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13.大切なもの

 

「何ですって!?」

 驚愕に染まったその声は、部屋の隅で身を硬くしていた侯爵夫人のものだ。

 ユリウスは甲高い声に鼓膜を震わされ、我に返った。地面を蹴る。卵で視界を奪われた男が腕をわずかに下げたのを蹴り上げ、拳銃を床に飛ばした。

「こいつ……!」

 しかし蹴り上げた足をとっさに掴まれ、ユリウスは絨毯に体を打ちつけた。その隙に男が腰の剣を抜こうとする。

 それを止めたのは黒き一閃だった。倒れたユリウスの脇を怪盗ハーゲンが駆け抜け、男の首に剣先を突きつけたのだ。

 怪盗ハーゲンはぴたりと動きを止めた男のあごを、剣を引きながら蹴り上げる。そのままふらついた男に体当たりを食らわせた。膝をついたところを後ろに回って喉仏へと肘の内側が当たるようにして首に腕を絡め、同時に片方の足の踵を男の腹に食い込ませて、怪盗ハーゲンはそう太くない腕に力を込めた。

 頭を打ったせいでユリウスがふらつきながら立ち上がるほんの数秒の間に、男はもがくことすらなく意識を失った。怪盗ハーゲンが手放すと男はうつぶせに床へ横たわる。手馴れた様子からして、この怪盗がやはりただものではないというのは明らかだ。

 すっかり無力化された男を横目にジークムントが、気付けば部屋の隅から数歩進み出ていた侯爵夫人へと三歩近寄って人差し指を向ける。

「これまでだな、侯爵夫人」

 しかし彼女の林檎のように真っ赤な唇には笑みが浮かんでいた。観念しきったのだろうか。ユリウスがその艶やかな笑顔を見つめていると、彼女の腕が水平に上がる。

「それはこちらの台詞だわ」

「あ!」

 ユリウスの視線は侯爵夫人の手に釘付けになった。そこには、つい先程彼が蹴り飛ばした拳銃が握られていたのだ。

 ジークムントは一瞬驚いた顔をしたが、すぐにそれを消した。ユリウスも彼同様、無表情を装う。

 侯爵夫人には撃てない、と踏んだからだ。

 だが、ユリウスの隣で怪盗ハーゲンは唇を噛んでいる。

「あなたのようなご婦人に銃など撃てないだろう」

 遠まわしに投降を促すジークムントの言葉に対し、侯爵夫人は堂々と宣言した。

「武器を床に捨てなさい。手を上げて」

 従順に剣を床に置いた怪盗ハーゲンにユリウスも倣った。ここで敢えて逆らって彼女を刺激するのは得策ではない。

 それに、いざとなれば丸腰でも侯爵夫人を捕らえることはできるだろうと考えたからだ。三人は手のひらを侯爵夫人に向け、顔の横まで上げる。

「あなたたち、どうして下級貴族の娘である私が名門ライニンゲン侯爵家の後妻の座を射止められたかご存じないのね。有名な話よ、私は猟銃で鳥を撃つのが特技で、狩りでご一緒した侯爵に見初められたの」

「フランツはそんな話、しなかった」

 ジークムントの口調はまるで駄々っ子だ。が、何を思ったのか突然彼は大声を出した。

「猟銃と拳銃では扱いが違う!」

 侯爵夫人は視線を向けながらも眉一つ動かさない。

「銃の音も平気ですもの、大きな声にも驚かないわ。残念ね」

「しかし!」

 ジークムントの大声に、斜め後ろに立つユリウスの鼓膜が震える。

「そうは言っても、侯爵夫人!」

 ユリウスは鼻の頭に薄く汗が浮かぶのを感じながら小さく唇を動かす。

「静かになさい、撃つわよ」

「撃てばあなた自身の罪が重くなる!」

「今更よ。いいから静かになさい、本当に」

 侯爵夫人の言葉を遮るように、怪盗ハーゲンがユリウスの左側で呻き声を噛み殺しながら床に膝をついた。見れば、ユリウスが最初に失神させた男が彼の右手首を取り、背後から抱きつくようにして背中へと腕を固めている。

