魔王と婚約者の一日(5)
ヒョイと本棚から顔を出して見ると、つい先程まで忙しそうに書庫の整理をしていた人々がいなくなっていた。
だが足元には今しがたまで片付けられるはずだった本が数冊散らばっている。
拾い上げてみれば本のページは無惨にも折れてしまっていて、破けなかったのが不思議なくらいだった。
本を大切にしている彼らがこんなことをするだろうか?
嫌な予感がして咄嗟に一歩横にズレた瞬間、何かが後ろから通り過ぎて行った。
それなりのスピードで横を駆け抜けたソレは向かいの本棚にぶつかる直前でピタリと止まる。そこで漸く、ソレが人の形をしていることに気付く。
「…誰よ、アンタ。」
タキシードによく似た服を纏った男が一人、嫌な笑みを浮べてあたしを見つめている。
人間からすればかなりの美形だけれど残念なことに毎日悪人面の超絶美形を見ているせいか、まぁ整ってはいるなと思う程度だ。
男はあたしの体を頭の天辺から爪先まで舐めるように見てから、ペロリと舌舐めずりをする。いくら美形とは言えお世辞にも格好良いとは言えないわね。
「こんな所に人間がいるなんてなぁ…?」
「質問に答えなさいよ。」
「しかも気が強いときた!」
全く会話が噛み合わない。何コイツ。
苛立つあたしとは逆に男は上機嫌で近付いて来る。
頭の片隅で警報が鳴り響いて、早くラオを呼べと叫んでいる。けれど今は大事な会食中の魔王を邪魔するのには躊躇いもあった。
ふと男から香った甘い匂いにハッとする。
それは以前にも嗅いだことのある独特な強い香りだった。
「アンタ、インキュバスね?」
「良く分かったな。」
「前に会ったインキュバスも、同じ匂いをさせてたもの。」
そうか、インキュバスか。
男が「同じ匂い…?」とやや驚いた表情であたしを見る。
まさか会食相手の部下に襲われるとは思いもしなかった。というより、部下の教育くらいしっかりして欲しい。
とりあえず男がインキュバスならば何の問題もないと深呼吸を一つ。
「待っ、!」
「ラオーーーーッッッ!!!!」
男の制止の声を遮るように名を叫ぶと、その響きが消え入らない内に慣れた温度が全身を包み込む。
顔を上げた先にはラオの顔があって、男から隠すようにあたしをマントで覆っていた。
「動くな。一歩でもその場を離れてみろ、八つ裂きにしてやる。」
獣の唸りにも似た獰猛さを隠しもせずに男を睨み付ける姿は魔王と呼ばれるに相応しい姿だった。
けれどすぐにあたしを見下ろしてきた紅い瞳には不安と心配の色がありありと浮かんでいて、男へ向けているものとは反対の手で頬や肩に触れてくる。
「無事か?」「何もされていないか?」と顔を覗き込んで来る魔王に大丈夫だと笑いかければホッとした表情で髪にキスをされた。
だがすぐに顔を上げると凍て付いた瞳で硬直してしまっていた男を射抜く。
男がビクリと体を震わせるのと同時に、その背後にあった空間がグニャリと歪んで、また別の人物が姿を現した。
「全く、恥晒しもいいところだよお前は。」
軽い口調で震える男を罵倒したその人物は、今日の会食でラオと共に食事をしていたはずのインキュバスの長で、長く伸ばされた爪を男の首筋に突きつけたままアハハーと笑みを浮べている。
顔は笑っているのに長から感じられる空気は冷たい。
「リールァ様、ご機嫌斜めだね~。」
「これで機嫌が悪くならない人がいたら会ってみたいわ。」
「ありゃりゃ。本当にごめんね?まさかコイツがこんなことすると思わなかったし。」
己の一族の長と魔王に挟まれて顔面蒼白になっている男は哀れな気もするが、あたしも流石に襲われたくはなかったのだから仕方ない。
ラオは酷く不愉快そうに口を開いた。
「如何いう躾をしている。」
「申し訳ありません。コレもリールァ様が人間である事は知っていたので、手出しはしないだろうと思っていたんですけどね。」
「ほぅ?では俺の婚約者と理解していたにも関わらず、手を出したという事か。」
二人分の殺気に男が情けない悲鳴を上げて腰を抜かしてしまった。
長はニコニコと笑っているものの、その瞳は冷たく男を見下ろしている。
