君の名を呼ぶ 勾引編(4)
――、――?
――――…、
「…?」
人の話し声にふと目が覚める。
薄暗い中にぼんやりと剥き出しになった石の床が淡い暖色の光を鈍く反射させていた。
…床?
パッと飛び起きたけれど地面に手が付けられなくて前方に倒れ込んでしまう。
冷たい石の床は硬くて、オマケに土足だからかザラリとした感触まである。せっかくセスさんにもらった服もきっと汚れてしまっているだろう。
何で手が思うように動かないのかは一目瞭然だった。
親指くらいある太い縄でガッチリ縛り上げられていた。
驚きに縄を見つめたあたしに男の声が降りかかる。
「よぉ、目が覚めたか?」
顔を上げた先には蝋燭の明かりに照らされた男が愉しそうに金の瞳を細めて座っていた。
かなり色黒の肌に朱色の髪、ややタレてはいるものの軽薄そうな顔立ちの男はドッカリと椅子に腰掛け、両足を組んで机に乗せている。
その後ろには数人の男がいたけれど蝋燭の頼りない光では顔まで見えない。
そこで漸く目覚める前のことをあたしは思い出した。
セスさんと歩いていたら突然脇道に引きずり込まれて気絶したんだった…。
起き上がり、目の前にいる男を睨み付けてみても目を細めて笑うだけ。
「オマエ、触れで手配されてた女だろ?王に追いかけられるなんて一体何やらかしたんだ?」
机からグラスを手に取って飲み出す男の問いにあたしは首を振る。
「何もしてないわ。あたしは魔王の婚約者であり、契約者よ。ちょっと事情があって無断で城を出てたの。」
「…婚約者だぁ?」
男はジロジロとあたしの頭の先から足のつま先まで眺め、鼻で笑った。
「嘘言っちゃいけねぇな。オマエみたいな普通の女を王が相手するとは思えねぇ。」
悪かったわね、顔も体型も平凡で。
イラッとしたけれどココで下手に噛み付いて男の機嫌を損ねる訳にもいかない。
もし触れを見てあたしを突き出すつもりで捕まえたんだったら既に終えて、男は報奨を得ているはずだ。
だが男はあたしを手元に置いている。もしかしたら売るつもりなのかもしれない。
…ご飯にされちゃうことはないとは思うけれど。
魔族の中には人間を食料にする種もいると本で読んだことがあった。
「契約の印もあるわ。」
縛られた両手で何とか服の胸元を開けて痣を見せる。
なのに男は興味なさげに視線を寄越し、あっさり逸らしてしまう。
「そんなもん刺青すりゃいくらでも騙れんぜ。」
「…そうかもしれないわね。でもこれが偽物だって言い切れる証拠でもあるのかしら?」
「何?」
ピクリと男の眉が動く。
言い返されると思わなかったのか見つめてくる瞳は鋭い。
グッと上から押し潰されるような感覚が全身を襲うけれど、あたしは口を開いた。
「あたしが本当に魔王のものだったら?売るなり殺すなりして、もしこれが本物だった場合…アンタはどうなるかしらね?」
「………。」
「赦してもらえるかしら?」
本気でキレたラオを見たことはまだない。でも側近からの話だが以前貴族の女の人がすり寄って来たときに、警告もなしにその人の手首をヘシ折ったことがあったと聞いた。
元々は冷酷非道と謳われるくらいなんだからキレたらどうなることやら。
少し触れられただけでソレなのだから婚約者であり契約者であり、恋人であるあたしが売られただとか、死んだなんて聞けば腕の一本二本じゃ済まないだろう。
男は少しの間沈黙した後、チッ…と小さく舌打ちをした。
「賢い女だぜ。…確かにそれが偽物だって証拠を俺は持ってねぇ。」
もちろん、あたしも本物だと言える証拠は持っていない。
つまり真偽は分からないのだ。
普通の人々や貴族ならまだしも魔王の伴侶かもしれない可能性を持つあたしを、この状態でどうこうするには真実だった場合のリスクが高すぎて男の分が悪いはず。
男は机から足を下ろして立ち上がり、あたしの目の前まで来て顎をグイと掴み上げた。品定めするように左右に動かされ、男が後ろにいた男たちに言う。
「王の婚約者を調べて来い。」
命令に野太い声がいくつか返事をして部屋を出て行く。
顎から手を離した男は座り込んでいたあたしをいきなり担ぎ上げる。
「なっ、ちょ、何すんのよ?!」
いわゆる俵担ぎをされて暴れると投げ落とすぞと脅され、動けなくなった。
あたしに見えるのは男の足と下の方にある石の床。地面やフローリングならまだしもゴツゴツした石の上に落とされるなんて堪ったもんじゃない。
硬直したあたしを笑いながら男は歩き出す。
部屋を出て、同様に暗い廊下にしてはやや狭い通路をスタスタと歩く。
…うっ、肩がお腹に食い込んで痛い。
揺れるたびに鈍く痛むのでパシパシと男の背を軽く叩いた。
「肩が食い込んで痛いわ!」
「あ?…あぁ、」
気付いたのか男がヒョイとあたしを抱え直す。すると腹部に当たっていた肩が上手い具合にズレて痛くなくなる。
人攫いのクセに妙に優しいじゃない。
運ばれるまま移動した先にあったのは通路よりも暗い部屋だった。
狭い。それに蝋燭が一本しかなく酷く暗い。窓もない部屋は空気が濁り、じっとりと湿気ている。
簡素なベッドにポイと投げ出され、起き上がる前に男が馬乗りになってきた。
これはヤバイ。感じた危機感に足へ力を入れようとしたけれど男はベッド脇にあった重たそうな手枷をあたしの両腕に嵌める。
互いが鎖で繋がっているため肩より両手の間は開かない。
次に履いていた靴を脱がされ、右足にも枷が嵌められた。
そうして懐から取り出したナイフであたしの両手首を縛る縄をザックリ切り落とす。
「オマエの言葉が嘘か本当か分かるまで、大人しくしてるんだな。」
あたしの上から退いた男はそう言う。
「本当だったらどうするつもり?」
「そうだな、王の契約者として売るのも良いな。高値で取引できる。」
「…嘘だったら?」
「俺を騙そうとした罰に抱き潰してから変態貴族に売り付けてやるよ。」
何それ。どっちも売り飛ばされるんじゃない、あたし。
ジットリ睨むけれど男はあっけらかんとした表情で、俺ぁ嫌がる顔を見るのが好きなんだ。なんてどうでもいい情報を言いながらうっそりと笑った。
ラオが冷酷非道なら、コイツは外道だわ。
厚い木の扉から男が出て行くとすぐにガチャリと鍵がかかるような音がする。続いて扉にある格子が嵌め込まれた小さな小窓から「外に出すんじゃねぇぞ。」という声が聞こえてきた。