1.助手=僕?
一章
雲一つない蒼穹に、鐘の音が高らかに響き渡る。
ユリウスは講堂へと向かう整然とした石畳の途中で立ち止まり、空を見上げた。それからゆっくりと息を吐き、緊張で強張っている体をほぐす。
(とうとう卒業か……)
十七歳のユリウス・シェリングは王都魔導保安協会教育部の卒業式を、十数分後に控えていた。
下級貴族の次男坊である彼は、将来的に大した土地も財産も得られないと生まれた時点で決まっていたが、不幸中の幸いに魔術の才能を持ち合わせていた。
この世界に生れ落ちた人々は、二種類に分けられる。魔術を発生させる元となる魔導力を持つ人間、持たない人間だ。
正確に言うならば、魔導力を持つほんの一握りの人間、持たない大多数の人間、である。
ユリウスは前者であった。
不幸中の幸い、などという表現を使うのは間違っているのかもしれない。人並みに健康な肉体、貴族の子弟としての最低限の教養、そして魔導力――それも人並み以上の――と三拍子揃って持ち合わせている彼は、この世でも随分と恵まれた部類の人間だ。
なぜならば、彼はその三拍子のおかげで王都魔導保安協会教育部へと入学し、無事卒業を迎えたからである。
この教育部を卒業すれば、自動的に王都魔導保安協会、通称『協会』へと所属することになる。大層な名を持つ組織であるが、実際に中々大層な組織なのである。
というのも、この組織は国王の――現在は女王の治世であるため女王のだが、私的な使用人という体裁の魔術師集団であり、その名の通り王都の治安維持に当たっている。
魔術の腕はもちろんのこと、教養もあり、剣術や銃の扱いにも優れた、選り抜きの魔術師によって構成され、都民からの信頼も厚く、組織の中で出世すれば陛下からの信を得ることもできるという所属するだけでも栄誉ある組織、それが協会であった。そこに協会員として所属すれば、目に見えないものばかりではなく、もちろん俸給もそれなりに得られる。
しかしそれらを得られる人間は、人口数百人の村にやっと一人生まれるかどうかの魔術師を数百人集めてようやく一人という程度で、協会は王国の中でも精鋭中の精鋭魔術師が集まるところであった。
これからユリウスはその養成機関である教育部を卒業し、正式に協会へと所属するのだ。つまり彼は一応、この国における精鋭中の精鋭魔術師なのだが、とてもそうは見えない地味な顔立ちに、緊張から来る少々情けない困惑の表情を浮かべていたし、そもそも彼には自身が精鋭であるという意識はなかった。
在学中から、成績は中の中、知力体力魔術においてユリウスが逆立ちしても敵わない生徒など大勢いたのだから。
(僕は一体どこの部署に配属されるんだろ)
ユリウスは再び襲う緊張に、胸が締め付けられるのを感じていた。緊張しやすい性格なのだ。その背中を思い切り叩く者がいる。
「おはよう!」
「ああ、びっくりした。おはよう」
後ろからやって来たのは級友のエルマーだった。にこにこと笑って、これから卒業式及び協会における配属先の発表を控えているとは思えない気楽さを醸し出している。
「ユリウス、元気ないな。もしかして緊張してるのか?」
「当たり前だろ、配属先が発表されるんだぞ。緊張しない訳ないじゃないか」
あはは、とエルマーは笑った。
「あのなあ、俺たちは成績が中くらいの平々凡々な生徒なんだぜ。緊張するようなところに配属される訳ないだろ。どうせ、二、三年はその辺の出張所で道案内したり馬車で込み合う道の整理をしたり、そんなもんに決まってる」
「……あ、それはそうか」
エルマーの屈託のない笑顔に、ユリウスもつられて笑った。確かに彼の言う通り、成績が飛びぬけて優秀でもないユリウスたちが、いきなり王宮内部にある協会の本部で事務をやらされる訳も、女王の暮らす王宮全般の警護に関わる警備部に配属される訳も、あるはずがない。
