魔王と婚約者の一日(6)
サラサラと、洋紙と羽ペンが擦れ合う微かな音にふっと目が覚める。
柔らかなシーツの感触をぼんやり確かめながら、眠ってしまうまでのことを思い出して居た堪れない気持ちになった。
断続的に続く音の方向へ顔を向ければラオがベッドに腰掛けたままテーブルの上で書類にサインをしている最中だった。羽ペンを持っていない方の手はあたしの手と繋がれている。
驚いて手を動かすと気付いたらしいラオが振り返った。
「リア…どこか具合が悪い所はないか?」
顔を覗き込まれそうになって慌てて紅い瞳を空いている方の手で覆う。
化粧をしていると言うのに思いっ切り泣いてしまった今のあたしの顔は、きっと見るに耐えない様だ。
「ないわ。でも、お風呂に入りたいかも。」
「そうか。」
チリンとラオがベルを鳴らせば侍女が音もなく入室して、あたしに薄い布を被せると魔王へ恭しく一礼し、そっと背中を押されながらラオの私室を出る。
人気のない道を選んだのか浴室までの道のりで誰かと擦れ違うことはなかった。
ドレスを脱ぐ手伝いをしてもらい、浴室へ足を踏み入れるほんわりとした湯気に全身を包まれる。侍女に促されるまま座ると良い香りのする石鹸が泡立てられ、柔らかなスポンジみたいなもので丁寧に体を洗われていく。
最初はとても恥かしかったけれど断った時に泣きそうな顔で侍女に懇願されてしまったので、今では諦めている。
それに彼女はその道の専門と言うだけあって素晴らしいほど上手に体や髪を洗ってくれる。マッサージの要領なのか気持ち良くて寝こけてしまいそうになったことも何度かあった。
「ごめんね、折角綺麗にお化粧してくれたのに。」
「いいえ、気になさらないで下さい。リールァ様がご無事で安心致しました。インキュバスに襲われたと聞き及んだ時は、それはもう心臓が止まる思いでしたもの。」
「…ありがとう。」
ニッコリ笑う侍女は本当に素敵な人だ。
あたしよりも少し年上で、落ち着いた雰囲気と穏やかな表情が大人の魅力を引き立てる女性。小豆色のメイド服もよく似合っている。
全身を綺麗に洗われ、ゆったりと湯船に浸かる。
大浴場みたいなものもあるけれど、あたしは基本的にバスタブタイプの方を使っている。
温かいお湯にリラックスしている間も侍女はあたしの髪を乾かしたり、髪に良いとされる花の油を塗ったりと忙しない。湯船に浮かぶ椿のように赤い花を指先で弄んでいると侍女がおやっという表情をした。
「あら、」
「? どうかしたの?」
「いえ、何でもありません。陛下も隅に置けませんね。」
クスクスと笑う侍女に首を傾げると、小さな手鏡を手渡された。
背後にあった鏡と合わせて見てみればうなじより少し下の方に赤い虫刺されのようなものがポツリとある。勿論それを虫刺されだと勘違いするほどあたしは純情な乙女ではない。
何時の間にキスマークなんてつけたのアイツ!
人の寝込みを襲ったのかと憤慨するも、侍女はまぁまぁとあたしを諌めようとする。
「陛下も殿方ですもの、好いた女性が傍に居れば抑えが効かなくなる事もありましょう。ずっと我慢していらっしゃるのですから、これくらい大目に見て差し上げては頂けませんか?」
その言葉は尤もだった。
ラオはあたしを好きだと言う。四六時中好きな相手と共にいるのに触れられないというのは男にとってツラいものかもしれない。
「でもねぇ…、」
「今回の件で陛下も焦っておられるのですよ。自分の物だという印が欲しかったのかもしれません。」
「まだあたしはラオの物じゃないんだけどね。」
あたしの言葉に侍女は柔らかく笑いながら湯船から出るよう促した。
バスタブから出るとすぐさま肌触りの良いタオルで全身を包まれ、拭かれ、シンプルながらも控えめなレースが美しいネグリジェを着させられる。勿論透けてない生地のだ。
乾燥しないようにとハーブを使ったオイルでボディケアを受け、サッパリとした気持ちになって、また薄い布を羽織りながら私室へと戻る。
部屋の前まで来ると侍女はサッとあたしから布を取って「叱らないであげて下さいね。」と小さく笑って離れて行った。
…仕方ない、今回は侍女に免じて見逃してやるとしよう。
軽く息を吐いてから扉を開けたが部屋には誰もいない。
おそらく彼も入浴に出かけたのだろう。
綺麗に整えられたベッドにダイブしてみれば気持ち良いくらいにポーンと体が跳ね返って、スプリングの良さを示す。
寝転がっていると扉が開く音がして見慣れた影は滑るように入り込んできた。
昼間とは違い薄手のズボンにワイシャツっぽいものを羽織っているだけのラフな格好でラオがベッドに腰掛け、ベッドに少しだけ散っていたあたしの髪を整えるように梳く。
「…夕食は、如何する?」
そう問われてそういえば食べていない事に気が付いた。
けれどあまりお腹も空いていなかったので「いらないわ。」と言い、ラオは食べたのか聞くと「減ってないからいらない。」なんてどうやらあたしと同じだったらしい。
起き上がってラオの肩にかけてあったタオルを取る。
まだ水気がだいぶ残っている黒髪を優しく拭いてやると静かに目を閉じた。
人間と違い風邪なんてそうそう引かないだとか言ってはいるものの、濡れた髪を放置してるのは髪にも体にも良くない。
しっかり拭いて乾かしてやった髪は綺麗なストレートで艶やかに光を反射させる。
こっくりこっくり、船を漕ぐ魔王に苦笑した。
「寝よっか。明日も早いでしょ?」
「…ん、」
緩慢な動作でベッドに潜り込んだラオが毛布の端を広げてコチラを見る。
何時も通りそこへ入れば大きな腕が腰へと回され、キュッと軽い力を込めて引き寄せられた。
「おやすみ。」
「…御休み、」
少ししてから聞こえてきた規則正しい寝息を子守唄代わりに、あたしも目を閉じて、背後の温もりに体を預けて眠りに落ちた。