ラオに至っては今にも男を殺してしまい兼ねない様子だ。
マントを引っ張っればすぐに瞳を和ませてあたしを見る。
「ラオ、ダメよ。」
「…何故?危うく襲われる所だったのに、」
「彼に狙われたのはあたしなんだから、彼の罰をあたしが決めたって可笑しくないでしょ?」
「だが…っ」
「ラオが心配してくれたことは分かってるわ。すぐに来てくれてありがとうね。」
そっと頭を撫でてやると口を噤んだが、やはり少しだけ不満そうに眉を寄せている。
ラオからしてみれば内心怒りが爆発しているんだろう。あたしだって、もしも大事な人が襲われかけたら犯人をぶん殴ってやるだろうし。
でもラオは力が強過ぎて手加減なんてしない。
多少危機感を感じたものの触れられてもいないのに、男に死なれては後味が悪過ぎる。
長を見れば男を足蹴にしてコチラを見つめていた。
「その男はアンタに任せるわ。」
「オレで良いの?」
「えぇ。ただし殺すのだけは勘弁してあげてね。」
「…優しいねぇ、リールァ様は。」
「あたしのせいで死なれたら後味が悪いだけよ。」
長は自分と同じくらいの男を軽々と担ぎ上げると「王、会食の続きはまた今度にしましょーねぇ。」と笑って手を振りながら歪んだ空間の中へと消えて行った。
後に残されたラオはすっかり元通りになった空間を睨み付けたまま唇を噛み締めている。
それを止めさせるために唇に触れると、思った通り目元赤くさせてオロオロとし出した魔王にホッと肩から力が抜け落ちた。
「あ!ラオ、司書のおじいさんは?本の整理をしてた人たちも、無事?」
「あぁ、皆気絶しているだけだ。すぐに目覚める。」
「そう、良かったわ。」
鼻の良い魔族のことだから、あのインキュバスも人間のあたしの匂いを嗅ぎつけて書庫へ来たに違いない。
あたしのせいで怪我なんてされた日には申し訳なくて会わせる顔もないと思っていただけに、本当に良かったと胸を撫で下ろす。
が、ラオは憮然とした表情で「良くない。」と言った。
ギュッと抱き付いてくる大きな体は小さく震えていて、肩口に顔を埋めてきたラオはもう一度「良くない、」と呟く。
「呼べと言った。けれど、リアに呼ばれた時は血の気が引いた。…急いで時空移動したら、インキュバスの気配がして、」
「…だからあんなに早かったのね。」
「抱き締めた時、少し震えていた。リアに恐ろしい思いをさせたアレを本当は、殺してしまいたかった。」
…気付かれていたらしい。
どんなに強がっていても、やはりあたしは女で、しかもただの人間で、魔族に本気で襲いかかられたら抵抗し様がない。
元いた世界でも変質者にだって会ったことがなかったから、実は結構怖かった。
でも意地っ張りなあたしは弱い姿を見せたくなくて、無理に何時も通りに振舞っていたが、ラオにはお見通しだったようだ。
「言ったでしょ、殺しはダメ。……でも、ありがと。ホントはちょっと怖かったかも。ラオが来てくれたから直ぐに怖くなくなったけど、何だか改めてあたしってただの人間なんだって再認識しちゃったわ。」
「リア…、」
大きな手の平に引かれ、ラオへもたれ掛かるような体勢になる。
一瞬ふわりとした浮遊感が襲ってきたかと思えば見慣れた魔王の私室にいて、ベッドの上に二人仲良く座っていた。
細身ながらも実は筋肉質な胸板に頭が引き寄せられる。頬に温かな体温と規則正しく脈打つ鼓動が聞こえてきた。
「泣きたい時は泣いても良い。誰も責めたりしない。」
低い声が頭上から優しい響きを持って降って来る。
ラオはあたしの頭を撫でては、時折髪を指先で梳っては宥めるように背中を擦ってきた。促されるように吐き出した息はか細く震えていて、思っていたよりもインキュバスに恐怖を感じていたことを今更ながらに自覚する。
きっと今あたしはすごく情けない顔をしているだろう。
見られたくなくてラオの胸に顔を寄せると抱き締める腕に力がこもった。
「…落ち着くまで、こうしてて。」
「言われなくても、望む限り、幾らでも傍にいる。」
全てのものから守るように包み込まれた腕の中で、あたしはほんの少しだけ声を上げて泣いた。
この世界に来てから初めての涙だった。