甘い毒牙(12)
それはまるで童話の中のような光景だった。
薄い黒のカーテン越しに見えるダンスホールには美しい音楽が流れ、それに合わせて色取り取りのドレスに身を包んだ女性と燕尾服を着た男性が踊っている。
別の場所では人々が楽しげに談笑し、侍女たちが忙しそうに動き回り、侍従たちがダンスホールの内外を警備していた。
あたしはそれら全てを見渡せる王の席に隠れている。
ここは薄いカーテンで中が見えないようになっていて、けれど中からは外の様子がよく見えるようになっていたため時間になるまでこの空気に慣れようとあたしは少し前からここにいた。
心の中で何度も大丈夫だと言っても心臓はドキドキうるさいし、緊張し過ぎて体が震えている。
いつもの気の強さはどうしたあたし!
なんて小さく呟いていれば小さな笑い声と共に温かな体温に後ろから抱き締められた。
「不安か?」
「不安っていうか…こんな大勢の前に出るなんて初めてだし…。」
独り言を聞かれた恥かしさと本音を混ぜて言えば、そうかと苦笑される。
魔王の花嫁って実はあんまり喋らなくてもいいらしい。
まぁ、ラオ自身結構嫉妬心が強いから他の男の人と話したりできないし、花嫁は基本的に魔王のもので、王妃でもある訳だから元々話しかけてくる貴族もほとんどいないとか。
それはラクだけど少し寂しい気もする。
今回に限ってはそれは好都合だけど何度も夜会があるなら何時までもだんまりじゃ困るだろう。
いつかは絶対に話さなきゃいけない。
だけど今だけは勘弁して欲しい。まだまだあたしはこの世界も、この国も、魔族のことも勉強途中だから自信もない。
「心配無い。リアは笑っていれば良い。下手に口を利けば煩い奴らが来るだけだ。」
「うん…転びそうになったら支えてね?」
「ククッ、心得た。」
可笑しそうに笑って、ラオが頬を撫でてくる。
壊れ物を扱うようなその仕草を感じる度に、大切にされているんだと分かって恥かしくなる。
けれどそれ以上に嬉しくも思う。
この貴族の人々の中にはあたしをよく思わない人も沢山いて、勿論中には祝福してくれる人もいて、考えが合わないのも仕方がないのかもしれない。
でもいつかは分かってもらえるよう、受け入れてもらえるよう努力していきたい。
認めてもらえるまであたしは足掻くわ。
好きな人と一緒になるためだもの。
抱き締めて来る腕にそっと自分の手を添えれば殊更強く抱き締められる。
「緊張しなくなる呪いだ。」と子ども騙しみたいなことを言いながら、ラオにキスされた。
あたしだって子どもじゃないんだから。でも、そういう嘘なら騙されてもいいかもね。
胸はまだドキドキと高鳴っていたけれど、体の震えは何時の間にか治まっていた。
キュッとまた強く抱き締められていると控えめに側近が御時間ですと告げる。
ラオの大きな手にあたしの手が包まれた。
少し強めに握り返せばしっかり指が絡み合う。
王の座から少し張り出したテラスに出れば、それまで流れていた音楽が止み、ダンスや談笑を楽しんでいた人々が顔を上げてこちらを見た。
「今宵はよく集まってくれた。一人も欠ける事無く訪れてくれた皆に感謝する。此の度の夜会は我が妻となる花嫁を皆へ紹介するために開いたものだ。…リア。」
「…はい。」
呼ばれて一歩前に出て、淑女の礼を取る。
あたしを見た貴族たちはやっぱり驚く人や、眉を寄せる人、喜ぶ人と多種多様な表情を浮べていた。
人間であるあたしが魔王の花嫁だなんて嫌がられるかもしれない。
だけどラオのことが好きだって気持ちに嘘はないから。
俯いてしまいそうになるのをグッと堪えて顔を上げる。
どんなに否定されてもあたしは絶対に逃げたくない。
震えそうになる足を叱咤して真っ直ぐに貴族たちを見返していれば、ラオに優しく肩を引き寄せられる。
「彼女は人間だが、既に我と契約も済ませ、互いに生涯添い遂げる事も誓い合った。一月後には婚姻の儀も執り行なう予定だ。」
それからラオは今日は祝いの日だから心行くまで楽しんで欲しいみたいなことを言ってあたしの紹介は終わった。
なんて言うかあっさりし過ぎてる気がする。
でもこれくらいが普通らしい。そもそも花嫁は魔王のものだから、事細かに色々言う必要もないとか。
テラスからダンスホールに降りる頃には音楽が流れ、人々は各々ダンスや会話に戻っていた。
それでも多少の視線は感じたが気付かないフリを決め込む。
「一曲踊らないか?」
差し出された手に迷いなく自分の手を重ねればグイッと腕を引かれる。
そのままダンスの輪の中に混ざり、曲に合わせてラオがリードしてくれた。
リヴィアが‘王はダンスも上手いよ’と言っていたが本当だったらしい。
まるで羽が生えたように体が軽くなってクルクルと足が自然にステップを踏んで行く。
踊っているとラオが「随分上達したな。」って褒めてくれて、それが嬉しくて笑みが零れた。
結局、二曲三曲と疲れるまで踊り続けたあたしたちはその後ダンスの輪から外れて休憩することにした。
ソファーに座って、通りかかった侍女に飲み物を頼む。
ラオは側近に呼ばれてしまった。
「あたしも行った方がいいかしら?」
「否、リアは此処で休んでいてくれ。」
「ん、分かったわ。」
額にキスを一つして貴族の方へ行ってしまったラオの背中を何となく見つめる。
と、横からスイと静かな動作でグラスが差し出された。
顔を上げれば侍女が佇んでいる。
「ありがとう。忙しいのにごめんね。」
「いえ、御気になさらないで下さい。」
シャンパングラスによく似たそれには淡いピンク色の可愛い飲み物が入っている。
香りを楽しむと桃のような甘い匂いが鼻を掠めていった。
一口飲めば炭酸だったのか口の中でシュワリとした感覚が広がり、仄かな甘みと少しの酸味が程好い。
「美味しい。…これ何ていうの?」
「エルーニャと申します。エルニという果実から作られたアルコールの入っていないものです。」
「そう。飲みやすくていいわね。」
またグラスに口を付けていれば侍女は他の貴族に呼ばれてしまった。
料理や飲み物の配膳をしていたのに、どうやら邪魔してしまったらしい。
仕事に戻ってと促せば深く礼をして足早に人込みの中に消えていった。
視線をラオへ戻せば丁度紅い瞳もタイミングよく振り返って、視線が重なる。
傍に行こうと立ち上がった瞬間、グラリと世界が歪んだ。
「ぁ…、?」
体の中は熱いのに、肌が凍えるように寒い。
まるで全身の血がなくなったように体が震える。
手から滑り落ちたグラスが床に落ちて砕け散ったが、その音すら酷く遠くのことのように聞こえた。
真っ青な顔をしたラオがこちらへ駆け寄ってくるのが見えた。
喉が痛い。息をする度に焼け付くような激痛が走る。
ラオの名前を呼びたいのに声は出て来ない。
ただ空気の抜ける音が微かにして、体が傾いでいく。
……倒れる。
フェードアウトしていく意識の中でラオの叫び声だけがやけに鮮明に耳に届いた。
「リアッッ!!!!!!」