「…………っ」

 ユリウスはただその光景を見るしかない。

「おい、無益な暴力はだめだ! それが例え天下の大泥棒だとしてもだ! 話せば分かる!」

 益々声を張り上げるジークムントの一歩後ろでユリウスは唇を薄く開けたり閉じたりを繰り返した。

「問答無用、と言いたいところだけど、そう、話し合いも必要だわ。仲間の肩を壊されたくなければ、二つの宝石とモーリッツの居場所を言いなさい」

 怪盗ハーゲンは別に仲間ではないのだが、こちらに味方する彼の様子を見た後では侯爵夫人がそう勘違いするのも当然だろう。

 そもそもなぜ怪盗ハーゲンは味方してくれたのだろう。自分の名を騙って狂言泥棒をした侯爵夫人に怒りを覚えたからだろうか。それともユリウスには分からないもっと別の理由があるのか。

 しかし何にしても、自分たちを助けてくれた男が目の前で痛みに耐えているのを黙って見ていることもできない。

 ジークムントもユリウスと同意見だったようで、上げていた手のひらを小さく振って言った。

「待て待て、暴力はだめだ! いくら怪盗相手でも暴力で解決するのはよくない! 宝石の在り処は言う! 言うぞ、助手!」

 顔だけを動かし、ジークムントが視線を送ってくる。それに頷きながら、ユリウスは驚いていた。彼が一度聞いただけの文言を覚えていたことにも、ユリウス自身でさえ聞こえないような小さな声を大声で喋りながら耳に入れていたことにも、だ。

 ユリウスは大きく息を吸った。最後は高らかに詠唱しなければ、この魔術の威力は格段に落ちる。

「燃える征矢(そや)とせん!」

 ジークムントの大声に隠れて密やかに紡いでいた魔術がやっと完成した。ユリウスの眼前に現れた白い円形の魔導紋から、一条の炎の矢が解き放たれる。

 狙うは侯爵夫人が手にした銃。愛用のものだったがこうなっては仕方ない。炎の矢でその銃口を塞ぎ、更に燃え移った火に驚いた侯爵夫人がそれを取り落としてくれれば言うことはない。

 が、同時に視界の奥で侯爵夫人の人差し指に力が入ったのが見えた。撃つつもりだ。ユリウスは反射的に唇を開く。

(とばり)となれ――」

 その直後に耳をつんざく銃声が響き渡る。それを聞きながら、ユリウスは炎の矢が消え、代わりに揺らめく赤い紗幕がジークムントと自身の周囲にかかったのを確かに見届けた。

「きゃあっ」

 銃を取り落とした侯爵夫人の悲鳴は、炎の紗幕が彼女のすぐそばへと迫ったためだろう。薄く向こう側が覗ける幕だとしても、魔術で呼び起こした炎に変わりはない。

 怪盗ハーゲンの腕を固めていた男も、彼を解放して叫んでいる。慌てて二の腕をはたいている様子からして、ちょうど怪盗ハーゲンの背中辺りに炎の幕が張られてしまったのだろう。

 開放された怪盗ハーゲンも痛みを堪えるように唇を噛みながら、捻り上げられていた右手をもう一方の手で包み込んだ。

「あの、すみません!」

 ユリウスはハーゲンへと謝罪すると、床の剣を取り上げながら男へ向かい、再び腹に一撃を入れて倒れこませた。すぐに体を反転させ、緑の絨毯を蹴って侯爵夫人の落とした拳銃を拾い上げる。それをもとあった場所、自身の右腰へと納めながら侯爵夫人の首に手を回した。

「な、なにを」

「すいません、ちょっと力を抜いてください」

 女性相手に手荒なことはしたくないが、縛るものも見当たらないのでは仕方がない。ユリウスは肘の内側を彼女のあごの下に、もう一方の腕をうなじに当てると、先程怪盗ハーゲンがやったように腕に力を込めて締め上げた。

