甘い毒牙(1)
あたしとラオが執務室に戻ると側近が酷く驚いた顔であたしを見た。
無理もないわね。本来は結婚してからするはずの事を先にしちゃったんだもの。
「王!如何いう事ですか!!」
側近に詰め寄られるラオがさすがに可哀想で二人の間に分け入る。
「いいの、あたしが決めたことだから。」
「ですが…、」
「あたしはラオやみんなと一緒に生きたいの。」
はっきり伝えれば側近は困ったような、少し嬉しそうな、複雑な表情を浮べた。
何度か口を開けたり閉じたりした後に側近はややキツい眼差しであたしを見つめる。
「リールァ様、其の契約を成されたという事はもう後戻りは出来ないのですよ?」
「しないわ。あたしはこの先ラオ以外とは結婚しないもの。」
ソファーに腰掛けたまま抱き付いてくるラオの腕を撫でながら言えば、嬉しそうな声で頭上から名前を呼ばれた。
そんなあたしたちの様子に側近は寄せていた眉間の皺を解すように指を当てて、はぁと溜め息を零す。
御願いですから事後報告だけは御止め下さい。
ちょっと疲れた声音と呆れの含んだ視線にラオとあたしが一緒に頷く。
胡乱げな目は最後に一度目を閉じると深い溜め息の後に開かれる。
その時にはもう先ほどの疲労の色も呆れの色も消え失せていた。
翌日の予定を話し出す側近とラオの会話をぼんやり聞き流しつつ、あたしの頭の中は全く別のことでいっぱいだったりする。
…ドレス着て社交ダンスなんて踊れるかしら?
こちらに住み始めてからはドレスを着る機会も増えたけれど、だからと言ってあの裾の長いドレスを着たままヒールを履いてダンスなんて出来る自信がない。
今でもたまに裾を踏んで転びそうになったところをラオに支えてもらうときもある。
……不安だわ。
明日から始まるダンスレッスンに溜め息が漏れた。
すると大きな手が綺麗な指の腹で頬を優しく撫でて行く。
「如何した、リア?」
顔を上げるとラオと側近が不思議そうにあたしを見ている。
ダンスレッスンが不安なの、なんて言えなくて何でもないと笑っておく。
別にラオに心配かけたくないとか言うんじゃなくて、ただ単にあたしの意地というか、恥かしいから黙っておくだけ。
ラオは少しのジッと見つめてきたけれど、あたしが何も言わないことを悟ると手を頬から頭へ滑らせて髪を梳くようにそっと撫でてきた。
とりあえず心の隅っこでモヤモヤしている不安を無視してラオに寄りかかる。
腕が腰に回ってより近づけるように抱き締めて来る。
夕食は珍しく食堂ではなくラオの私室で摂り――これは多分動けないあたしへの配慮なのだろうけど――、ラオはあたしを浴室まで抱き上げて来て、侍女にバトンタッチ。
ビックリすることに侍女はみんな力持ちだ。
あたしがそのことについて聞くと彼女たちはカラリと笑った。
「リールァ様は人間であらせられますが、私共は魔族でございます。体の造りも強固さも似て非なるものなのですよ。」
つまり、あたしは人間で彼女たちは魔族ということ。それは例えあたしの寿命が延びても変わらないってこと。
結局あたしの体は人間のままだからいきなり腕力や脚力が上がる!なんてことはないらしい。
数人がかりで体を洗われると今日は小さめのバスタブ――それでも普通の風呂よりは大きいと思う――でのんびりと湯船に浸かる。
その間に侍女があたしの髪を洗い、水分とタオルで拭き取ると綺麗に包んで湯に付かないようにしてくれた。
一人になれるよう侍女が浴室から出て行くとバスタブの縁に頭を乗せてホッと息を吐く。
「…社交ダンスかぁ。」
本当に踊れるかしら…?
高校生で社交ダンスなんてする訳もないから、全くのド素人なんだけど。
ふぅ…と思ったよりも重い溜め息が零れ落ちた。
お湯に浮かぶ赤い花を指先で弄んでいると浴室の扉が開く軽い音が響く。
侍女はあたしが呼ぶまで入って来ないはず。
誰?と振り返ってギョッとする。
「ラ、ラオ?!」
腰にタオルを巻いただけのラオがスタスタと歩いてくるではないか。
どう見ても入浴する格好にしか見えないのだけれど、今のあたしはタオルなんて巻いてないし、傍に一応タオルはあるが巻くためにはどちらにしても一度バスタブから出なければならない。
湯船に花が浮いていて良かった。
沢山散りばめられた花や花びらのお陰でお湯の中はほとんど見えない。
それでもやっぱり恥かしくて胸元を隠し、バスタブの中で丸くなる。
「こらっ、何で入ってくるのよ?!」
「入りたかった。」
「そういうことを言ってるんじゃないの!!」
傍で体を洗い出すラオに文句を言ってもどこ吹く風。悪びれた様子もなくモコモコと泡立ったスポンジみたいなもので若干遊びつつ洗っている。
もう恥かしがるような関係でも無いだろう。
なんて平然とした顔でのたまった。
確かに昨夜は、まぁ、口に出して言うにはちょっと憚ることになったわ。
ラオに愛されたのは別にいいのよ。
問題はそういう雰囲気でもないのに一緒にお風呂に入るってこと!
言い返す言葉がなくてバスタブの中で小さくなってる間にもラオは体を洗い終えて、髪へ移る。手早くそれも終えるとあたしの方に振り向く。
これは十中八九入ってくるつもりね…。
パッと後ろ向きになればちゃぷんと水音がして水面が揺れ、ラオが入って来たことを告げる。
一生懸命離れようとするあたしの努力も空しく、逞しい腕にグイと引き寄せられて、ラオの膝の間に収まった。
首筋に顔を寄せてスンと鼻を鳴らしたラオは低く笑う。
「首まで真っ赤だな。」
「っ、ラオ!いい加減に…っ」
顔を上げた瞬間、唇が重なり、ちゅっと可愛いリップ音を立てて離れて行く。
…もう、本当にやめて…。
上機嫌なラオとは裏腹にあたしの心臓は鼓動が早くなり過ぎて死んでしまいそうだ。
諦めて寄りかかれば肩をぎゅっと抱き締められる。
子どもっぽいクセにふとした時に男なんだと思わされるから、心臓に悪い。
肩からするりと下りて行く手を思わず叩いてしまった。
「リア、」
「ダメ、絶対ダメ。明日からはダンスの練習があるのよ?また休ませる気??」
「………。」
「そ、そんな顔してもダメなものはダメよ!」
しょんぼりと悲しげに見つめられてウッと心が揺れる。
あの紅い瞳にあたしは滅法弱い。これは自覚してるけど直せるものじゃないのよね。
あたしが迷っている間にラオは何か思い付いたのか楽しそうな笑みを浮べる。悪人面に浮かぶニヤリとした笑みに嫌な予感がした。
「明日動ければ問題無い。」
「え?」
「安心しろ、負担にならないようにする。」
「ちょ、え、ぇえっ?!」
艶めいた動きで頬を撫でてくる手と、近付いてきたラオの唇によってあたしの抗議は掻き消されてしまった。