最初は都内に二十以上ある区署や出張所で、本来ならば警察の仕事である様々な業務をも、協会と警察の業務の違いに無頓着な市民からの信頼に応えるために笑顔で引き受け、同時に魔術を使っての犯罪や治安を乱す重大な事件への対応にも使い走りとして追われるところから始まるだろう。
そう考えると胸のつかえが取れたように、急に気分が楽になる。
「ユリウスも俺も、身の丈にあったところに配属されるさ」
「確かに。でもまあ、僕は褒められたこともないへぼ記者だけど、せっかく学校新聞で記事を書いていた経験を活かしたいから、将来的には本部の広報にも行ってみたいけど」
ユリウスの言葉に、エルマーは頷く。
「ま、将来的にはな。俺だっていつかは警備部なんかに配属されて、王族の近くで働いてみたいさ。ただ、成績が中の中だったおかげで、いきなり王族の護衛なんていう名誉ある大役を引き受けるなんてことはないさ。見た目だって中の中なんだし」
「あはは。そう思うと、僕たち普通でよかったな」
ユリウスは笑った。それはそうだ、自分が王族の護衛になるなんてこと、天地がひっくり返ったってあるがはずない。
所属するだけで名誉に浴する協会において、王族の護衛という職務は拝命すれば無上の喜びを得るとされるものとされる。言うなれば王族の護衛は、名誉の最高峰なのだ。
と言うのも、護衛に任命されればその王族にぴったりと寄り添って生活を送ることになるからだ。
ただ身の安全を図る護衛としての任務だけでなく、主人によっては、日常の細かな世話――朝、主人の枕元に目覚めのチョコレートを運ぶところから、昼、主人だけでなく一緒に紅茶を飲む貴族たちの好みの茶菓子や複雑な人間関係も把握し、夜、質のいい葡萄酒で酔い潰れた主人に吐瀉物を吐きかけられながらも抱きかかえて寝台まで運ぶ、という使用人の範疇に含まれる部分まで面倒を見ることになるらしい。
護衛とは名ばかりの、陰謀渦巻く王宮で神経をすり減らす雑用係であると言い換えられるだろう。
それでも上手くやれば、王族の深い寵愛を受けることができる。いずれは宰相、あるいは王家の外戚に――そう誰もが夢見ている。
しかしそれはあくまで、名誉や出世、利権を望む大概の者が勝手にそう夢想しているという話で、その激務の噂や縁遠さから、一部の者は護衛の職務を、ただの面倒な仕事でしかないなどとも言う。ユリウスもどちらかというとそちら側の人間であった。
どうせ協会に属していたところで生涯関わるはずのない、選ばれた人間のための職務なのだという意識しかない。
ユリウスは魔術師としての腕も、また武術の才能も、どちらに関しての知識も、協会の中においては中の中。
性格は緊張しやすい性質で焦るとおどおどしてしまうところもあるが、奇抜さはなくごくごく普通。目立つことはあまり好きではないし、出世欲も人並み以下。諍いは嫌いだが生真面目な優等生でもない。
見た目も十人並みで、これといった特徴もない。身長もちょうど平均値だし、筋肉も協会員としてそれなりにはあるが、骨太でなく細めの体型をしている。
特に癖のない地味な黒髪にほぼ同じ色の瞳、顔立ちも十人並み。人目を引く要素など一切なく、ぱっと見たところうだつの上がらないどこにでもいる下級貴族の子弟といったところである。
つまらない奴だと言われても、それどころかそこにいることを忘れられても仕方ないような存在だ。
もちろん魔術を使えない人間からすれば、あるいは魔術師であっても協会に所属できなかった人間からすれば、ユリウスは羨望の対象だろう。
しかし、どこへ行っても上には上がいるものである。
自分の才能など取るに足らないものであると入学早々に彼は知り、他人を蹴落とすことを好まない性格と相まって、ユリウスはごくごく平凡な――王族や有力貴族、政治や陰謀とは関わりのない一般的な協会員としての道を歩み始めたのである。
それでもユリウスは自身の穏やかな生活に満足だった。とにかく無事に教育部を卒業し、協会員として真面目に働けば、それなりの財産を蓄えて穏やかな老後を送ることができる。
(うん、平凡だとしても僕の人生は穏やかでいい人生だ……!)