「っ……!」

 侯爵夫人はユリウスの腕に爪を立てて逃げようとしていたが、十秒もしないうちに力を失い、膝から倒れこもうとする。とうとう締め落とされて意識を失った彼女をゆっくりと床に横たえ、ユリウスは安堵の息を短く吐いた。

「殿下、まだ仲間がいるとも限りません、早くここを離れ――」

「う……!」

 ジークムントが右のわき腹を押さえ、床に座り込んだ。

「殿下!?」

 駆け寄って肩を支えると、眉尻を下げてジークムントは弱々しく笑う。

「はは、まさかこんなことになるとは……」

 ユリウスの心臓が早鐘を打つ。まさか、侯爵夫人の放った銃弾がジークムントに命中したのか。

「そんな、魔術で燃えたはずなのに!」

 銃口から発射された弾は紗幕に飲まれ、魔術の炎によって消し炭となったはずだ。

 そのはずだった。だが、ジークムントは荒い息を吐いてわき腹を強く押さえている。

(僕はまた、この人を守れなかったのか……?)

 絶望に震える手で、ユリウスはジークムントがわき腹を押さえる手を上から握りこんだ。

「す、すぐに魔術で止血しますから――」

「いいんだ、もう」

 激しい呼吸の下、苦しげに呻きながらジークムントが唇の端を上げる。無理に笑おうとしているのだろうか。しかしその仕草はただジークムントの感じている苦痛を鮮明にユリウスへと伝えるだけであった。

 彼はユリウスの肩に頭を預けるようにし、長い脚を投げ出して倒れ込む。ユリウスはそれを震える腕で抱きかかえた。

「……すまなかった」

「え?」

 わがままな主の口から紡がれるとは、思いもよらなかった言葉だ。ユリウスは一瞬、聞き間違いかと思ったが、ジークムントは更なる謝罪を告げた。

「振り回してすまなかった。お前には迷惑をかけた。皆が嫌がる私の護衛……嫌だった、だろう」

「そんなこと、そんなこといいんです! 迷惑なんて」

 だからもう喋らないで、死なないでください。そんな風に願う言葉も動揺のあまり声にならない。他にどうしようもなくユリウスがただ覗き込んだ蒼い瞳は、湖面のように水を湛え、今にも溢れそうになっている。

 その瞳がほんの少しだけ笑った。

「短い間だったが……とても楽しかった」

「ぼ、僕は――」

 肩を抱く腕に力を込め、ユリウスはジークムントの手を離して自身の襟元に触れる。スカーフを取り、止血をしようと思ったのだ。しかし、ジークムントの手がそれを遮った。もういい、とでも言いたげに。

「ありがとう、ユリウス」

 囁くような微かな言葉の後、疲れきったように目を閉じ、ジークムントは瞳をまぶたの下に隠してしまった。

 わき腹を押さえていた手が力を失い、床に落ちる。

「殿下?」

 返事はない。黄金色の長いまつげが、白い肌に動かない影を落としている。

「殿下!」

 ユリウスは再び呼びかけた。それでも応える声はなかった。

「……殿下、殿下! 殿下あぁ! 死なないでくださいっ……!」

 こみ上げるものを全て彼を呼ぶ声にして、それでも返ってくる言葉のないことに、ユリウスの暗い色の瞳に熱いものがにじんだ。

(僕はこの人を、守れなかった!)

 ごめんなさい、と涙の混じり始めた声で言う。

「ぼ……僕はあなたのこと嫌いじゃないんです、迷惑じゃないんです!」

 それは真実の言葉だ。死者への手向けのために飾ったものではない。

「でも、でも僕はあなたに相応しくなくて」

 真実の言葉であるがゆえに、口にすると胸が鋭い刃で切り裂かれるように痛む。

「僕は、実力も見た目も性格もこんなで、個性もなくて、オスカーさんみたいに美形でもないし、フランツさんみたいにすごい経歴もないし、全然、王子であるあなたに相応しくなくて、だから自分が恥ずかしくて、あなたに向き合えなくて……すみません、すみません、ちゃんと言って差し上げられなくて。あなたはちゃんと僕に訊いてくれたのに、僕は何も言えないで」

