甘い毒牙(13)(side:L
血の気を失った顔、小さく震える体、驚きに見開かれた黒曜石の瞳。
伸ばされかけた細い腕が力無く体と共に傾いで行く。
音の消えた世界でスローモーションでも見ているかのようにゆっくりと倒れる美緒の姿に、ラオは無意識の内に瞬間移動を発動していた。
「リアッッ!!!!!!」
床と接触する直前で如何にか抱き止めた体は酷く冷えている。
しかし美緒は苦しげに幾度も咳き込み、口元からはヒューヒューと空気が通る音がした。
ラオは躊躇う事無く口付け、そこから直に魔力を注ぎ込み、美緒の中にある己の血と同調させて回復を図る。
唇を離せば先程よりはだいぶ楽に息を吸えるようになった美緒が、それでも喘ぐように浅く呼吸を繰り返していた。
ペロリと己の唇を舐めれば舌先に残る甘みと覚えの在る酸味に眉が顰んだ。
怒りがラオの中で込み上げる。
魔王の激流と化した魔力がダンスホール全体に広がり、力のあまり無い下級貴族の何人かが一瞬にして気絶し、誰もがハッと息を詰めた。
「……キアラン。」
名を呼ばれた側近が音も無くラオの下へ赴く。
「既に医師は手配致しております。どうぞリールァ様の私室へ。」
「あぁ。」
そっと、それこそ振動すら起こさない程丁重にラオは美緒を抱き上げた。
痛みになのか、それとも苦しみになのか、眉を寄せて辛そうに息を繰り返す美緒に側近は微かに奥歯を噛み締める。
紅い瞳がサッとダンスホールにいた貴族達の上を流れて行く。
「我が花嫁に手を出すとはふざけた事をしてくれたものだ。」
吐き捨てられた言葉に誰もが体を震わせた。
そんな貴族達から視線を外し、ラオはすぐさま美緒の私室へと瞬間移動する。
出来うる限り小さな体に負担が掛からないよう細心の注意を払ってベッドへ寝かせれば、脇に控えていた侍女と城の医師が数人がかりで美緒を容態を確認していく。
ラオはその様子を確認すると部屋を出た。
傍に居たかったが、それでは医師達の邪魔となってしまう。
誰よりも力は強いくせに愛する恋人の一人も助けられないとは魔王が聞いて呆れるではないか。
感情のままに拳が壁に叩きつけられれば石の壁にヒビが入り、表面が崩れていく。
生まれてから二百と五十余り生きて来たが今程怒りを感じた事はなかった。
全身の血が沸騰しているのではないかと思えるくらい魔力がザワついている。
ダンスホール(あの場)に少しでも長く居ては貴族全員を手にかけてしまい兼ねなかった。
怒りと同時に後悔の念も溢れる。
何故一人にしてしまったのだ。
何故あの時連れて行かなかった。
他の貴族に美緒を紹介したくないという己の嫉妬を優先させたばかりに、此のような事が起きてしまったのではないか。
扉越しに慌ただしい声と足音が聞こえて来る部屋を見つめる紅い瞳は激情の色が消え、ただただ不安の色が滲んでいた。
「……リア、死ぬな…。死なないでくれ……。」
呻くように呟かれた言葉はあまりにも悲痛な懇願で。
黒い髪に隠れたラオの頬からポタリと雫が一滴伝い落ちる。
戻って来た側近はそれを見て、一瞬歩み寄るか否か戸惑い、しかしラオの横へ立った。
「…王、」
控えめに頬へ当てられたハンカチに漸くラオは側近の存在に気付く。
だがハンカチを手に取る事は無く、地面に視線を落としたままピクリとも動かない魔王に側近は心が痛んだ。
愛する人が死にかけているのだ。不安と恐怖で微かにその手が震えている。
「不安かもしれませんが、御心を強く御持ち下さい。リールァ様を信じて差し上げましょう。きっと、必ずや王の下へ帰ってらっしゃいますよ、彼女は貴方の妻となるべき方なのですから。」
のろのろと見つめてくる紅い瞳に側近は小さくわらいかけた。
同時に部屋の扉が開き、医師達が出て来る。
視線を滑らせた魔王に初老の医師長がしっかりと頷いた。
「陛下が魔力で治癒力を高めて下さったお陰で、御命を犯されるような事態は回避出来た様です。ですがリールァ様は人間であらせられます…体へ多大なる負担がかけられ、恐らくお眠りになるでしょう。」
「…そうか。ご苦労だった。」
「いいえ、苦労だなどと…。話はお聞き致しました。突然の出来事でしたが、陛下の迅速な行動でリールァ様は御命を守られたのです。リールァ様をお助けになられたのは貴方様ですよ。私はそのお手伝いをさせて頂いたに過ぎません。」
医師長は労わるように言葉を紡ぐと深く一礼をしてラオと側近の前から去って行った。
側近に背を押され、部屋の中へ入る。
背後で静かに扉が閉められた。
部屋の中はシンと静まり帰っていた。
ベッドへ歩み寄れば美緒が静かに寝息を立てている。先程よりも顔色は良くなってはいるものの、やはりまだ青白い。
触れた頬は温かく、倒れた時のような冷たさは微塵も無い。
―――生きている。
静かに上下する胸元が、温かな体温が、呼吸する音が。
愛する人の生を証明していた。
「…美緒っ…!」
駄目かと思った。
共に生きて行こうと誓い、生の契約も交わした。
だが美緒は元々人間であり魔族よりもずっと身体が弱く、例え生の契約を交わしたとしても身体や脳へ酷い損傷を受ければ助からない事もある。
魔力を与えた時に舌に感じたあの独特な酸味は甘い毒牙と呼ばれる毒薬だった。
プレシーと呼ばれるエルニに良く似た果実を実らせる木の花から作る事が出来る毒で、手間がかかるものの、毒性のかなり強い種類だ。
魔王であるラオとてその毒をグラス半分も飲めば死に至るであろう。
それ程に強い毒を人間の体を持つ美緒が一口でも飲めば如何なるか…。
死ななかった事の方が不思議なくらいである。
そっと口付け、呼吸を邪魔せぬよう気を付けながら美緒へ魔力を移した。
目を覚ますまで食事も出来なければ体は弱る一方だ。それを防ぐために入れられるギリギリまで己の魔力を注ぎ込んでから顔を離す。
こうして目覚めるまで何度か魔力を与えていれば、美緒の体が弱らず、起きてから体が全く動かないという事態も避けられる。
ベッドの縁に腰掛け、小さな手を握った。
力無く投げ出されていたその手を己の手で包み込み、指先にキスを贈る。
頬を伝い落ちる温かな雫に気付かないフリをしたままラオは何時までも美緒の傍に居た。