甘い毒牙(14)(side:L
あの夜会から三日が過ぎた。
美緒は相変らず眠っていて、起きる気配は未だ無い。
侍女が日に三度マッサージを行い目が覚めてからも動けるようにと甲斐甲斐しく世話をしている。
ラオも何度も部屋を訪れては様子を見たり減った分の魔力を与えたりした。
執務の間にも何度か抜け出したが側近はそれを咎めることはしない。
まるで城中が眠りに付いてしまったかのように静まり返っている。
いや、元々がこうであり、美緒が来る前はこれが当たり前であった。
なかなか目覚めない美緒を心配して魔兵団の団長と副団長が花を持ってきたり、料理長は何時目覚めても良いようにと毎日三食分の食事を用意したりしている。
しかし美緒はぐっすり眠ったまま。
顔色はもう良くなり、見た目にも問題は無さそうだが起きない。
気を紛らわすように美緒の見舞い以外の時間を執務に費やす魔王に、側近や医師長が休むよう進言してみても聞く耳は持たれなかった。
穏やかな午後の日差しが差し込む部屋にラオが足を踏み入れる。
ベッドの上で相変らず寝息を立てている恋人に触れた。
「…一体、何時まで寝ているんだ…リア。」
普段から朝は自分の方が早く起きていて、彼女はよく昼寝もしていた。
だが今回は随分と寝過ぎじゃないか。
早くその黒い瞳に自分を映して欲しい。
何時ものようにキスで魔力を注ぎ込んでいると不意に美緒の唇が動いた。
ハッとして顔を離し、様子を伺っていれば睫毛が震える。
目覚めの予兆を感じ取ったラオは侍女に医師長を呼ぶように言いつけ、数分して慌てた様子の医師長が部屋に訪れた。
皆が見守る中、震えていた睫毛がゆっくりと動き、瞼が持ち上がる。
「…リア。」
ぼんやりと焦点が定まっていない瞳に声をかければ、ゆっくりと己の顔を見つめてくる。
それだけで胸の奥が熱くなった。
なのに、何故か焦点が合った瞳は酷く驚いた様子で見開かれ、周囲を見回し、困惑と不安を滲ませて視線を彷徨わす。
震える声で紡がれた言葉にラオは愕然とした。
「…ココ、どこ?」
それは初めて美緒を城へ連れて来た時に聞いた言葉と一字一句違わないものだった。
先に衝撃から立ち直った側近がすぐさまラオを部屋の外へ促し、医師長に美緒の診察を頼む。
気が付けばラオは廊下に佇んでいた。
扉の向こうからは微かに話し声が聞こえる。
…如何いう事だ。一体何が起きている?
混乱する頭を落ち着かせるように詰めていた息を吐き出した。
少しして部屋から医師長が姿を表す。
「如何いう事だ。」
ラオの問いかけに医師長は目を伏せて報告した。
「恐らく毒が強かったのでしょう。そのせいでリールァ様の記憶が飛んでしまわれたのかもしれません。」
「記憶喪失、という事か?」
「えぇ。幾つか質問をさせて頂きましたが、どうやら城へ来る以前の記憶しか今は無いご様子です。」
つまり彼女の中で己との関係が消えてしまったということか。
足元が崩れていくような感覚にラオの体が一瞬揺らぐ。
側近が咄嗟に支えたものの、真っ青になった顔色は隠しようもなかった。
もう後一月もすれば婚姻出来ると思っていた。
漸く愛する人と添う事が出来ると思っていたのに……こんな事など在るだろうか?
震える息を吐き出したラオに医師長が言う。
「王、リールァ様の中から貴方様の記憶が失われた訳ではありません。忘れておられるだけなのです。こういった場合、何かふとしたきっかけで記憶が戻るという事がよく御座います。…どうぞ諦めないで下され。」
「…あぁ。」
「では王はリールァ様の下へ。誰もよりも不安を感じているのはリールァ様ご自身でしょう。王より御説明を…傍に付いて差し上げて下さい。」
「分かった。」
頷き、医師長と側近の視線に背を押されるように部屋へ戻った。
そこにはベッドの上で上半身を起こして座っている美緒がいて、ラオが入って来ると振り返り、ジッと見つめてくる。
何時もと変わらず真っ直ぐに見つめてくる透き通った黒い瞳に心が凪いだ。
…そうだ、何を怯えている。
例え美緒の記憶が無くなったからと言って、彼女が彼女で無くなる訳ではない。
記憶がないならまた一から積み上げれば良いだけの事ではないか。
彼女にも己にもそれだけの時間は充分に在る。
侍女がベッドの脇に椅子を置くと、一礼して退室した。
部屋の中にはラオと美緒だけが取り残される。
「名乗りから始めなければならないな。…ラディオスだ。ラオと、そう呼んでくれ。」
椅子に座り、口を開けば自然と穏やかな声が出た。
美緒は少し戸惑ったようではあったが、すぐに名を告げてくれる。
「あ、あたしは美緒…あの、ここは?」
「俺が住む城だ。美緒がいた世界とは異なる次元にある世界の、だ。」
「異なるって…、」
「一から全て説明しよう。」
己が幼い頃に美緒と出会った事も。
十八の生誕日に迎えに行った事も。
楽しそうにお茶会をして、インキュバスに襲われそうになって、魔族の学校見学をして、恋人同士になって。
面倒な勇者が城を壊して、自分の許婚を見た美緒が父と共に城を出て行って、勾引かされて、助けて、生の誓いを交わして、夜会を行って。
そうして毒を盛られて倒れたのだと。
彼女の質問に一つ一つ答えながら、時間をかけてゆっくり全てを伝えた。
今の己に出来る事などそれくらいしかない。
今までの己の記憶を在りのままに伝える事しか出来ない。
全てを聞き終えた美緒の反応に恐れながら、それでも手放す事なんて不可能なのだ。
考え込むようにシーツへ視線を落とす美緒のつむじを見つめながらラオは静かに彼女を待った。