 溢れる悲しみが嗚咽となるせいで、ユリウスは切れ切れの言葉をやっと紡いでいる。

「こんなことになる前に気付けばよかったのに……」

 どんなに後悔してももう遅い。

「最初は困ったけど、でも、いつの間にか、迷惑じゃなくなってました。何だか訳が分からないけど、でも本当は心のどこかで少し楽しくて」

 ユリウスの頬を大粒の涙が後から後から伝う。

「殿下、僕はあなたのことを――」

「ああ、分かった分かった」

 抱いていた死者が目を開けた。それもからくり人形のように突然。

「そんな理由か」

「はい?」

 頭が真っ白になり、思わず聞き返したユリウスを、死んだはずのジークムントが大きな目で見上げてくる。彼は口を開け、まるで生きているかのように、長い溜息を吐いた。

「全く、そんなくだらない理由で私の質問にも答えないでもごもごしていたのかお前」

「あ?」

「昨日の晩、うなされてあんな調子だったから、今日は朝から気を遣って色々と褒めてやったのに、何だか損をした気分だな」

「ああ?」

 あごが外れそうなほど大きく口を開け、ユリウスは抱きかかえている男を見下ろす。

 死んだのに喋っている? 王族ってそんなことができるのか? 王族すごい。

 再びまぶたを閉じ、ジークムントはユリウスに抱きかかえられたまま肩をすくめた。

「大体お前、実力は充分あるじゃないか。戦えるし魔術だって使えるし、まあ他の協会員に比べてどうかは知らないけど、実力不足だと思うならグチグチ言う前に訓練して経験を積めばいい。王宮のことだってこれから知っていけばいいだろう」

 地面に投げ出していた手を持ち上げ、自身の健康的な薔薇色の唇に人差し指で触れながらジークムントが見上げてくる。

「まあ、顔は、まあ、うん、まあ……普通だな。性格も悪くない。すぐに声が裏返るしおどおどしているし、うっとうしい感じがしないではない。だが、少なくとも嘘をついて平気な顔ができるような、王宮にたくさんいるような種類の人間ではない」

 目を細め、その美しい唇で彼は囁く。

「……いい個性じゃないか」

 ユリウスは、ジークムントの微笑みを見ながら激しく瞬いた。それから彼の脇腹を見やる。血どころか糸がほつれた様子さえ見当たらなかった。

「なん――怪我は!?」

「誰も怪我をしたなんて言ってない」

「いやいやいや今にも死にそうだったじゃないですか、というか今死んだ!」

「死んでない死んでない」

 へらへらと笑ったジークムントを思い切り床に放り投げ、ユリウスは立ち上がった。

「いたっ!」

「ちょ、ちょっと! どういうつもりですかあんた、なん、何で、僕はてっきり本当に死んだかと!」

 痛い、と呟きながらジークムントも立ち上がる。その体中のどこにも、怪我を負ったような様子は見て取れない。

「素晴らしい演技だったようだな。探偵には演技力も大切だ」

「あああ!」

 ユリウスは頬と目尻を濡らした雫を手の甲で乱暴に拭い、奇声をあげた。

 やられた!

「ほ、本当に何でこんなこと!」

「探偵にはこういう感動の場面も必要だ。出版する際の山場となるだろう。それに」

「それに?」

 清々しささえ感じさせる満面の笑みで、ジークムントがユリウスの肩を叩く。

「素直な気持ちが聞けて嬉しいぞ、私のことが嫌いではないユリウス君」

「――――っ!」

 ユリウスが声もなく悶絶していると、背後の扉から数人の男が駆け込んできた。

「何事だ、銃声のような音が――殿下!?」

 協会員の制服を着た彼らはジークムントがいることに驚き、更にその周辺に倒れている三人の男とライニンゲン侯爵夫人を見て声を失った。

 四人もの人間が失神していれば、驚いて当然だろう。

「え、四人?」

 ユリウスの言葉に二人は顔を見合わせた。

「怪盗ハーゲンがいない!」

 二人が茶番劇をやっているうちに、まんまと怪盗は逃げおおせていたのだった。

 

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