16.探偵殿下とその平凡な助手
ジークムントは一心不乱に走る。そして彼に引かれるがまま、ユリウスも止まらずに駆けるしかない。しばらく走り、ルートヴィヒの部屋から随分と遠ざかったところでやっとジークムントが足を止めた。
「はあ、ここまで来れば母上も追いかけては来ないはずだ」
心の底から安堵したように、彼は来た方を見つめる。しかしすぐに悔しげに唇を噛んだ。
「それにしても、もう少しで兄上を追い詰められたのに」
「他にも何か証拠があったんですか?」
「ない」
「じゃあ無理ですよ。ルートヴィヒ殿下が仰ったように、どれも証拠として弱かったですから、本当に怪盗ハーゲンだとはっきり言えないです」
それどころか、どう考えても一国の王太子が大泥棒を兼ねる必要など一切ないだろうとユリウスには思えるのだ。あの穏やかで聡明さが溢れるルートヴィヒが、怪盗ハーゲンであるはずがない。ジークムント以外は国民誰もがそう口を揃えるに決まっている。
ユリウスの言葉に一度唇を突き出し、しかしジークムントは大きく息を吐いた。
「仕方がない。怪盗ハーゲンとの決着はまた次回にとっておく! その方が探偵小説としては盛り上がるはずだ。そうだろう?」
ひどい負け惜しみだが、それでもどこかジークムントの声は嬉しそうな響きを持っている。ユリウスは一方で、自身が気落ちしているのが声に乗らないだろうかと思いながら、何気ない様子を装って言った。
「でも陛下に出版は止められましたね」
「……お前からすればその方がよかったんだろう。本を書く苦労をしなくてすむ」
拗ねたようにジークムントがユリウスから目を逸らしてしまう。
「あーそれは、その」
ユリウスは曖昧に答え、後頭部に手をやって私室の事務机の抽斗のことを思った。その中には、シュテファンに頼んで用意してもらった上質な紙の束がしまわれている。そこに描かれているのは、つい昨日の夜にこの世に生まれた文章たちだ。
とある名門貴族の御曹司が平凡な助手を連れて王宮の中を闊歩し、美貌のご夫人の部屋の扉を乱暴に開け放つ――そんな突拍子もないところから始まる物語である。
逡巡の末、もう少し秘密にしておこうと決心し、ユリウスは苦笑いしつつ口を閉ざした。
その代わりに、素朴でいてひどく重大な疑問を再びジークムントへとぶつける。
「あの……ところで、どうして殿下は僕を護衛に選ばれたんですか」
ジークムントは遠くを見ていた瞳をユリウスへと向け、しばらく黙ったまま見つめていたが、幼稚さをすっかり消した声で唐突に話し始めた。
「私は以前、一度教育部に行ったことがある。一年半前の馬術大会のときだ。体調の悪かった兄上の代理で急遽出席して」
「あ、覚えています。開会式でご挨拶をされて」
数日前の卒業式で、級友とそれについて話したばかりだ。
「そうだ、用意されたつまらない原稿を読んだつまらない挨拶だ」
ジークムントのひんやりとした口調にどきっとする。彼はこの数日の間で、ユリウスが一度も見たことのない別人のような冷めた顔立ちと声を見せていた。
「しばらくして教育部から学校新聞が送られてきた。馬術大会の記事があったからだろう。私の挨拶のことも触れられていた。……よく通る溌剌としたお声でのご挨拶でした。挨拶のことはそれだけだった。実際つまらない挨拶だったし、その程度しか褒めるところがなかったんだろう」
「……………………」
ユリウスが口を開こうとするのを、ジークムントが長い人差し指を振って制す。
「それでも馬術を見るのは楽しかった。自分と歳の近い生徒がこんなにも上手く馬を操っているなんてと感心した。……だが、自分なりに楽しんでいたつもりなのに、誰も私が馬術に感心したなんてことに触れもしなかった。お若いのに素晴らしいご挨拶をだの、生徒たちもご挨拶に感銘を受けたでしょうだの、激励のご挨拶をいただき大変感銘をだの、陛下によろしく、父君に、兄君によろしく、そんな風に挨拶や他の誰かのことばかり」
ジークムントが磨き上げられた廊下へと視線を落とす。だがその唇には照れたような微笑が浮かんでいた。
「でも、送られてきた記事には書かれていたんだ。殿下は生徒達の見せる馬術に大変感心されたご様子で、時折笑顔をお見せになり、また周囲の教師たちに馬術や競技者について熱心にご質問をされ、競技ごとに盛大な拍手を送っておられました、と」
あれ、そうだったっけ、確かに僕はそう思ったけど、そんな内容だったっけ、もうすっかり忘れてた――ユリウスは一年半前、ペンを片手に机に向かっていた時のことを思い出しながら、不思議な感覚に包まれる。
再び視線を上げ、ジークムントがユリウスの見慣れた明るい顔で見つめてくる。
「……見ている人間もいるものだと思った。記事も学生が書いたにしては悪くなかった。記者の名前は記事の最後にあった。ユリウス・シェリング」
「…………」
「こいつになら私の活躍を書かせてもいいと、思ったんだ」
上からの物言いだが、それでも彼の本心は充分に伝わった。
自分のことをちゃんと見て、その上で書いてくれるだろうと期待したんだ。そうユリウスは理解した。
ジークムントはその神経の細さから、気持ちを上手く伝えられないだけだ。
