼している警備兵たちを見回し、ジークムントに問いかけた。
「えっ、いいんですか? 止まらなくて」
「止まったら門が通れないじゃないか」
さも不思議そうな声音で答える美青年に、ユリウスは黙り込んだ。
(あ、こいつもしかして馬鹿なのかな)
と、内心思ったことが口に出せる内容ではなかったからだ。
(それにしても、城壁の出入りもこんなに簡単にできるなんて、これが王族なんだ……)
庶民からすれば大して変わらないようにも思われるようだが、やはり王子であるジークムントと下級貴族であるユリウスでは生きる世界が違う。
やはり、自分は王子の護衛になど相応しくない人間だとユリウスは思うのだ。
(本当に、何で僕が……?)
訊ねても考えても明確な答えがないだけに、余計混乱してしまう。頭が痛くなりそうだ。
「ああ、そうだ」
ジークムントが不意に、席の隣の箱の上へと未だ持っていた封筒を置き、代わりに小さく丸めた羊皮紙を手にした。それをもったいぶってゆっくりと広げ、ユリウスへと示す。
「ユリウス・シェリングをジークムント第二王子殿下の護衛に任ずる」
ジークムントが長い人差し指で文字を辿り、一部分、特に自身の長い名前を省略しながら音読する。そこには間違いなく、ユリウスが本日付でジークムントの護衛に任命されたことが書かれており、王都魔導保安協会長の署名もあった。
「ほ、本当に――」
ユリウスがとどめを刺されているうちに手早くその凶器をしまい、ジークムントはいそいそと箱を開いて黒い布を取り出した。
「今日からはこれだ」
押し付けられた布を受け取り、広げてみてユリウスはとうとう観念せざるを得なかった。
それがただの布でなく、裾が燕尾の形をした真新しい上着だったからだ。
王族の護衛にのみ着ることが許される、特別な形の制服である。
「なかなか似合っているな」
ジークムントの言葉に、ユリウスは自身の胸を見下ろす。黒い上等な布地の制服が、彼の体に纏われている。
馬車の中で緑色の制服から着替えさせられたのだ。と言っても飾著やスカーフのような装飾類始め他の服は深靴に至るまで全て使いまわしなので、ただ今までの上着を脱いで新しいのに袖を通して装飾類をつけ、剣帯を装着し直しただけである。
街にある署やその出張所に配属されれば飾緒もスカーフも省略していいのだが、王族の護衛となるとそうはいかないだろう。
窮屈さを感じながらも一応、ありがとうございますと褒められた礼を告げる。だが、ジークムントはそれを聞いているのかいないのか、既にユリウスから視線を逸らして歩き始めていた。
二人の眼前に広がるのは王都において最も広大、絢爛豪華にして、多くの人間にとっては最も息苦しい――少なくともユリウスにとっては多大なる緊張を促される――王宮であった。
(本当に、僕がこんなところに来ていいのか……?)
よく手入れの施された植え込みや咲き誇る花々が目に美しい広い前庭を、色鮮やかな流行の衣装で着飾った貴族たちが優雅に散策し、その奥には、快晴の空の下、正面に左右対称の荘厳な建物が鎮座している。それが女王陛下の宮殿であるというのは、初めて王宮に足を踏み入れるユリウスにも確信された。彼の目に映る景色は、まるで一枚の絵画のように美麗でいてどこか現実感を伴わないものである。
そこに、取り柄がないのが取り柄だと言い切れるような自分が混ざってもいいのか。
ユリウスの戸惑いをよそに、長い脚をこれでもかという程に有効活用し、ジークムントはずかずかと進んでいく。その後を慌てて追いかけた。
「あの、これからどちらへ?」
「すぐに着く」
やっぱりこいつ馬鹿なのかな、とは思ったが、ユリウスは黙ってジークムントの後について行くしかない。
時折擦れ違う貴族たちや使用人、ユリウスの同僚つまり協会員が道を譲り、仕草で、あるいは声をかけて挨拶するのを、ジークムントは全て、ああだとかうんだとか言ってぞんざいにあしらい、向かって右手へと進んでいく。心ここにあらずという様子である。
しかし擦れ違う誰もが驚いた顔もせず、すぐに過ぎ去っていくことから、おそらくこれはいつものことなのだろう。
「もう着くぞ」
振り返って貴族の令嬢たちが可愛らしい声でおしゃべりしているのを見ていたユリウスは、突然かけられた声に驚き身をすくめる。前を向けば、ジークムントがよそ見をしていたのを咎めるような顔つきで、しかしそれは口に出さず、目前に迫った二階建ての白っぽい建物を指差していた。
