花嫁の失くしもの(1)(side:L
美緒の体が完全に回復したのは彼女が目覚めて一週間程経ってからだった。
以前に比べて抱き締めた体はほんの僅かだが細くなっており、その事実に気が付いた時は何とも言えない苦しみが胸に広がった。
本人である美緒は全く覚えがないからと毒を盛られた事については特に何かを言うこともない。
しかし己の花嫁に手を出されて黙っていられる程ラオはお人好しでもない。
毎日執務と美緒の見舞いが済むと側近であるキアランと共に美緒に毒を盛った人物の特定に力を注いでいた。
元々それなりに検討は付いていたのだ。
王妃となる美緒の傍に寄れる貴族なぞ片手に余る程度しかいないが、あの夜会で彼女の傍に居られたのは侍女か侍従だけ。
となればこの城に仕えている者かそれに扮した者が飲み物を渡したのだろう。
あの時、美緒の傍から離れる直前、彼女は傍を通りかかった侍女に飲み物を頼んだ。
その顔をしっかり確認していればよかった。
そうすれば今すぐでにも捕まえられたものを…。
「――…王、そのままでは羊皮紙が破けてしまいます。」
横からかけられた声にふっと我に返る。
手元へ視線を落とせばグシャグシャに皺の寄った羊皮紙が今すぐにでも破けてしまいそうな状態になっていた。
「あぁ、すまない。」
「いえ…。」
その洋紙に署名し、別の書類を受け取る。
どれだけ手を止めてしまっていたのかは分からないが、それ程長くはなかっただろう。
サラサラと羽ペンを動かしていれば執務室の扉が控えめにノックされる。
小さなその音は此処数日で聞きなれたものだった。
入室を促せば予想通り開けられた扉から姿を現したのは美緒で、机に座る己を見て少しだけ躊躇うような素振りをした後に部屋に入ってくる。
初めて美緒がこの部屋に入る時にもあんな風だった。
誰も邪魔だとも迷惑だとも言っていないのに、邪魔するのは迷惑だからと執務中はほとんど訪れなかった。
だがそのうちに慣れて、よく来るようになって。
ソファーの隅の方に座る癖は相変らずらしい。
着ているワンピースが気になるのか何度も座り直したり裾を手で押さえたりする姿に自然と笑みも浮かぶ。
目が覚めてから美緒は何かと己の傍にいる。
別に何かを言った訳でもないのに執務室に訪れるのだ。
まるでそうしなければいけないと分かっているように、ソファーに腰かけて執務が終わるのを待つ。
記憶を失くす以前と全く変わらない行動をしていると侍女が言っていたが、あながち嘘ではないようで、護衛を連れて調理場に行ったりもしているらしい。
次の書類を受け取ろうとしてキアランが首を振る。
「御昼食の御時間ですので、どうぞ休まれて下さい。」
「もうそんな時間か…。」
壁際に立っていた侍女へ声をかければ静かに昼食の支度を始める。
美緒はそれを何時も目で追っていた。
本人が口にしたことはなかったが、彼女は料理長の作る料理を甚く気に入っているらしく食事時は常に嬉しそうにしていた。
ペンを置いてソファーへ移ると美緒の視線が此方へ向く。
黒曜石の如く美しく、真っ直ぐな黒い瞳に己の姿が映るだけでホッとする。
「何をして過ごしていた?」
夜会の件もあり以前よりは行動範囲を狭めさせてしまったため、恐らく時間を持て余してしまっていただろう。
美緒は一度瞬きをしてから思い出すためか視線が斜め上に向けられる。
「今日は中庭を見てたわ。」
「そうか…庭師に会ったか?」
「えぇ。夫婦でやってるのね。」
とても仲が良くて素敵な夫婦だったわ。
そう穏やかな笑みを浮かべて少し照れる姿に自然と口角が上がった。
ぎこちなかった一週間前に比べれば随分と心を許してもらえたように思う。
だが、未だ記憶が戻らないのが口惜しい。
例え記憶が失くなろうとも美緒である事に変わりはないが、やはり今までの記憶を持つ彼女といることが一番幸福を感じるのだ。
やはり早く彼女の記憶を引き戻す方法を探さなければならないだろう。
どうすれば戻るのか。
…あの時の様子を再現すればもしかすれば思い出すかもしれないが、下手をして無理をさせたくもないと思う。
否、そうするとしても彼女自身に問わなければいけないな。
己の独断だけでそのような事をする訳にはいかない。
のんびり食事に舌鼓を打つ彼女の様子を眺めながら己も皿に視線を落とす事にした。