繋がる痣
昼間の騒々しさなどなかったかのように、ゆっくりとした時間が流れて行く。
少し涼しいそよ風が頬を撫でて行くのがとても心地よい。
目を閉じて森の空気を感じていたらセスさんに名前を呼ばれる。振り向くと食事の乗ったトレーみたいなものが目の前に差し出されていた。
「食べたら眠れ。明日は街まで一気に進む。」
「あ、はい。」
受け取って見るとフランスパンに似たものと、鍋で作っていたスープ、乾燥させたお肉など意外にもバランスのよい食事だった。
スープはかぼちゃっぽい味がしてまったり濃厚な香りで体も心も癒される。
はふはふと食べているあたしを余所にセスさんは手早く食事を済ませて焚き火の傍で横になってしまっていた。
食べ終えた頃には既に規則正しい寝息まで聞こえてくる。
…お年寄りは寝るのが早いって言うけど本当ね。
食べ終えた食器を焚き火の傍に置いてあたしも横になった。
とは言え簡単に眠れるわけでもないし、さっきまで寝ていたせいか目は思いっきり覚めてしまっている。
ぼんやりと空を見上げていれば思い出されるのはラオと想いが通じ合った日の夜、一緒に部屋のテラスから夜空を眺めたこと。あの時は欲しいものなんてないって言ったけれど、今なら欲しいものがある。
ラオの心が欲しい。
どんなに言葉や行動で表されても結局は不安になってしまう。
あたしってラオのこときちんと信じ切れてなかったのね。
自分から一緒にいるって言ったクセに…。
離れれば離れるほど傍にいたい気持ちは膨らむ一方で、傍にいたくないなんて一瞬でも考えてしまった自分を怒鳴りつけてやりたい気持ちになった。
横に置かれていた毛布を体に巻きつけ、目を閉じる。
瞼の裏には泣きそうな顔で見つめてくる紅い瞳がちらついて離れない。
…ごめんね、ラオ。
それでも素直に帰れない天邪鬼な自分が嫌になる。考えることを放棄して毛布にくるまってしまえば何時の間にかあたしは眠りに落ちていた。
「…全く、どちらも世話が焼ける。」
むくりと起き上がったセスさんが柔らかな微笑を浮べていたなんて、あたしは知るはずもない。
森の中を半日以上歩き、ようやく街に着いた頃には日もだいぶ西へと傾いていた。
宿をとったあたしたちは夜の街へとくり出すことになった。…正確に言うと部屋に閉じこもっていても暇だから遊びに行くぞとセスさんに引きずり出されたのだけれど。
夜の街はこの世界も元の世界もあまり変わらない。
綺麗な女性が道端で通りかかる男性に声をかけたり、しな垂れかかったりしてあの手この手で客を取ろうとするのだ。
特に美形なセスさんなんか引く手数多な引っ張りだこ状態だったりする。彼自身も満更ではなさそうな顔をするのが何だかすごく嫌な気分。
それを一歩後ろから眺めているあたしってなんか惨め。
「…そっか。」
セスさんと女の人たちが、ラオとシェリル嬢に重なって見えるからだ。
父親なだけあってとっても似てるから余計にそう思えてしまうのかもしれない。
嫌だなぁなんて距離を開けようとすればセスさんは目敏く気付いてあたしの名前を呼ぶ。
「ラナ、何をしている?」
「いーえー、別に。何でもありませんよ。」
周りの美女の視線が痛い。綺麗に着飾った彼女たちからすれば、どう見ても普通の街娘にしか見えないこのあたしがセスさんに気を向けられていることが気に食わないみたいね。
でもそれはあたしが悪いわけじゃないのに。
すごく損した気分になりながらも立ち止まって待つセスさんに歩み寄れば「離れるな。」と言うんだから本当にちょっとうんざりしてしまう。
その後セスさんは一番綺麗な女性を連れ宿へ戻った。
あたしは食事をしたけれど、彼らは食事もそこそこに部屋へ行ってしまった。
何も分からないほど純粋でも子どもでもないから、この後彼らが何をするかなんて簡単に想像できてしまって部屋に戻るのが嫌になる。
けれど一人へ下手にウロつけるわけもなくて結局あたしは部屋に戻ることになった。
幸いなことに部屋の壁が厚かったようで隣室の音も声も聞こえて来ないことにホッとしつつ、ベッドへ寝転がる。
シャワーを浴びなきゃとか、着替えなきゃとか頭では分かっているのに動く気力は残っていない。
…なんだか最近、あたしってばネガティブ過ぎる気がするわ。
変に苛立ったり怒ったり。ちょっとしたことで必要以上に神経を尖らせてしまっている。
思い返してみると何てことない出来事でもその時は心底腹立たしい気持ちなのだ。
考えてみても何故そんな風になるのか検討がつかなくて、堂々巡りになる一方の思考を霧散させるべくあたしは勢いよくベッドから起き上がった。
「お風呂でも入ってこよう。」
そうすれば今のこのモヤモヤした気持ちも多少はスッキリするだろう。
部屋にしっかり鍵をかけ、あたしは浴室に向かった。
着ていたワンピースや下着を脱いで浴室に入るとやや狭いけれど小奇麗な造りになっており、必要最低限のものしかないからか殺風景ながらも落ち着いた雰囲気だ。
コックを捻れば温かなお湯が降り注ぐ。森の中を歩いていたからか、お湯が肌に触れると一瞬深い木と土の香りが鼻を掠めていく。
備え付けの柔らかいスポンジで石鹸を泡立てて体を擦っていくと森の香りは消えて少し甘みを含んだ花の香りが浴室内に広がった。
ふと目の前にある鏡に映った泡だらけの自分を見てハッと息を飲んでしまった。
…痣が濃くなってる…?
ラオの契約者の証であり、婚約者の印である翼を広げたコウモリみたいなその痣が以前見た時よりも色を増している気がした。
侍女が入浴を手伝ってくれていたからあまり見る機会もなかったけれど、濃くなった痣は存在を主張するかのようにあたしの胸元にいる。
そっと触れると痣の部分は温かかった。
あたしの体温よりも若干高めで、そういえばラオも体温が高かったなぁなんて思い出すだけで不思議と心が穏やかな気持ちになった。
いつも、いつでも、ずっと傍に居る。
この痣がある限り何時でもラオと一緒にいるような気がした。
例え今は傍にいなくても、お互いに触れ合える距離にいなくても、心は常に共に在れたらいい。
「…大好きだよ、ラオ。」
可笑しいわね。こんなに離れているのに、会えない日々が一日一日と増えていく度にあなたへの想いも雪のように降り積もっていく。
ただこの気持ちは溶け消えることはなくて。
積もり積もって厚く、深くなっていく想いはあたしを不安にもさせる。
あたしが本当に傍にいて欲しいって思えるのはラオだけなのに。
彼もそう思ってくれていたら嬉しい。
熱いシャワーの雨を浴びながら、あたしはちょっとだけ泣いてしまった。