中に入ると、そこは明らかに身分の低い者が必要もなく立ち入れる場所ではないとすぐにユリウスには分かった。天井が高く少し古い時代の建築様式のようだが豪奢な造りで、例え女王の住まう宮殿には劣るとしても、ユリウスからすれば夢のような、しかし体が無意識に緊張を覚えるようなところだ。
あちこちに絵画や新鮮な花の飾られた陶磁器の花瓶を見ながら、赤い絨毯の敷かれた廊下を足早に進み、ある部屋の白い大きな扉の前でジークムントがぴたりと歩を止めた。ぶつかりそうになるのをすんでのところで何とか堪え、ユリウスは安堵の息を吐く。王族の背中に体当たりなどした日には、斬首刑に処されるのではないかとさえ怯えてしまう。
が、すぐに息を呑む羽目になった。ジークムントが突然、両開きの扉を思い切り内側へと開け放ったからだ。
「御機嫌よう、ライニンゲン侯爵夫人!」
派手な音を立てて開かれた扉の向こうには、華やかな顔立ちの女性が青を基調とした紅茶のカップを手に座っていた。目を丸くしてジークムントとユリウスを見ている。
「え、な……ジークムント殿下……?」
あんぐりと開けていた口を一度閉ざし、ライニンゲン侯爵夫人と呼ばれた二十代後半の女性は慌てて紅茶を卓上に置き、立ち上がった。孔雀の首のような、輝く青い衣装が目に眩しい。
「ま、まあ殿下、突然どうなさったのです。ご来訪を前もって知らせていただければ流行のお菓子をご用意致しましたのに」
既に驚きなどという表情に別れを告げ、侯爵夫人は艶やかな黒髪によく似合う笑みでもって、部屋に無遠慮に入っていくジークムントを出迎える。
基本的に貴族は王都内に、本拠か別邸かは別にして屋敷を持っているものだが、ある程度有力な貴族には王宮内にも有償ではあるが部屋が与えられる。この建物がその貴族たちの部屋の寄り集まった棟であると、ようやくユリウスは思い当たった。
しかし彼が得心している間にジークムントはすっかり部屋の中へと入り込んでいる。
「怪盗が出たそうだな」
「え……ええ、そうですわ。昨晩……まあ、殿下、私のお見舞いにいらして下さったのですね。何とお優しい――」
「調べさせて貰う」
侯爵夫人の砂糖のように甘ったるい声を無視してそう言い放ち、ジークムントは未だ廊下に立ち尽くしていたユリウスに視線を投げかけた。
「助手、入ってこないか。調査を始めるぞ」
「あの、調べるとは」
ユリウスの声と侯爵夫人の声が完全に重なった。
「怪盗が宝石を盗んだんだぞ。その現場を調べるんだ」
不思議そうに答え、ジークムントは二人の顔を交互に見つめる。それから部屋の奥へつかつかと歩み寄り、小さな棚のようなものを勝手に開けた。
「ちょ、殿下、勝手に」
思わず諌める声をかけながら扉を閉め、部屋に入るユリウスに、鋭い視線が投げかけられた。見れば、侯爵夫人がきつい目つきで睨んでいる。
おいお前とっととこの馬鹿を止めろ、招待してもないのにいきなりやって来て、勝手に人の部屋を漁ってんじゃないよ、という目である。
そ、そんなこと言われましても、ついさっき護衛になったばかりで、しかも助手とか訳の分からない呼び方をされている僕にそんな権限あると思いますか、とユリウスは視線で返したのだが、果たしてそれは伝わったのか伝わらなかったのか。
「これが破られた金庫か。一見したところ鍵も頑丈、複雑そうだな」
「ええ、そうですの。私は宝石を随分持っているでしょう、ですから盗まれるのではないかと心配で、この金庫も特注のものですわ。でも怪盗に破られてしまいましたけれど」
先程までユリウスを睨みつけていたのと同一人物とは思えない微笑と猫撫で声で侯爵夫人がジークムントに答える。女って怖い、と思いながらユリウスは口を開いた。
「あの、さっきから話が見えないんですが、怪盗って……?」
「ええっ?」
大げさに驚いたのはジークムントである。金庫の前でしゃがみ込んだまま、ユリウスを非難がましい目で見ている。
「怪盗ハーゲンも知らないのか?」
「いえ、それは知ってます。神出鬼没の大泥棒で、盗んだお金を庶民にばら撒くっていう……」
「何だちゃんと知っているじゃないか」
「その怪盗が宝石を盗んだって――まさか、侯爵夫人の宝石を?」
ユリウスの言葉に、侯爵夫人は真っ赤な唇から短く息を吐いた。
「そうよ。私の自慢の、いいえ、ライニンゲン侯爵家の家宝である『紫の淑女』が、怪盗ハーゲンに盗まれたのよ」
「ええっ?」
今度はユリウスが大げさに驚く番であった。