忘れても、忘れない。
目が覚めたら知らない部屋にいた。
美形だけど悪人面の男があたしを見下ろしていて、周りにも大勢いた。
誰もが嬉しそうに目に涙を溜めていて、でも、あたしには何がなんだか分からなかった。
思わず口から零れた言葉に男が固まる。
綺麗な紅い瞳に絶望の色が垣間見えた瞬間、胸がズキリと痛んだ。
その後医者のような人にいくつか質問を受けたけれどほとんどがよく分からないものだかりだった。
少しの間を置いて、一番最初に見た男…ラオが戻ってきて、説明をしてくれた。
だけど到底信じられる内容ではなくて。
だって、あたしが魔王の花嫁だとか、もうすぐ結婚するはずだったとか、毒を盛られたとか。
どこのファンタジー小説だよってものばかりだったんだもの。
笑えない冗談だと言いたかったのに紅い瞳があんまりにも真剣で、何となく嘘じゃないんだと勘が告げる。
目の前にいるこの美形が魔王で、しかもあたしとは契約者兼婚約者兼恋人だなんてちょっと出来過ぎてるようにも思えた。
あたしの記憶の中には全く存在していない人。
「もしその話が全部本当だったとして、どうするの?あたしは記憶がないのに。」
紅い瞳が真っ直ぐに向けられる。
ワインよりも鮮やかで、夕焼けよりも濃く、まるでルビーのよう。
「如何もしない。また美緒に好いてもらえるようにするだけだ。」
「…好きにならなかったら?」
「…っ、」
くしゃりとラオの顔が歪んだ。
さっきまでの無表情が嘘みたいに、紅い瞳から涙が零れ落ちた。
それを見た瞬間にキュッと胸が締め付けられる。
…泣かないで。そんな顔して欲しくない。
自然とそんな思いが頭を過ぎり、気付けばその黒い髪を撫でていた。
驚いた様子で見つめてくる紅い瞳に笑いかける。
「あたし記憶はなくなちゃったみたいだけど、不思議ね。あなたが泣くと、その、すごく苦しいわ。」
記憶はないのに心は痛む。
それってあたしの中のどこかに、ラオと一緒にいた記憶があって、それで痛むんじゃないかしら。
そう言えばギュッと大きな体に抱き付かれて、魔王は声を上げて泣いた。
一番好きな人が結婚直前に記憶を失くすなんてきっととてもツラいだろう。
低い声が何度もあたしの名前を呼ぶ。
それだけで心のどこかで喜ぶあたしがいる。
…まだ何もかもを信じた訳じゃないけど、この人があたしを好きで、あたしがこの人を好きだったって事だけは信じようかと思えた。
こんなに胸が苦しくなるくらい、前のあたしはこの魔王が好きだったんだから。
翌日、昨日見た医者が来て色々と検査をしてもらったけれど特に異常は見られなかったらしい。
記憶がないのは毒が強過ぎて、そのショックで一時的に忘れてるだけとか。
こういうのは大抵ふとした時に思い出すからあまり気に病まないように、なんて言われた。
ラオも生きていてくれただけで嬉しいと微笑した。
色々な人がお見舞いに来てくれて、気にするな、死なないで良かったと言葉をかけてくれる。
その人たちの事も思い出せなくて申し訳なくも思った。
だけど誰もその事を責めないでくれて、自己紹介してくれた。
あたし付きの侍女もいるらしく、その人たちが眠っている間も毎日全身をマッサージしてくれたお陰で多少のダルさはあるものの問題なく体も動かせる。
厨房を仕切る料理長は三日間も眠ってたあたしのために消化が良く栄養のある食事を作ってくれた。
早く、思い出せたらいいのに。
そんな思いとは裏腹にあたしの記憶は二日経っても三日経っても戻らなかった。
前と同じ生活をしていれば戻るんじゃないかと、ラオと一緒のベッドで寝て、執務について行って、お茶をしたり散歩をしたり、勉強もし始めた。
だけどやっぱり記憶は戻ってこない。
それでも良いと優しい魔王は言ってくれるけれど、あたしは嫌だった。
こんなに優しい人達のことを忘れたままなんて。
結婚するくらい好きだったクセにどうして忘れちゃったのよ。
寝室のベッド脇にある小さな棚の上、大切そうに置かれた折り紙のバラ。
片方が綺麗で、片方は少し不恰好なそれを眺めながら溜め息が零れる。
どうやったら思い出せるのかしら?
ラオの事を好きになったとしても、記憶を取り戻さなければ結婚できない。
何故かそんな気がした。
抱き締められて、後ろから聞こえて来る規則正しい寝息に耳を傾けながらあたしはそっと目を閉じた。