胸のうちで密かに感動を味わっているユリウスを現実世界に引き戻したのは、エルマーの明るい声だった。
「あ、ところでさ、怪盗がまた出たらしいぜ!」
「怪盗って、例のハーゲンとかいうヤツ?」
エルマーが瞳を輝かせる。
「格好いいよな。法で裁けない悪徳貴族や商人から盗んだ金貨を、貧しい人の家にばらまいていくなんて。義賊って言うんだろ」
「でも僕たちは協会員だろ。それを捕まえる側なんだからな」
ユリウスがそう注意したところで、エルマーの口調は熱を帯びるばかりだ。
「まあそうなんだけどさ、でも事実格好いいだろ。盗みの技巧も鮮やか、人間とは思えない身体能力、大胆不敵に口上を書いたカードを残していく優雅さ! 協会の中にも支持者が多いって噂だぜ」
「それじゃあ捕まらない訳だ」
はあと溜息をつくユリウスの背後から、こら、と言う声が降って来る。二人して振り向けば、老齢の教師が犬でも追い払うような仕草を見せながら歩いてくるところだった。
「早く講堂に行かないか、式が始まるぞ」
「はい!」
ユリウスはエルマーと共に駆け足で、学校の庭を貫く石畳を辿り講堂へと向かった。
卒業生と在校生、教師たちでいっぱいになったあまり広くない講堂の中程、中央寄りの通路側席に座り、ユリウスは緑色の制服の皺を伸ばす。
普段はつけていない金色の飾緒や白いスカーフがやや窮屈だが、午後からは配属先で新米協会員として真新しい黒い制服を着ているのだと思えば、この窮屈さもまた四年間の学校生活の総括なのだと感じられ、胸に少しの寂しさが去来する。
(うん、穏やかでいい学校生活だった……!)
それなりに授業を聴き、それなりに教師に叱られ、それなりに級友と絆を育んだ、穏やかでそれなりだった学校生活の記憶が蘇る。万感の思いを胸に制服の裾を引っ張るユリウスの二の腕を、隣に座ったエルマーがつついた。
「来賓って、ジークムント殿下だったんだな。珍しいな、毎年兄君のルートヴィヒ殿下がいらっしゃるのに」
エルマーの視線を辿れば、壇上に用意された貴賓席に、青年が一人腰掛けているのが見えた。
美しい青年だった。黄金色をした艶やかな髪が窓から差し込む日の光を浴びて輝き、まるで彼の周囲だけ魔術をかけたように明るく見える。
青年の白磁のような肌の中には、蒼く透き通った鋼玉のような大きな瞳が埋め込まれていた。すっと通った鼻筋や長い手足は、高名な芸術家の手による彫像のようだ。
協会の制服とよく似通った赤を基調とした軍服のような上着に、金色の飾緒や白いスカーフなど、似たような格好をしているはずなのに、その辺りの卒業生とは比べ物にならない堂に入った着こなしである。
ユリウスの席からその青年――うら若き十八歳、第二王子であるジークムント殿下までそう近くもないのだが、それでも周囲の教師たちのなかで彼が独り異彩を放っているのは遠目にも明らかであった。
エルマーが息を吐き、どこか羨ましそうに言った。
「前にも一度見たことあるけど、相変わらずとんでもない美形だな」
「うん。馬術大会のときだっけ、来賓で。背も高くてすらっとしててさ」
「そうそう。でもすっごい変わり者らしいぞ」
「そういう話も聞くけど、でも馬術大会のときはいい人そうだったけど」
「ええ? そうだっけ?」
「そうだよ、ちゃんと競技ごとにしっかり拍手もされて、楽しそうというか、熱心に観覧されてたし」
ユリウスが声を潜めてエルマーに告げれば、まるでその言葉が形のよい耳に届いたかのように、ジークムントがユリウスに視線を定めた、ような気がした。
(えっ?)
目が合った?
