繋がる痣(side:L
赤と青の月が照らす大地を一つの影が駆け抜けていた。
それは残像すら残すこともなく、一陣の風だけを後に残していく。
深紅の瞳で深い木々の先を見据えたまま普段とは違う軽装を身に纏わせたラオは、音もなく森林の中を走っていた。
残っていた執務を宣言通り一日でこなし、旅の支度を整えた彼は休む暇すら惜しいという風に城を飛び出した。
それから数日が経ったけれど一行に父親と愛する恋人に追いつく様子はない。
相手も全力で逃げているのだから当たり前なのだけれど、ラオにとっては全く以って面白くない。
触れを出したが予想通りほとんどの者が触れるどころか満足に追いつくことも出来ずに二人を取り逃がしていると聞き、呆れ半分喜び半分の気持ちだった。
多勢でもお前達は敵わないのか。
よくぞその数から逃げ切った。
一刻でも早く美緒をこの手に抱き締めたいという欲望と、自分以外の者が美緒を捕まえることなど解せんという相反する思いが胸の中で蠢く。
双月が西へだいぶ傾いた頃、漸くラオの足が止まった。
やや開けた湖は近くに生き物の気配もない。
…今夜は此処で休むか。
あまり食欲も湧かなかったラオはせめて水浴びだけでもしておこうと、己の着ていた軽装を脱ぎ捨てた。
地面へ放られた服は地に付く直前に風に攫われて近場の枝にふわりと引っかかる。
それすら気にした様子もなくラオは湖に足を踏み入れた。
ややヒンヤリとした水に知らず詰めていた息を吐き出す。
月明かりに照らされた少し浅黒い体は必要な筋肉のみが付き、引き締まった姿は細身ながらも美しい造形美を生み出している。
全身に薄っすらと広がっている傷の数々は、彼がこれまでに戦い、己を鍛え上げてきた証だろう。
少々乱暴な動作で水を被れば魔力によって銀色へ変えている髪が濡れて重みを増した。
彼の苛立ちや葛藤などを現すかのように水が飛沫を上げたけれど、それすらも鬱陶しいとラオは傍に寄っていた目には見えぬ水の精を手の一振りで追い返す。
たが酷く乱暴な動きとは裏腹に、己の胸元に触れた手は優しさに溢れていた。
筋張った指先がなぞるのは不可思議に絡み合い、連なった蔦の刺青。何かの文字にも絵にも見えるそれはラオにしか解読することが出来ぬ美緒との契約の印である。
美緒の名と契約時に交わした約束が描かれているのだ。
契約を交わした者同士の体には何かしらの印が現れる。
美緒の場合は魔王の紋章が刻まれたが、ラオの場合は美緒の名と契約内容が刻まれた。
体のどの部位に刻まれるかは契約の重要性によって異なる。
胸元…つまり心臓部に描かれているこの契約はラオにとって命を懸けた契約の証でもあった。
勿論この事実を知るのはラオ唯一人だ。父親も、側近も、美緒ですら知らないだろう。
心臓部に契約印があるということはラオはもうこれ以上の契約を結ぶことは出来ないということを意味している。ラオはこの契約によって寿命が尽きるまで縛られるのだ。
それを彼が後悔したことは一度もない。
むしろ、その契約印こそラオにとっては重要なものである。
それがある限り美緒はラオだけの契約者で、ラオは美緒だけの契約魔でいられる。
もしも美緒が他の魔と契約を交わそうとしてもラオよりも劣っている場合、契約は不可となるからだ。
触れた刺青はラオの体温よりも若干低く、けれど慣れた心地良い温度に小さく息を吐き出す。
契約印は契約者と繋がっている。
この印は美緒の胸元にある契約印と常に通じているのだ。
例え傍に居らずとも、常に共に在る。
特にラオが美緒と交わした契約は数ある中でも最も互いの繋がりが強く、最も縁の切れない契りだった。
もしも美緒が死んだとしても交わした契約は永遠にラオに残り、ラオが死んだとしても美緒の体に契約は刻みついたままとなる…決して消滅することのない契約なのだ。
互いは死んだとしても、何時でも傍に在る。
「…俺の心はお前の物だ、美緒。」
だからお前の心も俺に欲しい。
契約の印を残そうとも、もっとと願ってしまう浅はかな己にラオは乾いた笑みを浮べた。
頭を冷やすように全身を湖へ沈ませてしまえば無音の世界が広がる。
水面を照らす月明かりの美しさに、「あぁ、美緒にも見せてやりたい」などと思うのだから己はもう彼女なしではいられないのだろう。
彼女は人間で、己は魔王。
本来ならば相容れない存在だがそんなものどうでも良い。
彼女が傍にいるならば世界などいらない。
ただ‘美緒’という存在を愛している。
恋と呼ぶには醜く、愛と呼ぶには深過ぎる此の想いを治める術をラオは一つしか知らない。
愛する恋人を己の腕の中に閉じ込める。
それだけで全身を巣食う醜悪な感情は形を潜めるのだ。
…会いたい。会って、あの細い体を抱き締めたい。
己の心臓を隠すように刻み込まれた印を撫で、触れた指先に淡く口付けを落としながら、同じ空の下にいる愛しい恋人の姿を瞼に思い描き、震える唇から熱い吐息を吐き出した。