好き放題して周囲のことなどお構いなしのようでいて、本当は他人の言葉や気持ちに対してとことん敏感なのだろう。ただ少し、物事において気にする点が他人とずれているため、繊細なせいで感情を上手く伝えられなかったため、誰とも上手くいかなかったに違いない。
ユリウスも薄っすらと笑う。数日振りにようやく落ち着いた心へ触れるように胸に手を当てた。
「……そんな理由だったんですね」
「くだらない理由で悪かったな」
拗ねたような声に戻ってしまったジークムントに苦笑してしまう。
「くだらなくないです。僕にも納得できましたし、とても嬉しいです。そんな風に記事を褒めてくれた人は初めてだから」
「どうして。あんなにいい記事を書くのに?」
目を丸くして言ってから、ジークムントは少しばつが悪そうに顔を背ける。
「ありがとうございます、殿下。僕の記事をちゃんと読んでくださって」
凪いだ心から溢れる感情を、ユリウスはそのまま言葉と笑顔とに変えた。
初めて言葉を交わしてから数日かかったが、ようやくジークムントが自分をしっかりと見ていてくれたことに気付くことができ、彼が自らをしっかりと見てくれる相手を求めていたことに気付くことができ、ユリウスは心の底から安堵を感じていた。
もし気付かなかったらどうなっていただろう。もう二度と言葉を交わさなかったかもしれない、姿を見ることもなかったかもしれない。
これから楽しくやっていけそうな要素がこんなにも二人の間にあるというのに、それを生涯に渡ってふいにするところだったのだ。
今、向き合っていることに喜びを感じないはずがない。
「助手、お前は私の助手としてこれからも励みたいと言っていたが」
拗ねた口調のままジークムントが言うが、それは少し違う。僕はどちらかと言うと護衛として頑張りたいんですが、と言いそうになったが、それを口にすると嘘になってしまうことに気付いてユリウスは言葉を喉の奥で止めた。
探偵らしい探るような目つきで、ジークムントがユリウスを見下ろした。
「……本心か?」
「はい。僕が嘘をつけないって殿下が仰ったんですよ」
「おかしな奴だな。私のせいで誘拐までされて危ない目にもあって、結局本にもできないのに、しかも死んだ振りで騙されたのに」
おそらく申し訳ないと思っているのだろう。ジークムントは眉根を寄せて不遜な顔つきを作ってはいるが、落ち着きなく指先をいじくっている。それがユリウスには微笑ましく思えた。
つい笑ってしまうユリウスをじっと見つめ、ジークムントが恥ずかしそうに唇を尖らせる。彼は視線をユリウスの黒い制服に走らせてわずかに考えるように黙り込んで、それからはっきりと告げた。
「でも、お前はもう私の助手ではない」
「え……」
それまでの和やかな空気を打ち砕く、思いもよらない言葉にユリウスの呼吸が止まる。いたずら小僧のような笑みでもって、ジークムントが彼の手を取った。
卒業式でもこんな風に手を取られたな、そうぼんやり思うユリウスに、そのときと同じ大輪の薔薇がほころぶような笑みが向けられた。
「今からお前は、護衛という重要な役割を負った助手だ」
「――ありがとうございます!」
ユリウスに与えられた職務は、単に探偵の助手というだけではない。主から護衛としても認めてもらえたのだ。
「励めよ」
「はい!」
もちろん王族の護衛として力不足であることは重々承知している。それでも嬉しかった。
ユリウスはただ協会員の中で埋もれていくはずだった平凡な自分への諦めを、心のどこかでは悲しく感じていたのだ。本当は優秀になりたい、いい魔術師になって役立てる人間になりたいという思いを、自分は平凡だからと言い訳して諦めて、しかし諦め切れなくて無意識にもがいていたのだ。
だからこれから努力し、上へと向かうきっかけをくれたジークムントに深く感謝せずにいられない。
ジークムントは物言いや振る舞いは王族らしく堂々としているし、突拍子もないことをしでかしてユリウスを驚かせるが、本当は繊細でとても優しい主だ。この人になら振り回されても面白そうだ、とユリウスは思った。
探偵王子の助手なんて、やりがいのある職務じゃないか。
無意識ににこにこと笑っているユリウスの隣でジークムントが左手を腰にあて、右手で東を指す。
「よし、では行くぞ!」
「え、どこに」
ユリウスの問いに、ジークムントは目を輝かせている。
「港だ! 兄上の部屋に行く途中、港に外国産の人食い魚が泳いでいるらしいと女中たちが噂していたのを聞いた。泳いで調べるんだ、助手!」
「は? 人食い?」
前言撤回。やっぱり助手なんて冗談じゃない!
「さあ行くぞ、助手よ!」
「い、嫌だああぁ……!」
顔を引きつらせるユリウスの手を掴んだまま、ジークムントが走り出す。
こんなに速く走れるものかと驚く勢いで、二人は宮殿の廊下を駆け抜け、蒼穹の下に躍り出てなおも足を止めない。外へと繋がる門を目指してジークムントが走り、その後ろを引きずられながら、何事か悲鳴のような声を上げてユリウスが追った。
その様はまさにこの世の事件という事件に挑む勇猛果敢なる探偵とその平凡な助手。
彼らの前途を祝すように、雲ひとつない高い蒼穹に、どこからか鐘の音が響いている。
かくしてユリウスの穏やかなる日々は本当に幕を閉じ、美しくも奇異な探偵王子に翻弄される日々が幕を開けたのであった。
終
読んでいただきありがとうございました。一旦終わりですが、そのうち続きを書きたいと思っています!