しかし、ジークムントはもうあらぬ方向を見つめている。気のせいか、とユリウスはなぜか若干安堵を感じた。式を開始すると告げる進行役の教師の声が聞こえ、彼はジークムントから視線を逸らした。
それから式は滞りなく進み、あっという間に締めに入ろうとしている。残るは来賓の挨拶と、配属先の発表である。ユリウス含めた二十名程度の卒業生からすれば、とにかく配属先が気になって仕方ないものだから、長ったらしい来賓挨拶はあまり歓迎されないのだが、畏れ多くもこれから仕える女王陛下のご令息のご挨拶となれば、一応神妙な顔をして聞いていなければならない。
一年半前にジークムントがこの教育部の馬術大会に臨席した際の挨拶は、味気ないにもかかわらずひどく長かったのをユリウスは覚えている。今回も長いのだろうかと、卒業生たちの間に無言で同じ考えが共有される。
ジークムントの挨拶が始まる旨を告げる進行役の声に、講堂が盛大かつ無感動な拍手で満たされる。美貌の王子は優雅な所作で立ち上がり、高い身長の割りに物静かな印象の歩き方で壇上にあがった。
そして講堂をゆっくりと見渡し、口を開く。
「諸君」
聞いたものを心地よくさせる、柔らかな音楽のような声である。それが流れるように言葉を続けた。
「卒業おめでとう……以上!」
きっぱりと言い切り、ジークムントはさっさと壇から降りてしまった。
「えっ?」
当然ユリウス含め、講堂に集った生徒たちは、いや、教師たちも困惑でどよめいた。
この第二王子がその麗しい容貌に似合わず、少々どころか相当変わり者であるというのは、先程エルマーが口にしたように有名な話であった。
が、まさかこういった公務においてまでふざけた態度を取るということをユリウスは予測していなかったし、周囲の反応からして、誰も考えていなかったようだ。馬術大会のときは真面目に挨拶も観覧もこなしていたのである。それがいきなりこの様では、誰もが戸惑わずにはいられない。どよめきは収まらず、講堂内に蔓延する一方だ。
しかしジークムントは挨拶の前の大人しさとは打って変わった、黄金の鬣を持つ獅子のように堂々たる態度で、壇の下にいた進行役の教師に近寄って言った。
「挨拶は以上だ。ところで君、これから卒業生の配属先の発表だったな」
よく通る声だ。講堂の中程にいるユリウスにもはっきりと聞こえる。突然話しかけられた教師は手にしていた式次第を取り落とし、声を裏返す。
「は、え、あ、はい、そうですが――」
「うん、時間がもったいない。早速発表しよう」
ぜんまい仕掛けの人形のようにくるりと踵を返し、ジークムントは再び壇上に上がる。それから思い切り息を吸い、講堂を揺らすほど大きな声で叫んだ。
「ユリウス・シェリング!」
「………………はい?」
ユリウスが自分の名前を呼ばれたのだと理解するまでに、たっぷり三秒は必要だった。その間に講堂の全ての視線がユリウスに向けられていた。
「はい?」
訳の分からぬままユリウスが二度目の疑問符を口に出した瞬間、壇上から何かが飛んだ。
それは中央の通路を駿馬のごとく疾走し彼の目の前で止まる。何だ、と思うより早く、額がぶつかりそうな距離でその物体が口を開いた。
「君は私の護衛になった」
そう宣言して大輪の薔薇の花がほころぶように華麗に微笑んでいるのは、第二王子であるジークムント殿下だ。
「えっ?」
混乱で疑問符以外が口から出てこないユリウスの手を白く温かい手でぎゅっと握り、ジークムントは首を横に振った。
「いいや、今日から君は私の助手だ!」
そして右手でがっちりとユリウスの手首を拘束したまま、講堂の扉を指差して哄笑した。
「さあ行くぞ、助手よ!」
「ちょっ……!」
手首を掴んだまま突然扉へ向かってジークムントが走り出せば、ユリウスは引きずられる以外にどうしようもなかった。相手が王子様だから無礼にならないよう抵抗を控えた、というのではない。
突然護衛、もとい助手に任命された衝撃の中で、未だ溺れているからだ。唯一彼が褒められるべきは、帯から外して椅子に立てかけていた剣をしっかりと左手に握っていたことだけだろう。
「じょ、助手って何……!?」
そのユリウスの疑問に答える者は誰もいなかった。ジークムント以外の誰も、答えを持たなかったからである。
誰もが呆然としながらその問いの答えを探している間に、ジークムントは体当たりするように大きな扉を開き、ユリウスを講堂の外、広大な蒼穹の下に引きずり出した。
そして彼に引かれるがまま、ユリウスも止まらずに駆けるしかない。
その様はまるでこの世界の果てに向かう冒険者だ。
彼らの前途を祝すように、学校の鐘が澄んだ空へと高らかに鳴り響いている。
かくしてユリウスの穏やかなる学園生活及び穏やかなる日々は幕を閉じ、美しくも奇異な王子に翻弄される日々が幕を開けたのであった。