君の名を呼ぶ 勾引編(3)
半日も経たぬ前に別れた声の主にセオフィラスは振り返った。
美しく着飾った何人もの女たちの中でも、その主だけは別格の如き美貌を持っている。
差された傘の下から覗く艶やかな顔立ちにふっと息を吐く。
「あぁ、少々厄介な事態に陥ってしまってな。」
「そう。……さっきまで一緒に居たあの子はどうしたのかしら?」
艶のある瞳がセオフィラスの周囲を一周眺めて問う。
まさにその事で話があったのだと告げた彼に彼女は思い切り眉を顰めた。
ありありと伺える不機嫌な色に苦笑しつつ、傍にいた女たちを散らし、彼女へ歩み寄る。
「実は連れが勾引かされてしまってな。此の辺りでそういった事を生業にしている者がいないか聞きたかったのだ。」
「何で私があの子のために?」
「そう言うてくれるな。あれは息子の大切な花嫁なんだ。」
「…恋人じゃなかったの?」
驚いた表情で見つめてくる彼女に、そんな風に見えたか?と聞けば「だってとても甘やかしていたじゃない。」と軽く肩を竦めて返されたセオフィラスは小さく笑った。
実質息子と結婚してしまえば義理の娘となるのだから甘やかしたって構わないだろう。
ただそんな自覚がなかっただけに甘やかしていると指摘されたことにはセオフィラスは内心やや驚きを感じていた。
「訳あって息子が追い着くまで旅をしていたんだが、な…。」
「その子が攫われちゃって探すために情報を教えろ、って言いたいのね?」
「あぁ。話が早くて助かる。」
女は厄介な事に自分も関わってしまったと声をかけたことをやや後悔したが、だからと言って放っておけるほど冷徹な心も持ち合わせてはいない。
仕方なく肩にかかっていた髪を軽く払いながら彼女はセオフィラスを見た。
「分かったわ。協力してあげる。」
「恩に着る――…エミリア。」
彼女――エミリアを自身が泊まっている宿へと誘いながら、空を見上げれば先ほどよりも雨は激しさを増し、遠くでは雷光が光って見えた。
息子の怒りが強くなっていることに苦笑してしまう。
美しく着飾ったエミリアと共に宿へ戻れば久しく感じていなかった気配が階上から滲み出ていることに気が付き、もう着いていたのかと思い、成る程道理で天気がより酷くなった訳かと納得した。
もう息子は着いていたらしい。
訳を知らないエミリアは不思議そうにセオフィラスの顔を見た。
「どうかしたの?」
「いや、如何やら息子はもう着いたようだ。」
泊まっている部屋の扉を押し開ければ、部屋の真ん中に佇む影が一つ。
自分とよく似た、けれど違う顔立ちの息子が軽装に身を包んで自分を睨み付けてきた。
何も言葉は発さないが全身から溢れている怒気は隠しようもなく、自分の遺伝子を受け継いだ紅い瞳を見つめ返す。
背後にいたエミリアは突然全身を襲った怒気と計り知れない魔力の膨大さに腰が抜けてしまったのか、扉に縋り付いて何とか立っていた。
「………漸く来たか。」
唸るような声が部屋に響く。
「すまない。」
「其れはどちらに対する謝罪だ?」
「勿論両方だ。」
「…もしリアに何かあったら、其の時は其の首無いと思え。」
親子と言うにはあまりにも殺伐とした空気の中、エミリアは震える体を支えながら目を瞬かせた。
目の前にいる存在の大きさに圧倒されていたのだ。
普段ならばまだしも感情が高ぶって魔力の制御を怠っているラオから漏れるのは今までに感じたこともない程の魔力の量。
それは魔王の器でなければ在りえない量だった。
灰色の男と紅色の男を見比べて、ハッと息を呑む。
何故今まで気が付かなかったのだろう?
灰色の男の顔は幾度か見覚えがあるではないか。
式典、行事、王族の婚姻など、様々な場面で一度は目にする存在。
…前魔王陛下だった。
エミリアはすぐさま扉から離れると縺れそうになる足を叱咤しながら二人の足元に跪き、頭を垂れる。
「申し訳ございません、魔王陛下…大元王。知らぬとは言え無礼を御赦し下さいませ。」
王の前では跪くのが基本である。
彼女は知らなかったとは言えど礼を欠いた事には代わりはない。
額を地面に擦り付ける勢いで謝罪するエミリアにセオフィラスは苦笑して手を差し伸べた。
「余は隠居した故、今はただの旅人だ。息子とて今は王位を着ておらん。そう畏まる事は無い。」
「ご温情、心より感謝致します。」
促されるままに立ち上がったエミリアは改めて現魔王へ淑女の礼を取る。
「エミリアと申します。この街の娼館で働くしがない娼婦にございます。」
「何故此処に居る。」
「…私めのような者は体を売る事を生業と致します。ですがそれだけではございません。訪れた客より数々の情報を聞き出し、それを売る事もしているのです。」
「彼女は此の街一番と謳われている。情報が最も集まるのも彼女の下だと思って協力を頼んだのだ。」
そうか。そう返事をしたわりに不満そうな魔王をエミリアはチラリと見やった。
セオフィラスの言葉が本当ならば昨夜と今朝に少し見かけた、あの少女がこの魔王の花嫁になるのだ。
あんな極普通の人間がとも思ったが、それは自分が口を出す事ではない。
自分も浅はかとは言え勘違いをして少女に対して酷い態度を取ってしまっていた罪悪感もあり、協力することを承諾したのだ。
目の前で少女がいなくなった時の事を事細かに話している二人の男を見ながらエミリアは不覚にも少女を羨ましいと思う。
力も無い弱い人間の少女はこの世界の頂点に立つ男と結婚し、恐らく幸せに暮らすのだ。
娼婦に堕ちた自分とは大違いである。
それでも何故か少女を妬ましく思う気持ちはほとんどない。
あるのは最後に見た少女の驚いた顔と、楽しげに笑う無邪気な笑みだった。
(…いやね、情でも移ったのかしら?)
軽く首を振って考えを散らせたエミリアは今度こそ二人の会話に参加すべく、俯いていた顔を上げた。